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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第22回 ~九州の塩泉紀行 その2 -大分県神塩鉱泉- ~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

前回は「夏休み塩の学習室」の話題だったが、今回からは、再び第20回の続きに話を戻して、3月に訪れることができた九州の塩泉で得られた情報を紹介しながら、「内陸製塩」や「内陸部の塩事情」について考えていきたい。

杵築市役所(山香庁舎)で情報収集

親切なタクシーに乗って、今畑鉱泉をあとにし、杵築市役所に向かう。前夜に宿泊した山香温泉「風の郷」の支配人さんからの情報では、「かつての今畑鉱泉より神塩温泉の方がずっと塩分が濃い」ということだったし、神塩温泉の昔のことを調べるなら市役所を訪ねたらどうかということで、市役所の担当者に連絡までしていただいていたからである。

実は、東京にいる時点で、水文学の研究者から「神塩鉱泉も塩を含むようだが調査はできなかった」という情報は得ていたのだが、第20回に書いた今畑鉱泉の「塩の小山」が気になっていたので、この地域では、今畑をメインに調べ、神塩は「行けるようだったら」「ついでに」という計画だった。しかし現地に来てみると、前夜の支配人さんの話でも「神塩温泉の方がずっと塩分が濃い」ということだったし、そのとき頂戴した雑誌のコピーでも、「神塩温泉は塩分がとても濃いことで有名」というような表現がある。つい先ほどの今畑のおばあさんからの聞き取りでも、「自分は行ったことはないが、神塩鉱泉は50年くらい前には木賃宿で栄えてた」という話もあった(この時点では神塩「温泉」だったり「鉱泉」だったり不明確だったが、後にこの疑問も氷解する)。市役所に向かうタクシーの中でも、だんだんと昔の神塩鉱泉のことも調べた方がいいような気がしてきた。この際、支配人さんから紹介してもらったのを幸いに、市役所でできるだけ情報を得ようと思う。

山あいの今畑集落の谷間からゆるやかに下って、神塩鉱泉や中山香駅のある平野部を通り過ぎ、再び坂を上りかかってほどなくの高台に、思いのほか立派な市役所が建っていた。親切なタクシー運転手さんにお礼を述べて、紹介してもらった担当者に面会する。名刺交換すると「高齢者福祉係」とあり、「神塩温泉の歴史」という目的とのギャップに、「文化財担当とか教育委員会ではなく、なぜ高齢者福祉?」と頭をひねる。ともかく、当方の目的を伝えてお話をするうちに、やはり、昨夜も支配人さんにコピーをいただいた『山香町史』に話がおよび、全体を見せていただくと同時に、昨夜のコピー『山香町内の鉱泉・湧水の泉質』の項目とは異なる『史跡』の項目にも、昔の神塩鉱泉の記述があることを教えてもらい、またまた該当部のコピーをいただくことになった。

以下に、『山香町史(註1)』から、神塩鉱泉についての該当部分を引用する。

「<前略>甲の尾山南麓の、立石川と小谷川の合流点付近の川床から、塩分などを多量に含んだ鉱泉(冷泉)が湧出している。昔、付近の民家では、この塩を清めの儀式に用いたので、神塩(こうじお)の地名が今に残っている。
昔は、この鉱泉を利用して、近在の農民たちの湯治場が営まれていたが、最近ここにボーリングして、摂氏四九度の温泉が湧出するようになった。ナトリウム塩化物などを多量に含んでいて、リウマチ性疾患・運動機能障害・婦人病一般などに、顕著な治療効果が期待されることが分かったので、山香町立病院や、近く建設を予定されている老人憩いの家(仮称)などで利用することになっている。<後略>」

記述された文章量としては少ないものだが、有用な情報が詰まっている。まず、神塩鉱泉は、今畑鉱泉とは異なり「塩分などを多量に含む」ものであることがわかって、塩泉製塩や塩の代替としての塩泉利用を探しに来た身としては、期待が高まる。また、先に、人によって「温泉」だったり「鉱泉」だったりと不明確だったが、「かつては鉱泉(冷泉)で、ボーリング後に49℃の温泉になった」ことが分かり、この疑問も氷解する。今畑でおばあさんに聞いた鉱泉宿の話もちゃんと出ている。そして、ボーリング後の泉質について「ナトリウム塩化物などを多量に含む」と明記されているから、他の塩類の話ではなく、今度こそ塩(塩化ナトリウム)の話が聞けそうである。さらに、何と言っても、「付近の民家では、塩泉の塩を清めに使う」という記述もあり、「これは、塩泉利用の文化として、おもしろい話が聞けるのではないか?」と、俄然、期待が高まる。

