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塩風土記

日本全国の塩にまつわる歴史・民俗的な話題をご紹介。

中部

新潟県

新潟県と塩

新潟県では近世において、河崎(佐渡市)、寺泊(長岡市)、糸魚川などで揚浜式塩田による生産が行われていたが、十分な需要をまかなうことが出来ず、十州塩(瀬戸内海沿岸)が海路を通じて移入されていた。十州塩は、新潟、直江津、糸魚川に運ばれ、さらに信濃川などを通って内陸部へと運ばれていた。
1948年(昭和23年)から瀬波温泉(村上市)の温泉熱を利用した生産が開始されたが、1960年(昭和35年)には廃止されている。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

上杉謙信(うえすぎけんしん)
戦国時代の武将。今川と北条両氏が連盟で武田の領地に塩留(塩の移入を止めること)を行ったとき、武田家に塩を送り、『敵に塩を送る』という故事の由来だといわれている。塩は特定の地方にのみ産出される特殊な生活資料であったため、戦国時代には、戦略の一環として塩留がたびたび用いられたという。
(日本専売公社編『日本塩業史上巻』)

名所・史跡

彌彦神社(やひこじんじゃ:弥彦村)
製塩・漁労・農耕の技術をもたらした天香山命(あまのかごやまのみこと)を祀っている。
石船神社(いわふねじんじゃ:村上市)
航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術を伝えたといわれる饒速日命が御祭神。
塩の湯温泉(胎内市)
塩分による効能が多いといわれている。ナトリウム塩化物強塩泉(弱アルカリ性高張高温泉)。

名産品

塩引鮭
生鮭のえらと内臓を取り除き、血合い等を水洗いで取り除いてから塩をすり込み数日間付け込む。その後、一晩かけて流水で塩抜きをし、体表のぬめり等を洗い落としてから1~2週間寒風にさらして熟成させたもの。
寒造里(かんずり)
赤唐辛子を雪の上でさらしてアクを抜き、辛味が柔らかくなったものをすりつぶして、麹、塩、ゆずなどを加えて熟成させてつくる調味料の一種。鍋料理や焼き肉、冷奴の薬味、そのままで酒の肴など幅広い利用法がある。(日本の郷土料理図鑑)

塩の道

千国街道(ちくにかいどう)
糸魚川を基点として、海の無い内陸部へと塩を運んだ塩の道。新潟県内を通り、長野の松本城下まで全長は120kmにも及ぶ。
(田中欣一編『塩の道・千国街道』)

その他

塩木をナメル
製塩用の木を切ること。新潟県岩船郡小俣側上流の山村、雷・小俣での聞き取りによると、昔は、山で木を切って目印を付けて川に流し、川狩りをしながら木とともに下流へ下り、河口の府屋でその木を受け止め、それを燃料に、浜の仮小屋で製塩して持ち帰っていたという。。
岐阜県、山形県にも同様の言葉が残っている。
(日本塩業大系編集委員会(編)『日本塩業大系 特論民俗』)
塩湯治(しおとうじ)
夏の土用丑の日を特に選んで海へ入ることを言う。上越市あたりにみられる風習。海の仕事に従事する以外の人は、特定の日のほかはみだりに海へ入ろうとしなかったころの名残を残していると思われる。朝早くに海へ入ることが一番体には薬だと信じられており、海湯治とも呼ぶ。浜の茶屋では海水を沸かした「潮湯」を用意し客に勧めていたという。
(澁澤敬三『塩俗問答集』)
塩旦那(しおだんな:新潟市)
角田浜(新潟市)や五ヶ浜(新潟市)等で揚浜式塩田による製塩が行われていた頃は、製塩業者は、山中の村々の農家と契約をして必要なだけの塩を送り、収穫期になると代償として玄米等の穀類を受け取るといった交易を行っていた。製塩業者たちは、塩を買ってくれる農家を塩旦那と呼び、製塩量も塩旦那の数にあわせて決めていたという。
(宮本常一『塩の民俗と生活』)
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富山県

富山県と塩

富山県における塩生産の記録は少なく、近世においては浜塩と呼ばれる十州塩(瀬戸内海沿岸)と能登塩(石川県)が移入されていた。海路を通じて東岩瀬港(富山港)に運ばれた塩は、神通川をたどって笹津まで運ばれ、そこからさらに牛や人によって、内陸部へと運ばれていった。また、かつては富山湾で水揚げされたブリが、塩ブリに加工され、塩と共に遠く飛騨高山や信州の山間部にまで運ばれていた。この富山と松本を結ぶ道は、ブリ街道と呼ばれている。今も、氷見の塩ブリは有名である。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名所・史跡

