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塩風土記

日本全国の塩にまつわる歴史・民俗的な話題をご紹介。

四国

徳島県

徳島県と塩

鳴門地域における製塩の歴史は古く、5~6世紀頃の製塩遺跡が発掘されている。
近世では、1599年(慶長4年)に藩主蜂須賀氏が赤穂(兵庫県)から技術者を招いて入浜式塩田を開いた。その後、藩の保護奨励により急速に塩田開発が進められ、製塩は江戸から明治、大正と、鳴門の一大産業となる。十州塩の生産地のひとつであり、阿波の塩田でとれる塩は、斉田塩(さいだじお)として全国に名声を博した。
製塩業の文化遺産として、「入浜式製塩用具」が国の重要有形民俗文化財に指定されている。

人物

篠原孫左衛門(しのはらまござえもん)
1597年(慶長2年)に淡路島から高島に渡り塩田を開拓した。この塩田は他の多くの塩田のように藩の財力によって開拓されたものではなく、小規模ながらも民間の力で造られたもので後の撫養塩田(むやえんでん)の基となっている。
(水上清『塩と碑文』)

名所・史跡

福永家住宅(鳴門市)
200年ほど前の塩田主の屋敷跡。国の重要文化財に指定されている。
福永家は寛文年間(1661~)から製塩業を始め、以後7代に渡って鳴門の製塩を支えた。
今も残る屋敷跡は、居住区である主屋を中心に、その周りに製塩施設(薪納屋、石炭置場、かん水を煮つめる萱葺の釜屋、かん水だめ、塩納屋など)がある特徴的な屋敷構えをしている。

名産品

竹ちくわ
魚のすり身に塩を混ぜて練り上げ、竹の棒に巻きつけて焼き上げたもの。
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香川県

香川県と塩

降雨量の少ない香川県では古くから製塩が盛んであり、弥生時代中期には土器製塩の技術が成立し、備讃瀬戸地域における塩づくりの中心となった。島嶼部や沿岸部の遺跡からは海水を煮詰めて塩を作る際に使ったと思われる製塩土器が多数出土している。
また、17世紀頃からの瀬戸内地域での塩田開発によって、江戸時代には讃岐、伊予、備前、備後、備中など瀬戸内十州塩田での塩の生産量は全国の80%を占め、砂糖・木綿とともに「讃岐三白」と呼ばれていた。現在も製塩に関する施設は多い。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

久米栄左衛門通賢(くめえいざえもんみちかた)
江戸時代後期、財政難にあえぐ高松藩を救う手だてとして塩田の開発を行った。1829年(文政12年)に東大浜・西大浜を完成させる。技術的にも優れたこの塩田は「久米式塩田」と呼ばれその後の塩田開発のモデルにもなった。
(渡辺茂雄『四国開発の先覚者とその偉業2集』)
井上甚太郎(いのうえじんたろう)
明治時代十州塩田の生産制限に異を唱えて坂出塩田を守った。
(渡辺則文『日本塩業史研究』)

行事

さかいで塩まつり(坂出市)
坂出の塩田を開発した久米通賢と、塩で栄えた坂出の歴史文化を知ってもらうことを目的に開催されている。塩の奉納作りや塩の滑り台などの催しが行われる。

名所・史跡

喜兵衛島遺跡(きへいじまいせき:直島町)
土器製塩の事実が立証された代表的な製塩遺跡。海浜に面する平坦地のほぼ中央部に製塩炉があり、その周囲に堅くしまった作業面、その外周に使用済みの製塩土器、灰、炭などの捨て場、と言う構成になっている。
(日本塩業大系編集委員会『日本塩業大系史料編 考古』)
沙弥ナカンダ浜遺跡(しゃみなかんだはまいせき:坂出市)
縄文時代から弥生時代を経て古墳時代にいたる遺構が良好に保たれていることなどから、県指定史跡に指定されている。製塩遺跡も発見されている。
(日本塩業大系編集委員会『日本塩業大系史料編 考古』)

名産品

いかなご醤油
生のいかなごに塩を加えて容器に入れ、3ヶ月から半年ほど熟成させて作る魚醤の一種。
小豆島そうめん(しょうどしまそうめん)
小麦粉に水と塩を加えて練り上げ、表面にゴマ油を塗って細く引き伸ばした麺を乾燥熟成させたもの。

学びの場

香川県立ミュージアム(高松市)
歴史博物館と美術館の機能を併せ持つ総合的なミュージアム。歴史展示室では、「塩」抜きには語れない香川の歴史を時代を追って学ぶことができる。
坂出市塩業資料館(坂出市)
古くから塩の産地として栄えた香川の現在に至るまでの製塩の歴史が詳しく解説されている。土器製塩から入浜式塩田まで、塩づくりがどのように行われていたかを、実際の道具や模型、写真、映像から学ぶことができる。
うたづ海ホタル(宇多津町)
塩田跡地に建てられた館内では、最新映像で塩づくりの作業や宇多津町の歴史を紹介している。瀬戸内海に面した位置には入浜式塩田が復元されており、希望者は製塩体験を行うことができる。(要予約)
宇多津加茂文庫(宇多津町)
武蔵野美術大学名誉教授加茂詮氏より寄贈された近・現代日本塩業に関する全国的に見ても貴重な書籍が所蔵されている。
瀬戸内海歴史民俗資料館(高松市)
瀬戸内海地方全域の歴史、民俗に関して総合的な調査・研究を行う広域資料館で塩を運んだ廻船の模型や、「エブリ大工」がつくった塩田用具なども展示されている。
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愛媛県