『山香町史』の記述にざっと目を通した後、市役所の担当者に、『山香町史』の該当部分の話をさらに詳しく聞ける方がないかをたずねると、「編纂当時、歴史的な項目は民間の郷土史家に委託していたが、残念ながら、編纂に関わった方々は全員亡くなってしまった」という回答だったので、一瞬、落胆する。

しかし、直後に「かつて、神塩鉱泉で鉱泉宿を営んでいた本人(ここではMさんとしておく)がお元気なので、話をきいてみてはどうですか。今日は在宅だと思うので連絡してみましょう」という。それは願ってもないことで、さっそく連絡をしてもらうと、Mさんは「これから外出するが、昼過ぎには戻る」ということで、13:00からご自宅でお話をうかがうというアポイントまで取り付けてくれた。先ほどまでは、「文化財担当とか教育委員会ではなく、なぜ高齢者福祉?」と訝っていたが、「風の郷」の支配人さんは、神塩鉱泉の歴史の話が聞きたいなら、当時を知る高齢者に通じた人、つまり「高齢者福祉」の担当者を紹介してあげるのが近道だと配慮してくれたらしい。都会の役所では書類の中の住民を相手にしているような感じがしないでもないが、このような地方の役所では、日頃から住民の顔を見ていて、特に「高齢者福祉」の担当者ならば、それぞれの高齢者の経歴や現状にも通じているというわけであろう。突然の訪問に応じてくれた市役所の担当者だけでなく、「風の郷」の支配人さんの配慮にも頭が下がる。

市役所を後にしたものの、まだ昼前で、約束まで間があったので、今度は歩いて駅の方に向かう。この後、宮崎へ向かうのに予定していた列車の時刻も午後1時台だから、わずか1時間足らずの時間で、「塩泉の塩での清めの儀式」や「昔の鉱泉宿」さらには「食用塩の代用としての利用」などを詳しく聞くというのは、かなり無理がある。しかし、こんな話が聞けるチャンスはめったにないので、予定の列車をあきらめた場合、あとの列車が何時になるかを調べ、その後、歩いて神塩鉱泉へ向かう。

約束にはまだ早かったので、昔の鉱泉宿の跡地にあるご自宅の場所だけ確認して前を通り過ぎ、国道をくぐって、ひとまず、現在の「山香町温泉センター(旧町営)」や「川床から湧出する」という鉱泉の様子などを見に行くことにした。 「温泉センター」は、立石川のすぐ側にあり、国道と川に挟まれたようになっている。「温泉センター」という語感で想像するよりも建物はこじんまりしていて、温泉銭湯や共同湯のような規模だった。裏に回って、ボーリングした源泉タンクらしきものやその配管が浴室につながっている様子を確認し、さらに立石川への排水に目をやると、川へ開いた排水口の下の川原には、鉄を含んだカルシウム析出物が大きな塊になって堆積していた。


「温泉センター」と立石川に発達した堆積物の塊

塊の大きさは、幅8.4m、川側への張り出し約3m、高さ2m

今畑鉱泉の「塩の小山」も赤かったというから、きっとこんな具合に鉄分で赤く染まったカルシウム析出物だったのではないかと想像する。と同時に、これだけ鉄だらけだと、神塩鉱泉でも、果たして製塩が可能だっただろうかという疑問が生じる。とはいえ、この疑問は、すぐにMさんからの聞き取りで明らかになるだろう。

カルシウム析出物の上の歩道で一応その寸法を計ったり、写真を撮ったりして、川原を覗き込んでいるうちに、川の中に、レンガ組のような遺構を見つける。上から見て「口の字」型なので、橋梁の残骸ではなさそうだが、鉱泉宿の露天風呂というにはやや小さいような気もする。製塩用の釜跡にしては川の中にあるのが妙である。いずれにしても、鉱泉宿のなんらかの遺構で、これも、ほどなく聞き取りで明らかになるだろう。


川中の露天風呂の遺構らしきもの

画面中央、堆積物の先にレンガ遺構が見える

いよいよ期待に満ちて、Mさんのお宅へうかがう。お会いしたMさんは84歳ということだったが、とてもお元気で、いまもいろいろなボランティア活動などでお忙しくされているということだった。社交的で気さくな方らしく、突然の訪問者にも、途中、昔の覚え書きなどを取り出して確認しながら、丁寧に話してくれた。以下に、その内容を、大まかな項目ごとに整理してまとめておく。