多久比禮志神社
(たくひれしじんじゃ:富山市)
「古事記」の海幸彦・山幸彦神話に登場する日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと)・豊玉比売命(とよたまひめのみこと)・塩土老翁(しおつちのおきなのみこと)の3神を祭神とする。老翁より、神通川中流の同所での湧出塩による塩づくりを教えられたことを感謝した林宿禰弥鹿伎(はやしのすくねみかき)が、672年にまつったという。この起源譚から、「塩社」、「塩の宮」と俗称され、湧出した塩水の池は、1940年ごろまで塩出鉱泉の名で利用されていた。
(「富山県の歴史散歩」富山近代史研究会歴史散歩部会編)

名産品

塩ブリ
ブリの内臓を取り、背中に切り込みをいれ塩水であらってから塩をすり込み熟成させたもの。氷見の塩ブリとして古くから珍重されてきた。特に飛騨・信州方面の山国では正月に欠くことのできないものであった。1595年(文禄4年)には前田利家の老臣4人の連署で、宇波村肝煎と百姓にあて「京都から御用を命ぜられたので、当浦からぶり17本を用意し、背がたなをいれ、よく塩をきかせ、いかにもいかにも念をいれ、そうそうに差し上げよ」との命がきたとの記録がある。
(坂井誠一『富山県の歴史』)
四十物(あいもの)
鮮魚と干物の中間にある魚のこと。40種類ほどあることからこの字をあてたといわれている。
かぶら寿し
塩漬けにしたブリを塩漬けにしたカブで挟み込み、米糀に漬け込んで発酵させたもの。

その他

塩売石(高岡市)
昔、能登の町(石川県)から塩売り商人が牛の背に塩を乗せ、奥深い山村まで塩を売りに来ていた。ところが、その商人は塩に白い砂を混ぜて売りつける悪徳商人であったため、天の怒りに触れ、引いてきた牛ごと石に変えられてしまったという。1770年代(安永)に書かれた『越の下草』という書物に見られる話。富山県ではあまり製塩は盛んではなく、石川県の能登地方の塩田で作られた塩が、塩商人によって移入されていた。それにちなんだ昔話である。
(平島裕正『ものと人間の文化史「塩」』)
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石川県

石川県と塩

石川県は、揚浜式塩田が発達し日本海側で最大の生産地であった。石川県で生産された塩は、能登塩の名で知られ専売制度が始まる時点では国内生産量の2%を占めていたが、塩業整備に伴い生産量は低下していった。現在は、珠洲市に、400年以上の伝統を誇る揚浜式製塩を行う塩田が残っており、国の無形文化財に指定されている。

人物

前田利常(まえだとしつね)
加賀藩3代目藩主。「塩手米制度」をつくり能登地方一帯の製塩を奨励した。
(下出積與『石川県の歴史』)
藻寄行蔵(もより こうぞう)
幕末の廃藩置県により「塩手米制度」(藩から米を前借りする代わりに塩を年貢として納めるという一種の専売制)が廃止され、大打撃を受けた石川県の製塩事業の再興に奔走した。藩の「塩手米制度」の代わりに、大蔵省から製塩資金を借り出し、運用の規則を作り、自ら製塩取締役となり製塩事業を指導したという。今も旧西日本JRバス飯田支所前には氏の功績をたたえた「能登塩田再興碑」が建つ。平成24年秋からは氏の生家も改修され珠洲市の製塩文化を発信する場として活用される予定という。
(珠洲のれきし編さん委員会『珠洲のれきし』)

名所・史跡

真脇製塩遺跡(まわきせいえんいせき:能登町)
入り江に位置する古代の製塩遺跡。製塩土器や炉跡等が発見されている。

名産品

ふぐの卵巣糠付け
猛毒であるふぐの卵巣をまず1年間塩漬けにし、その後にさらに本漬けとして、約2年もの間糠に漬けこみ出来上がる珍味。漬け込むうちに毒性はなくなるがその理由はいまだ解明されていない。
くちこ
なまこの卵巣を塩漬けにした珍味。
いしり
イカの内臓を塩に漬けこみ、数年かけて発酵熟成させた魚醤の一種。いしるともよばれる。