愛媛県と塩

瀬戸内海に面し、降雨量の少ない愛媛県では古くから製塩が盛んであった。弥生時代中期から奈良・平安時代にかけての製塩遺跡が発掘され製塩土器が出土しているのを始めとして、中世においては塩の荘園として京都の東寺に塩を貢納していた弓削島荘、近代においては十州塩のひとつに数えられ全国に塩を移出していた波止浜塩田(はしはまえんでん)等が知られている。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

長谷部九兵衛(はせべくへい)
波止浜塩田の開祖といわれる。波方町出身。製塩業が発達していた竹原塩田(広島県)に学び、1683年(天和3年)に県内最古の入浜式塩田を開発した。
(森光繁編『波止浜塩業史』)

名所・史跡

弓削島荘(ゆげしましょう:越智郡)
県の北東部に位置する弓削島にあった荘園。中世の時代には、東寺(京都)の荘園であった。沿岸部での製塩が盛んで、生産された塩は船で京都の荘園領主のもとへと運ばれ、塩の荘園として知られていた。東寺文書にはいまも弓削島の製塩の史料が多く残されている。(渡辺則文『日本塩業史研究』)
坂出地方専売局波止浜出張所(今治市)
1911年(明治44年)竣工と伝えられる旧塩務局の出張所跡。木造平屋の寄棟造り。

名産品

じゃこ天
魚のすり身に塩などを混ぜて練りあげ形成して油であげたもの。てんぷらとも呼ばれる。
緋の蕪漬(ひのかぶらづけ)
伊予緋カブと呼ばれる県特産の皮が赤い蕪を塩漬けにしたあと、柑橘酢につけこんだもの。全体が鮮やかな緋色に漬けあがる。

学びの場

ソルティ多喜浜(新居浜市)
全国でもめずらしい小学校に併設された塩田施設で、流下式のミニ塩田施設が復元されている。隣接の多喜浜公民館の一室は塩田資料展示室になっており、製塩道具類などを見ることができる。2014(平成26)年には、「塩の学習館」が竣工。予約をすれば、塩田施設の見学や、塩づくり体験ができる。
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高知県

高知県と塩

山地率が高く、年間平均降水量が多い、台風による影響が強い等、天候上の理由により四国の他県ほどの大規模な製塩業の発展は見られなかったが、長い海岸線沿いでは小規模な製塩が行われていた。赤岡町の海浜では安土桃山時代から製塩が始められており、かつては一大製塩地として塩市なども立っていた。1587年(天正15年)からおこなわれた天正検地によると、塩田は約621ha、塩浜は1979浜半あったとの記録が残されている。自給製塩は進んでいたものと思われるが、後に吉野川流域では讃岐(香川県)からの塩の移入が多くなったという。
(日本地理教育学会誌『新地理第2巻第2号、第3巻第1号』)

名産品

釜揚げちりめん
ちりめんじゃこ、しらすと呼ばれる小さな魚を、水揚げしてすぐ塩水で茹であげたもの。
酒盗(しゅとう)
カツオの胃と腸をよく洗い、塩漬にして熟成させたもの。
土佐藩12代藩主山内豊資がこれを肴に酒を飲んだところ、あまりにうまいので酒量があがった。そこで「酒盗と名付けよ」、と言ったのが由来だという伝承がある。
(渡辺茂雄『四国開発の先覚者とその偉業』)

塩の道

赤岡町の海浜で作った塩を物部村まで馬の背に載せて運んだ、ほぼ直線の約27㎞の道。塩に限らず生活必需物資が行き交う重要な産業道だった。
(富岡儀八『塩の道を探る』)

その他

鯨五十集(くじらいさば)
鯨漁が盛んであったころ、室戸沖で捕れた鯨の生肉や皮等を塩漬けにし、保存性を高めて大阪方面の市場へと移出していた。それらを運ぶ小型の廻船のことを、特に鯨五十集と呼んでいた。仲買商人が数人で一艘の船を所有する形をとっており、明治中期には、室戸で約10艘の鯨五十集があったという。
(牧野昇他編『江戸時代人づくり風土記・高知』)
塩の民話
その昔、大栃(おおどち:香美市)という山村に住んでいた力持ちの猟師が、南の海辺の村へ遊びに行き、そこで力比べをして勝った褒美に沢山の塩を貰ったという。当時はまだ、塩がたいそう貴重で高価だった頃。大喜びで重い塩荷を担いで山道を登っていたが、途中、ほんのひと休み、と腰を下ろしたところ塩の包みがころころと麓までころげ落ちてしまった。その塩荷が落ちたあたりには「塩」という地名がつけられた。今も残る「塩」という地名の由来話である。話中の南の海辺の村と思われる赤岡は製塩で知られており、「トンボトンボおとまり、赤岡の市で塩買うて、ねぶらしょ」と言った童歌もあったという。
(平島裕正『ものと人間の文化史7塩』)
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