神塩鉱泉(現地の発音は「こうじょこうせん」に近い)

位置/ 内容は2006年3月23日の筆者聞き取りによる。

【冷鉱泉と鉱泉宿】
いまの温泉センター(ボーリング)とかつての冷鉱泉では成分がかなり違う。
ボーリング後は鉄分が多くなり、病院の給湯パイプもすぐに詰まってしまうほどで、温泉センターの排水溝も1年で30cmは鉄分が溜まるので、ときどき削らなくてはいけない。
冷鉱泉のときは、川原に露天風呂があった。馬上金山が操業しているころには一次的に湧出しなくなったが、閉山後、再び出るようになり、明治のうちに川に露天風呂ができたらしい(Mさんは大正11年生まれ)。
河川改修で流れが変わってしまい、かつての露天風呂は今は川の中になっているが、今でもレンガの跡は残っている。そのあたりを中心に上下30mの範囲で、川の中に冷鉱泉が湧いていた。季節によって変わり、白くなることも、海のように澄んできれいになることもあった。改修などで湧出場所は変わったが、今でも川底から泡が出て来て、湧き続けているのが分かる。
戦時中、軍の療養所になりかけたことがあり、昭和17年に、満州で文官をしていたK氏が療養所を作ると言って昔の鉱泉の資料をみんな渡してしまったまま、K氏が亡くなってしまったので、古い資料は残っていない。泉質は、そのころに成分分析した人の話では、臼杵の六ケ迫鉱泉に良く似ていたという。 アセモや切りキズによく効いた。湯冷めしないし、飲んだら胃腸にもいい。
鉱泉宿は自分が四代目で最後。三代目は昭和16年ころに鉱泉宿を買ったが体を壊し、山香で一番大きな農家(昔の庄屋)の出で9人兄弟だった自分が頼まれて、養子に入って昭和23年から継いだ。
鉱泉宿のほか、青年団長や消防団長など地域の仕事や、ウナギとり(穴釣りと筌漁の名人だった)やヤモ(山芋)掘りはやったが、自分では百姓はほとんどしていない(昭和39年に始めた印刷業から現在までの詳しい経歴も伺ったが、鉱泉宿廃業後の話なので省略)。
鉱泉宿は二階に客室が6部屋あった。当時の建物を改造して現在の家にしたので一部は残っている。一階は、いま話をしている居間が当時の脱衣所で、奥が男風呂にあたる。
鉱泉は硫黄分もあるから、タオルが黄色っぽくなったし、塩分が多くて石けんも泡立たなかった。
川原の露天風呂の脇(いまは昭和38年にできた国道の下)に塩水をためる溜池があり、そこから、マダケの節を抜いて作った管を木の継手でいくつもつないで、宿屋(いまの自宅)の裏庭の溜池と風呂にも塩水を引き込んでいた。はじめは足踏みポンプで、私の代ではポンプでやぐらに上げてから流してた。
水道ができ各家が風呂を持つようになったので、昭和40年5月に廃業した。 ボーリング直後はタンクも何もなく、別府の竜巻温泉のような間欠泉だったことがある。ポーンと音がして1日数回、10mくらい湯を吹き上げてた。その後は町が覆いをしてタンクにしてしまった。温泉センターにしないで、間欠泉のまま観光名所にすればよかったのに。

【塩泉の利用】
・飲用
冷鉱泉は、「鉱泉」と言うよりも、「塩水」と言っていた。
子どもの頃は、岩塩を通ってくるのでしょっぱいのかと思っていた。
サイダーみたいで、塩分はあるが今ほど濃くはなかった。
お吸い物より少し濃いくらいで、子どもの頃、夏場にはごくごく飲んでた。ムギカラ(麦桿のことか?)をストローにして、井戸水をサイダーがわりに吸って飲んだ。
近所の人も遠くの人も胃腸にいいと言って、よく飲んでいた。
胃腸に効くというので一升瓶に詰めて大阪に出荷してたこともあるが、炭酸を密封するのが難しくて一年間くらいですぐ止めた。