その他

塩手米制度(しおてまいせいど)
田畑をあまり持たない農民に米を前貸しし、生産された塩を、米1石に対し塩12俵から8.5俵の割合で藩に納めさせる制度。一種の専売制。
(下出積與『石川県の歴史』)
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福井県

福井県と塩

福井県では古くから製塩が行われており、複数の製塩遺跡が発掘され巨大な製塩土器が出土している。弥生時代頃から製塩が始まり、奈良時代に国家の税の要請を受けて急激に発達したとみられている。塩づくりの中心は若狭であり、製塩を行うとともに、豊富な海産物を塩で加工し、遠方との交易を行っていた。
近世に至り、十州塩(瀬戸内海沿岸)の販路拡大につれて競争に破れ、揚浜式塩田において小規模の生産を行うのみとなった。専売制度開始後、この塩田も廃止された。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名所・史跡

岡津製塩遺跡(おこづせいえんいせき:小浜市)
小浜湾に位置する古墳時代後期から奈良時代にかけての製塩遺跡。国の史跡に指定されている。

名産品

へしこ
新鮮な魚を塩漬けにし魚の水分を抜いた後、糠漬けにした発酵食品のこと。若狭では、冬場の保存食として家庭で作られてきた。鯖のへしこは、主に若狭の海岸部で作られ、2,3月に塩漬けしたものを糠漬けし、11,12月に糠床から出す。これを水で一晩塩抜きして、皮を剥いで、鯖の腹にご飯と糀を詰めて10~20日程度漬けたものが「鯖のなれずし」である。正月や祭りのご馳走である。鯖のなれずしは、食の世界遺産と言われる「味の箱舟」に2006年12月に登録された。
小鯛のささ漬
小鯛を三枚におろして、うす塩と酢に漬け、笹の葉を添えて杉の木の香りが漂う小さな樽に詰めて作られる。食べ頃は樽に詰めて1~2日後。

塩の道

鯖街道(さばかいどう)
福井県の若狭湾から滋賀県をぬけ京都の出町柳までつながる街道。主に若狭湾で陸揚げされた海産物や物資を運んだ。特に若狭に揚がった鯖を開いて塩をした荷が多かったため、鯖街道と呼ばれている。
(若狭歴史民俗資料館『サバ街道と都の文化』)
中河内塩買い道(なかこうちしおかいどう)
東浦(福井県)の生産地から近江(滋賀県)の村々へ塩が運ばれていた古道。近年では、有志による整備が行われ、「中河内塩買い道」の名称でトレイルコースにも利用されているという。主なものに仙人谷尾根道・網谷道、獺谷道・長野尾峠道、乃ミ峠道、刀根峠道等がある。
(田中完一『江越国境の「塩の道」再見』)

その他

山手塩
山手塩の「手」とは、交換という意味を持っており、塩を渡すことを前提に、海水を煮詰めるために必要な薪(塩木)を集める山(塩山)を入手することをそう呼んだ。製塩規模の拡大等により近隣の山野では対応できなくなり、遠方から塩木を運んでくるようになった12世紀頃から若狭湾を初めとした多くの浦々で行われていた。「山年貢」「年貢塩」とも呼ばれている。
(網野善助著作集第9巻中世の生業と流通)

学びの場

若狭歴史博物館(小浜市)
古墳時代のコーナーでは若狭湾の土器製塩が紹介されているほか、鯖街道に関する展示なども行われている。
御食国若狭おばま食文化館(小浜市)
古くから塩や海産物などを納める御食国として、歴史的に重要な役割を果たしてきた若狭小浜の食文化を中心に、古代の製塩方法や、ナレズシの作り方等も展示されている。
鯖街道資料館(小浜市)
鯖街道の起点といわれるいづみ町商店街の中にある資料館。鯖街道に関する映像資料や、昔の地図や古道具などが展示されている。
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山梨県

山梨県と塩

山梨県は内陸部に位置するため、製塩の記録はほとんどない。塩泉製塩が行われていた記録もあるが、塩は古くから「塩の道」を経て外部から移入されてくるものであった。戦国時代に越後国(新潟県)の上杉謙信が塩不足に苦しむ甲斐国(山梨県)の武田信玄へ塩を送ったという故事は有名である。また富士川沿いの鰍沢は、塩荷の改装地であった。川を上ってきた塩荷が、ここで山道を行くためのしっかりとした梱包に荷直しされて、馬や人によって韮崎を経て長野県の下諏訪方面へ運ばれていた。そのため諏訪方面では塩を「鰍沢(かじかざわ)」と呼ぶ風習があったという。

