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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第9回 ~塩にまつわる「大移動」(その5)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

今回からは「塩のありかへの移動」についての事例をあげながら、第5回から前回まで続けてきた「塩にまつわる移動」について継続して考えていきたい。

「塩のありか」への移動

事例4 レンバタ島(インドネシア)タポバリ村の「山の民」の製塩


前回、事例3で紹介したレンバタ島(インドネシア)には、ラマレラ村の天日採鹹・煎熬法による製塩以外にも、煎熬はせずに、自然蒸発だけで結晶を得る天日製塩がみられるという。例えば、ラマレラの隣村のタポバリ村は、海岸から少し入った内陸の「山の民」の集落で、集落は内陸にあるのだが、海岸の入り江に製塩のための施設をもっている。施設といっても、直径10cm、長さ約2mの竹を半分に割って、内側の節と節の間を器としたものを、岩場の上に数本並べただけである。乾季を利用し、この竹の器に海水を繰り返し注ぎ足していくと、約1ヶ月で2cm程度の塩の結晶の沈殿が得られる。小規模で素朴な天日製塩だが、「山の民」の自家消費には充分な量になるらしい。

この事例では、「移動」は、明確な場面としては書かれていない。しかし、「山の民」としての生業を営む上では、日常生活圏(主たる生業に必要なエリア)の中に「海岸」が入っているとは考えにくく、集落も内陸にあるわけだから、「大移動」というほどではないにせよ、乾季の度に内陸から海岸まで「移動」しているのは間違いないだろう。そして、その「移動」の目的は、製塩だけであるかどうかは不明だとしても、少なくとも目的のうちの1つに製塩が含まれていることは疑いようがない。さらに、得られた塩は交易ではなく、自家用に使われるのであるから、「塩を得ること」そのものを目的にした移動であるといえる。つまり、この事例は、書いてあることだけをみるならば「製塩」についての事例だが、「移動」を切り口にして考えるならば、まぎれもなく「塩のありかへの移動」の事例なのである

この事例を、今回までの「塩をめぐる移動」についての議論のそもそもの発端となった第5回のターキンの事例と比べてみよう。ターキンは山に登り、タポバリ村の人々は海岸に降りるのであるから、「海」や「山」といった「地形」を基準に移動方向を考えるならば、ターキンとはまるで逆であり、一見、お互いの間に何の関係もない事象に見える。しかし、「塩をめぐる移動」という「見方」を入れて、「塩のありかか否か」を基準に移動方向を考えるならば、どちらも、不足している塩を補うための「塩のありかへの移動」という、全く同じものに見えるのである。大仰に「塩の人類史」などと言いながら、私が求めているのは、つまりは、このような「見方」をできるだけたくさん用意したい、身につけたいということなのかも知れない。

ターキンの場合でもタポバリの場合でも、「塩のありかへの移動」であるならば、「塩の必要性」を語る事例になり得るということがいえるだろう。その「必要性」には、生理学的な必要か、味覚上の必要かといった議論は残るとしても、「移動するのは、塩が必要だから」という図式にかわりはない。さらに、これらの事例を離れて考えれば、生理的でも味覚的でもないその他の必要性、例えば防腐剤としての必要性や、食用以外の用途での必要性に対してもこの図式があてはまる可能性がある。現在の日本の話で言うならば、ソーダ工業用など食用以外の必要性から、年間700万トン(総需要の約80%)もの塩を「輸入」しているが、言い換えれば、はるばるメキシコやオーストラリアまで「船で取りに行く」という「大移動」をしているとも言えるわけである。

食用以外の用途での必要性まで考慮に入れると話が複雑になるので、この連載の中では、食用以外の用途での必要性を積極的に扱うつもりはないのだが、いずれにしても、「塩のありかへの移動」を示して「塩の必要性」を語ることは、前々回前回の「塩の道」のような「塩のありかからの移動」を示して「塩の必要性」を語るよりも、有効だと感じられよう。にもかかわらず、前回にも述べたように、「塩のありかへの移動」の事例は、「塩のありかからの移動」のようには目につかないのである。

残念ながら、今回のタポバリ村の事例でも、不明なことが多い。例えば、「どのくらいの移動距離なのか」「移動するのは困難なのか容易なのか」「移動するときの集団は村全体なのか家族ごとなのか一部の個人なのか」「製塩に要する1ヶ月間はずっと海岸にとどまるのか集落から通うのか」といったより詳細な情報も、できることならば補っていきたいものである。「塩の必要性」を語るためには「塩のありかへの移動」の事例を示す方が有効だと思われる以上、せめて、前々回の「千国街道」や「野田塩ベコの道」のような「塩のありかからの移動」に見劣りしない程度の情報は欲しいところである。

このように書いてくると、私が、塩の道などの「塩のありかからの移動」を軽視しているように見えるかも知れないが、すでにいろいろと調べられているので、あえてこの場を借りて詳細に繰り返さなくてもいいだろうと考えているだけである。また、「塩のありかへの移動」を示した方が、レトリックとして、塩の必要性を「語りやすい」ために、事例を探しているように思われるかも知れない。確かにそういう面もあるのは否定しないが、単にレトリックだけの問題でもないのである。

人間も、ヒトという動物である以上、ターキンなどの草食動物に比べれば程度の違いこそあれ、塩欲求があるはずであり、であるならば、「塩のありかへの移動」の方が自然だと考えているのである。反対に、「塩のありかへの移動」が見つかりにくいならば、それは何らかの「人間ならではの事情」が作用したのだと考えている。このように、「人間も動物であるということ」を出発点として考える視点は、この連載の初めの頃に述べたように、「塩の人類史」の構想のベースに流れているもので、現段階では、容易に動かし難い。またこのように「先入観」を持って臨むのはよろしくないという考え方もあるだろうが、事実と食い違ったときには、少なくとも先入観が誤っていたことは明らかになるわけであるし、間違いは修正すればいいという考えで、しばらくはこのまま話を進めたい。

さて、それでは何故、「塩のありかへの移動」の事例は、「塩のありかからの移動」の事例に比べて目につかないのだろう。そもそも「事例そのものがないのではないか」という疑問もあるだろう。私は、必ずしも「塩のありかへの移動」の事例がないのだとは考えていない。単に「千国街道」や「野田塩ベコの道」のような「塩のありかからの移動」の事例の方が「身近に」あったために、相対的に目立たなくなるという意味で、「身近さ」の違いが大きいのだろうと思う。そして、この場合の「身近さ」とは、空間的な身近さだけでなく、時間的な身近さの問題でもあるだろうと考えている。

今回の事例は、時間的には現代で身近であるが、空間的にはインドネシアのある村という「身近でない」事例だった。次回は、空間的には日本で身近であるが、時間的には昔の話という「身近でない」事例を紹介して、「塩のありかへの移動」についてさらに話を続けたい。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2004年5月号に掲載されたものです。)

(註)
小島曠太郎・江上幹幸,1999,『クジラと生きる』中公新書1457,中央公論社

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