・調理
※自分自身では直接やらなかったのでよく分からないという前提で、家族がやっていた話として聞いた。
ご飯を炊くときに使っていた。黄色っぽく炊き上がる。
昔は、正月の餅の保存に使ってた。鉱泉水に浸けておくと長持ちする。
子どもの頃は、モチにするヨモギなどのアク抜き(炭酸がいいらしい)に使ってた。
戦時中は、ゆでものなど、味付けにも使ったらしいが、自分は朝鮮に行っていたので分からない。
戦後もアク抜きには使ってたが、味付けに使うことはなかった。

・儀式
鉱泉宿をやってた頃、うちだけでなく、この近所の人はみんな、毎朝、塩水を専用の竹筒で汲んで屋敷の周りに撒いて「清め」に使ってた。道具は、一節分の竹筒(底だけ節がある)を横に2本つないで容器にし、その容器を竹竿の先に紐でぶら下げたもので、竿の先端を井戸に差し込むと簡単に塩水が汲めるようになっていた。
「潮汲み」でなく「塩汲み」と言っていて、とくに子どもの仕事ということもなく、大人も子どももやってた。
雨乞いの儀式をする時は鉱泉水でなく、日出や杵築の海岸まで100人くらいの組を作って海水を汲みに行っていた。井戸の塩水を汲むのと同じような道具を作って海水を汲み、消防が狼煙を上げて、町民みんなで儀式をしていた。
旧暦11月14日には鉱泉のところで恵比寿祭をやってたが、それには塩水は使わなかった。


鉱泉宿の跡(Mさんの自宅)

二階に6部屋の客室があった
一階右奥に見える部屋がかつての脱衣所(聞き取りをした部屋)
かつては建物左側に浴室があったが現存しない
かつては建物左側の裏庭の溜池まで塩水が引かれていたが現存しない


鉱泉宿脱衣所跡(現在の居間)

成分分析表

どうも、私は、フィールドワークを旨とする大学院時代の習いなのか、できるだけ先入観なしで現地の新鮮な知見をもとにして、文献は帰宅後の裏付けに利用しようと考えがちで、事前に文献を精読する習慣がないのだが、鉄分のちがいなど、ボーリング前後での泉質のちがいは、『山香町史』にはちゃんと載っていた。効率が悪いと考える向きもあろうが、事前に知識を得ていて知らないふりをするよりも、知らないままで聞き取りに臨む方がやりやすくもあるのである。以下に、『山香町史(註2)』に掲載の成分分析表から主なものを抜粋しておく(単位は源泉kg中の成分mg)。

まとめと考察

現在の神塩温泉は、昭和55年ころのボーリングによるもので、ナトリウム塩化物強塩泉(強食塩泉)で、ナトリウムイオンが11280mg/kgと海水並であるが、鉄イオンを5.9mg/kg含むためそのままでは製塩に使いにくいと思われる。また、海水程度の塩分量は、内陸からの湧出としては珍しいものの、ボーリング当時から現在までの時代にあっては、すでに安価な塩が不足することなく流通しており、製塩の上での大きなメリットになるとは考えにくく、製塩に利用された事例はない。

昭和39年時点の神塩鉱泉は、含二酸化炭素-ナトリウム・カルシウム・マグネシウム-塩化物・炭酸水素塩泉で、ナトリウムイオンは2070mg/kgと、ボーリング後の神塩温泉に比べれば少ないものの、今畑鉱泉の105mg/kgよりはかなり多く、鉄分もない(測定データなし)ため、戦時中~戦後の塩不足期などに製塩に使われてもよさそうな泉質ではあるが、聞き取りによる限り、製塩は行われていなかった。『山香町史』には「この塩を清めの儀式に用いた」と記述があるが、清めに用いたのはあくまで「塩水」であり「塩」そのものではなかった。『町史』の記述を生かすならば、「この(塩泉に溶存している)塩を清めの儀式に用いた」というように、()を補う必要があるだろう。

かつての神塩鉱泉の泉質は、今畑鉱泉と同様、「サイダー」という表現がされているように、炭酸ガスを含むもので、アセモや胃腸に効くというのも同じであるが、神塩鉱泉の方では、明治期に川原に露天風呂ができて以降、昭和40年まで鉱泉宿が営まれていた。入浴用や宿などに利用されたという話がない今畑鉱泉とのちがいは、立地条件による側面もあるかも知れないが、鉱泉宿のほか近隣の住民にも利用されていた神塩鉱泉の方は、それなりの湧出量があったということではないだろうか(『山香町史』にも湧出量のデータはない)。ある程度の湧出量があったという前提での、入浴以外での利用例は「飲用」「調理」「儀式」に大別される。