名所・史跡

奈良田温泉(ならだおんせん:南巨摩郡 早川町)
ナトリウム塩化物泉。奈良時代孝謙天皇がこの地で8年間湯治を行ったという伝承がある。かつて塩泉製塩が行われていたという。

名産品

甲州小梅漬
山梨の特産甲州小梅を塩漬けにしたもの。カリカリとした歯ごたえが特徴。

地名

塩ノ山(甲州市)
地名の由来には、実際に岩塩を産出したという記録からという説、戦国時代、北条氏からの塩封鎖にたいして武田信玄が甲斐には塩ノ山という岩塩の産地があると対抗したという伝説からという説、四方から見えるしほうのやま、という名前からという説と複数の説がある。

学びの場

鰍沢町交流センター塩の華
(南巨摩郡鰍沢町)
富士川沿いの荷揚げ地であった鰍沢に出来た交流センター。海路を経て運ばれてきた塩や舟蔵をイメージした作り。鰍沢の文化や歴史などを学ぶことが出来る。
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長野県

長野県と塩

内陸部に位置する長野県には製塩の記録はほとんどなく、塩は他所からの移入に頼らなければならなかった。そこに多くの「塩の道」の歴史が生まれ、各地には塩の流通に関する史料が残されている。最も有名な「塩の道」は千国街道で、糸魚川港から松本街道を抜け、糸魚川街道に入り、大町を抜け松本・塩尻に至るルートである。このほかにも、日本海側からは十州塩(瀬戸内海沿岸)が新潟、直江津から移入され、太平洋側からは碓氷峠を経て十州塩と行徳塩(千葉県)が移入されていた。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

黒部銑次郎(くろべせんじろう)
阿波徳島藩士。岩塩を求めて大鹿村鹿塩で私財を投資して探掘を試みたが失敗。後に、製塩場を開設して塩を作り出し、さらに鉱泉浴場の営業を申請した。これが今日の鹿塩温泉の始まりとなった。
(専売事業協会『せんばい第41号』)

行事

あめ市(松本市)
戦国時代、上杉謙信が武田信玄に塩を贈った故事にちなむ新年の祭典、当初は塩市と呼ばれていた。
塩の道祭り(小谷、白馬・大町地域)
5月の連休中3日間に渡り、塩の道を歩くイベント。

名所・史跡

沙田神社(いさごだじんじゃ:松本市)
製塩の神「沙土煮命(しおつちのおじ)」を祀った神社

名産品

野沢菜漬
野沢菜を塩で漬け込んだもの。信州の食の文化財にも指定されている。
塩イカ(塩丸イカ)
海から遠い地方へ送るためにイカを塩からく加工した郷土食。スルメイカのワタを抜き、ゆでて皮をむき塩漬けして一晩置き、塩を身がぱんぱんになるほどつめ、足で蓋をしたもの。交通の便が悪かった中南信地方の夏の季節料理として、キュウリとの粕あえや酢の物等に料理されることが多いという。(中澤弥子、三田コト(2004).長野県における「塩イカ」と「煮イカ」の食習慣の伝承と地域性 日本家政学会誌Vol55 168-169 )
塩打豆(しおうちまめ)
炒った豆を熱いうちに麦粉をつけてかため、塩などで味をつけたもの。古くからある食べ物で、『醒睡笑』(江戸前期の笑話集)にも塩打大豆の笑い話があるという。(渋谷敬三『塩俗問答集』)

塩の道

千国街道(ちくにかいどう)
日本海側の糸魚川港から姫川沿いに松本街道を抜け、新潟県境の峠を越して糸魚川街道に入り、千国の番所、問屋町の大町を抜け松本・塩尻に至るルート。主に瀬戸内の塩と加賀の能登塩が運ばれた。
(田中欣一編『塩の道・千国街道』)

学びの場

塩の道ちょうじや(大町市)
この地で代々塩問屋を営む平林家の母屋を主展示場とし、塩の道で活躍したボツカや牛方の身支度、道具類、塩の道に伝わる民俗資料などを展示している。
小谷郷土館(小谷村)
小谷村の民俗資料、歴史資料などを多数展示。交易の中継地として賑った小谷の伝統について学ぶことができる。
千国の庄史料館(小谷村)
千国街道の要所にあった番所跡を復元。昔ながらの民家をそのまま移築した史料館のほか、復元された番所や、塩を貯蔵するために釘を使わずに建てられた塩倉が併設されている。
牛方宿(小谷村)
かつて塩などを運んだ牛方と牛が一緒に寝泊まりした宿。千国街道に現存する唯一のもので、内部は史料館となっている。

その他

歩荷と牛方(ボッカとうしかた)
歩荷とは荷物を背負って運ぶ人たちのことである。一人で塩一俵(約47kg)の荷物を背負い、十数人が一団となって、雪の山坂を越えた。
牛方とは牛を使って荷を運ぶ人たちのことで、牛方は一頭の牛に二俵(一駄)ずつ付けて運ぶ。一人前の牛方になると一度に六頭の牛を追い、これを「牛ヒトメエ」と呼んだ。
牛による輸送は八十八夜(5月2日)から小雪(11月23日)までであり、雪のため牛が通れない半年間が歩荷の出番であった。歩荷、牛方どちらも沿道の農民であった。
糸魚川からは「上り荷」として塩や海産物が、信州からは「下り荷」として麻やたばこ、大豆、生薬類、綿などが運ばれた。
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岐阜県

岐阜県と塩

内陸部に位置する岐阜県では製塩の記録はほとんどなく、塩は外部より移入されてくるものであった。近世には、浜塩と呼ばれる十州塩(瀬戸内海沿岸)と能登塩(石川県)が東岩瀬港(富山港)から神通川を通って笹津まで運ばれ、その先は牛や人によって神原峠、大阪峠を経て高山に移入されていた。これを北塩と呼んだ。一方、名古屋からは十州塩、黒部塩(三重県)、三河塩(愛知県)が陸揚げされ長良川を白金まで上り、美濃、高山まで移入された。これらは南塩と呼ばれていた。また富山県からは塩漬けのブリが運ばれてきた道があり、ブリ街道として知られている。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名産品

塩ブリ
ブリを塩漬けにしたもの。富山県で水揚げされたブリが塩漬けになって飛騨高山地方まで運ばれていた。年の瀬に食べる習慣がある。
(松本市博物館編『鰤のきた道』)
しな漬け
紅カブや他の野菜を小さく切り塩に漬け込んだもの。薄紅色に漬けあがる。
鮎うるか
鮎の内臓を塩漬けして熟成させた珍味。
鮎のなれ寿司
鮎を塩漬けしたあとさらに飯に漬けこんで長期間熟成させたもの。
赤たつ漬け
サトイモの一種、ヤツガシラの茎を天日干しにした後、酢やトウガラシを加えて塩漬けにしたもの。奥美濃地方伝統の秋の漬物。

塩の道

ブリ街道
富山県氷見市で水揚げされたブリ(寒ブリ)が、塩漬けや干し魚に加工され岐阜県高山市を経由して、阿房峠や野麦峠を越えて松本平(長野県)に運ばれたルート。
(松本市博物館編『鰤のきた道』)

その他

塩木をナメル
製塩用の木を切ること。昔は、山で木を切って目印を付けて川に流し、川狩りをしながら木とともに下流へ下り、河口の府屋でその木を受け止め、それを燃料に、浜の仮小屋で製塩して持ち帰っていたという。新潟県、山形県にも同様の言葉が残っている
(日本塩業大系編集委員会(編)『日本塩業大系 特論民俗』)
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静岡県

静岡県と塩

太平洋に面した静岡県では、駿河湾沿岸等で製塩が行われていた。江戸中期には、税金として米の代わりに塩の売り上げの一部を納める「塩焼運上金」という制度もあった。牧の原市(旧相良町)から掛川を通り、新潟県の糸魚川市へと太平洋と日本海をつないだ約350kmにも渡る日本最長で最古の塩の道が有名である。静岡から運ばれる塩を南塩、新潟から運ばれる塩を北塩と呼んだ。

行事

戸田港まつり(沼津市)
毎年7月下旬に行われている海のまつり。港に感謝して清めの塩をかぶり、祭の安全を祈願する塩衣(えんぎ)式にはじまり、パレードやショーなどが行われ、塩帰式で終える。

名所・史跡

信州街道・塩の道起点(牧之原市)
かつて相良海岸でつくられた塩は、ここを起点に信州諏訪方面まで運ばれていた。信州に入る塩は、南太平洋岸からの「南塩」(上塩)と、日本海側からの「北塩」(下塩)があった。信州街道はその一つで、諏訪方面に送られていた。日本各地には塩の道がいくつかあり、牧之原市と新潟県糸魚川市を結ぶ塩の道は、日本で最長で最古の塩の道と言われている。この道では生活物資をはじめ、文化や習慣、進行なども運ばれ、人々の生活はこの道に支えられていた。