「飲用」としては、胃腸に効くという薬効を求めての利用が中心だが、Mさんの子どもの頃には、特に薬効を期待するという訳でなく、「サイダー代わり」の飲み水としても利用していた。当然、ある程度の塩分摂取にもなったではあろうが、それを目的にしていた訳ではない。意識としては、水の代わり、もしくはサイダーの代わりであって、あくまで飲料水としての利用例と考えた方がいいかもしれない。

「調理」での利用は、「ヨモギなどのアク抜き」という事例があったが、これは塩分というよりも、炭酸や重炭酸(重曹)の機能を利用していたと解釈した方が良さそうである。「正月用のモチの保存」という事例については、ある程度、塩分による保存作用も寄与していた可能性がある。しかし、Mさん自身が直接手を下していた例ではなく、「空気中にさらしておくより水中に浸けておいた方が長持ちする」ということなのかも知れず、モチの保存に利用した意図は今ひとつ不明確である。他の地域での、モチの保存方法を調べてみないと、何とも言えない。

「調理」のうち、戦時中の話として「ゆでものに使ったらしい」という事例があり、塩の代替としての利用と考えられなくはないが、Mさん自身は戦地にいて、直接目にしてはいないため、「ゆでもの」という用途が「調味」を期待したものなのか、「ゆであがりをよくする」ようなものだったのか不明である。どうも、明確に「調味」を期待するというほどのものではなかった感触である。

「調理」のうち、鉱泉宿時代やその後の時代にも行われていた例として、「ご飯を炊く」という事例がある。これは、Mさん自身も目にしていた利用例ではあるが、自身が直接調理にたずさわった訳ではなく、利用目的がよく分からない。「調味」なのかも知れないが、塩水で炊くことで「炊き上がりがしゃっきりする」というような目的なのかも知れない。また、「ご飯を炊く」という利用法だけが、なぜ、長い期間行われていたのかもよく分からない。

これら「調理」における塩泉の利用例は、これまで具体例を聞いたことがなかったため、今回の調査で得られた収穫と言える部分である。しかし、いずれの例も、塩泉または塩水として「水をともなった形で成り立つ」利用法であり、「塩の機能の代替」を目的とした利用例とは言い切れないものばかりである。戦時中から戦後にかけての塩不足を前提とすれば、もう少し「塩の機能の代替」としての利用例があってもいいように思う。そうした事例が出て来ない理由は、「儀式」のうち雨乞いの事例として、集落の有志が集まって海まで歩いて海水を汲みに行った話があることから、図らずも推測できる。つまり、当時、仮にこの地域で塩不足が起こりそうになっても、雨乞いのルートを使って海まで行けば、塩を調達できたということである。そのルートを逆に使って、海岸での自給製塩による塩が運ばれて来ていた可能性もある。いずれにしても、この地域では、そもそも深刻な塩不足は起こらなかったということではないだろうか。

「儀式」の例は、神塩鉱泉を調べてみるまで、予想もできなかった利用例である。神塩鉱泉以外で、「毎朝、塩泉の水を汲み上げ屋敷の『清め』に使った」という事例は見たことがない。単に一軒の例ではなく、近隣の住民にとって日常的な習慣であり、その目的に特化した竹製の汲み上げ道具まで用いられ、Mさんの幼少期には当たり前に行われていた習慣なので、この起源は相当古いものなのではないだろうか。「清めの塩」じたいは、現在も、全国的にみられる習慣である。普遍的な「清め」の信仰については、神社に奉納する神輿を海水で清めて禊をする習慣も残っているように、もともと海水に対する信仰だったものが、後に、塩への信仰、すなわち「清めの塩」に変化したとする説がある。その説に立てば、神塩鉱泉での「清め」の習慣は、明確な「塩の代替」としての利用例ということになる。一方、雨乞いの儀式でも同じ竹製道具を持ってわざわざ海水を汲みに行っているところから考えると、神塩鉱泉での「清め」の習慣は、遠くの海水の代わりに身近な鉱泉の塩水を使ったもので、雨乞いという非日常の儀式が日常化したものと考えられなくもない。そう考えると、神塩鉱泉での「清め」の習慣は、海水への信仰が、結晶化した塩を経由せずに鉱泉水に置き換わった形で、「清め」としては、かなり珍しい事例ということになる。このあたりは、各地の「清め」の事例と比較する形で、もう少し調べてみたいところである。