名産品

桜葉漬け
桜の葉を塩漬けにしたもの。桜餅などに使用される。
ニアイナマス
三枚におろしたカツオを軽く火であぶりぶつ切りにして、塩で味付けした初漁の祝い料理。
わさび漬け
わさびを刻んで塩漬けにしてから、熟成させた酒粕にみりん、砂糖、塩等を合わせたものに漬け込む漬物。
塩鰹・潮かつお(しおかつお:加茂郡)
伊豆地方で昔から作られていた保存食の一種。鰹を塩漬けにした上で樽に寝かせ、さらに陰干しにして保存性を高めた郷土料理であり、縁起の良い正月料理として食されていたという。
ワラ飾りをつけた潮かつお

地名

塩買坂(菊川市)
相良から運ばれた塩が、この場所で仲買人と取引されていたことにちなんだ地名だといわれている。

塩の道

牧の原市(旧 相良町)を基点とし、アルプスを超え糸魚川沿いに続く全長約350kmの日本最長にして最古の塩の道。
(日本塩業大系編集委員会(編)『日本塩業大系 特論民俗』)
塩の道公園(菊川市)
塩の道を記念して作られた公園。
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愛知県

愛知県と塩

愛知県は古くからの製塩地であった。三河湾に面した地域からは古墳時代から平安時代にかけての製塩土器や遺構が発掘されている。土器製塩の時代には、都に税として塩を納入していた。他にも、東寺(京都府)の供物として納めていた。平城京で発見された木簡にも記録が残されている。その後、一時期製塩は衰退していたが、江戸中期には入浜式塩田が開拓され再び製塩が活発に行われるようになった。1688年(元禄元年)に吉良上野介義央が開拓した富好新田等で作られた饗庭塩(あいばじお)が有名で、江戸を始めとして各地へ移出されていた。しかし瀬戸内沿岸で作られる安価な塩との競争に敗れ、愛知県内の製塩は縮小されていった。

行事

香の物祭
日本で唯一、漬物を奉る萱津神社で毎年8月21日に行われる祭り。全国各地から漬物業者が集う。

名所・史跡

萱津神社(かやつじんじゃ:海部郡)
日本で唯一の漬物神社。祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめ)。古伝によれば、その昔土地の人々は鹿屋野比売神の神前に初なりのウリやナスなどをそなえていた。当時はこのあたりは海浜でもあったので、海から取れた塩も供えるようになり、やがてこれらの野菜と塩を一緒にカメに入れて供えたところ、程よい塩漬けとなった。人々は雨露に当たっても変わらないその味を不思議に思い、神からの賜りものとして万病を治すお守りとし、遠近を問わず頂きに集まるようにあった、これが日本の漬物の始まりであると言われている。日本武尊ともゆかりが深く、縁結びの神社としても知られている。

名産品

このわた
ナマコの腸を塩漬けにした珍味。
守口漬(もりぐちづけ)
直径2cm、長さは2m近くにもなる濃尾平野特産の守口大根を、塩漬けにしたあと数度にわたって粕漬けにし、最後に味醂粕に漬け込み味を調えて作る漬物。

塩の道

塩付街道(しおつけかいどう)
三河湾岸部から内陸部へ向かう塩の道。馬の背に、塩荷を付けて運んだところから名付けられたといわれている。地元で造られた塩や、瀬戸内海沿岸で作られた十州塩を運んだ。
(亀井千歩子『塩の民俗学』)

現在の塩付け街道のようす

案内パネル

その他

足助塩(あすけじお)
豊田市足助町は、塩荷の改装地だった。三河湾沿岸で作られた塩や瀬戸内の塩が、ここで改装されて信州方面に移送された。そのため足助町を通過してくる塩を信州の人たちは「足助塩」と呼んでいた。
(亀井千歩子『塩の民俗学』)

学びの場

西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里(西尾市)
西尾市塩田体験館では、入浜式塩田が復元されており、塩田作業の体験や、塩田でつくったかん水を煮つめて塩をつくる塩焼き体験ができる。また併設の西尾市歴史民俗資料館では、当地の製塩業に関する展示のほか、地元では名君の誉れ高い吉良上野介義央に関する資料などを見ることができる。
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