以上のように、神塩鉱泉では、塩泉製塩や食用面での明確な「塩の代替」としての利用例はなかったが、さまざまな塩泉の利用例を知ることができ、今回の調査行での大きな収穫となった。もしも、今畑鉱泉から宮崎に直行していたら、これらの収穫は得られなかったわけで、さまざまな人々の協力もあり、神塩鉱泉に寄ることを決断して本当によかったと思う次第である。

現在の「温泉センター」~山香町を発つ

一方、前述のように、当初の旅程では、今畑鉱泉のあと、宮崎の鹿野田神社の塩井戸周辺で充分に聞き取りの時間を取るため、3月23日のうちに宮崎市に入って宿泊するつもりであり、それには、午後1時台の列車で宮崎に向かう必要があった。当初予定に入っていなかった神塩鉱泉で、予想以上に充実した聞き取りができたため、予定の列車に間に合わせることをあきらめ、聞けるだけの話を聞くことにした。聞き取りをしている途中で、次の列車も間に合わなくなり、結局、当初予定の2本あとの16:47発の列車にせざるを得なくなった。それには、まだ少し間があったので、現在の神塩温泉にも浸かっていくことにした。


現在の神塩温泉の浴室

現在の「温泉センター」の源泉は、前述の通りかつての神塩鉱泉とはちがい、ボーリングによる神塩「温泉」なわけだが、これは本当に塩分が濃いものだった。ちょっと舐めてみた感じでも、かなりの鉄臭さと海水並の塩辛さが感じられるばかりでなく、肌に対する刺激も強いように感じた。温泉好きの私でも、新島や式根島といった伊豆諸島の海岸にある温泉を除けば、これほど鉄っぽく塩分が濃い温泉に入ったことはない。とは言え、遊びに来たわけではないから、温泉に浸かるだけでなく、30分くらいの間に、ペットボトルにサンプルを汲んだり、掲示された成分表を撮影したりと慌ただしく過ごす。その間に「今日中に宮崎まで辿り着くのは不可能でも、少しでも宮崎方面に移動して宿泊しよう。どうせなら、Mさんからの聞き取りのなかで『冷鉱泉だったころの神塩鉱泉と泉質が似ている』と言う話が出て来た六ケ迫鉱泉に宿泊できないだろうか」と思いついた。六ケ迫鉱泉は臼杵市なので、宮崎に向かう途中でもあるし、別府市や大分市よりも先なので、山香町からは多少離れてはいるものの大分県内で、宮崎に比べればどうしようもなく遠いわけでもない。列車の間隔が空いていたからかなり時間のロスはあるが、何とかギリギリ夕食時くらいには飛び込めるかも知れない。万が一、目指す鉱泉宿には泊まれなくても、臼杵市内にはビジネスホテルくらいはあるだろうなどと目論んで、急遽、六ケ迫鉱泉を目指すことに決め、中山香駅に戻った。

しかしながら、六ケ迫鉱泉の正確な場所も、最寄り駅もわからない。中山香駅の駅員に「六ケ迫鉱泉に行きたいのだが、どこまで乗ればいいでしょうか」と訪ねると、最寄り駅を調べて、わざわざ向こうの駅に電話で問い合わせてくれた。その結果、「六ケ迫鉱泉に向かうバスは臼杵駅から出るが時間的に終わっているはずだから、最寄りの熊崎駅まで行ってタクシーを呼んだ方がいい」ということだった。それでも、鉱泉宿の名前や連絡先まではわからず、ケータイで検索してみても何も情報が出て来ない。インターネットは便利なようだが、ここまで地方かつマイナーな情報になると、ケータイ用のサイト程度ではお手上げである。あとは、熊崎駅まで行って、駅員や備え付けの電話帳、駅周辺の人などを頼るしかない。いざとなったら、やはり、人間の方があてになるだろう。そんなことを考えながら、出たとこ勝負で、ひとまず臼杵方面に向かう16:47発の列車に乗り込んだ。(次回に続く)

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2006年10月号に掲載されたものです。)

(註1)
著者不明,1982,「第8章 名所旧跡みてある記」『山香町史』,山香町史刊行会

(註2)
山下幸三郎,1982,「第4章 山香町内の鉱泉・湧水の泉質」『山香町史』,山香町史刊行会

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