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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第13回 ~塩にまつわる「大移動」 (その7)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

この連載では、第5回から第5回にかけて、「塩にまつわる移動」について考察してきた。途中、第10回第11回は番外編だったため除外すると、都合6回にわたって話を進めてきたことになる。今回は、これまでを振り返って話を整理しつつ、「塩にまつわる移動」についての考えをまとめておきたい。

「塩にまつわる移動」の「方向」について(時間的な前後関係)

この連載では、移動の方向について、大きく「塩のありかへの移動」と「塩のありかからの移動」に分けて検討してきた。しかし、事例が目についた順に議論を展開してしまい、また、その時々で関心を持った様々なテーマも織り込んでしまったため、私自身でも全体像が把握しにくくなってしまった。申し訳ないことであるが、読者の方々には、なおさら分かりにくくなっているのではないかと思われる。あらためて「移動の方向」について、簡単に整理すると以下のようになる。

  • 「塩のありかへの移動」
    ターキン(第5回
    レンバタ島タポバリ村の「山の民」の製塩(第9回 事例4
    『播磨国風土記』に記された製塩集団(第12回 事例5
    明治専売制以前の日向の内陸部の人(第12回 事例6
    新潟県・山形県などの民俗事例(第12回 事例7
  • 「塩のありかからの移動」
    瀬戸内産塩の「塩の道」(第7回 事例1
    三陸の「塩の道」(第7回 事例2
    レンバタ島ラマレラ村の漁民(第8回 事例3
  • 「どちらでもない移動」
    ヒマラヤ越えのドルポの塩の道(第6回

(注: これ以降の文中の「事例」へのリンクは、上記の箇条書きの該当部分へのリンクです。ご確認後はブラウザの『戻る』ボタンで、読みかけの部分へお戻り下さい。)

そもそも、これまでの議論は、第5回の稿での『塩のありかから離れて住むヒトは、ターキンと同じように、はじめは自ら塩のありかへと移動していたのではないか』という疑問に端を発している。にもかかわらず、日本のいわゆる「塩の道」(「塩のありかからの移動」)の方が、目にする機会、情報量とも多く、それをもって「塩の必要性」を語ることへの無力感から、いつしか「塩のありかへの移動を示して塩の必要性を語ることの有効性」という方向に議論が流れ、当初の疑問とはズレた論点で話が進むことが多くなってしまった。

そこで、あらためて当初の疑問に答える形にまとめ直してみると、一応の回答としては、『ヒトの場合も、かつてはターキンのような「塩のありかへの移動(事例4事例6)」が多かったと想定しうる』というものになるだろう。端的に「時間的な前後関係」について言うならば、『塩のありかへの移動の方が前』という回答になる。このスタンスは、『まずは素朴な状態を想定しておいて、他の事例をそこからの発展と考える方が考えやすい』という方法論の上での利点とからんでもいる。また、あくまで「現段階での」回答であって、より確かな回答とするには、今後、同様の事例を積み上げて行く必要があるという点で、大きな課題を抱えてもいる。

そのように課題を抱えてはいるのだが、方法論上の利点に寄りかかって冒険して、例えば、「塩のありかへの移動」を「塩の人類史」における「塩にまつわる移動」の初期段階(この文脈では「未分業」の意)だと考えれば、第12回である程度の総括をしたように、しだいに「集落内分業(事例5での推測)」「流域内分業(事例7)」の段階を経て「地域間分業(事例1)」へと移行し、「塩のありかからの移動」へと置き換わっていったというような「変遷」を描いてみることもできる。

しかし、この「分業をキーワードにした変遷論」は、一見、美しく見えるのだが、全てをこれに当てはめて考えるわけにもいかない。上記のように整理すれば破綻はしていないし、この「変遷論」を大切に考えたい気持ちはもちろんあるのだが、ここまであげてきた多くはない事例の中だけでも、事例2事例3のように、分業の結果「塩のありかからの移動」になったと考えるには違和感のある事例が出てきてしまう。そもそも「塩の人類史」は、「史」という言葉を使ってはいるが、必ずしもこの「変遷論」のような、「時間経過に沿っての説明(=歴史)」を目的にして考え始めたものでもない。事例2事例3のように、変遷の結果とは考えにくい素朴な形の「塩のありかからの移動」を考える上では、「時間的な前後関係」ではない観点での整理が必要になってくる。つまり、「移動の理由は何か」ということである。

「塩にまつわる移動」の「理由」について(必要度と不足度)

「塩のありかへの移動」の場合には、移動の「理由」はわかりやすい。「日常生活圏で塩が得られない」場所にすみ、かつ「塩が必要」であれば、「塩のありかへ移動」すれば解決する。つまり、移動の理由は「塩の不足」である。

一方、事例2事例3のような、「塩のありかからの移動」の場合には、どちらの例でも移動しているヒトは「塩のありか」である海岸にすんでいるのであるから、移動の理由が「塩の不足」であるはずがない。このことは、事例2事例3とは異なる極端な話ではあるが、製塩専業の集団を考えてみればわかりやすい。いくらヒトにとって「塩が必需品」であるとしても、塩だけではヒトは生きられない。つまり、「エネルギーになる食物」が必要なわけである。事例2事例3は製塩を専業としてはいないが、どちらも漁民であり、もっとも有効なエネルギー源である穀物が不足している。つまり、「移動の理由」は、塩の不足ではなくて「穀物の不足」である。

要するに、「不足するから移動がおこる」ということであり、「不足している側が移動する」のが原則だと考えれば説明がつく。事例4事例5事例6事例7では、「塩が不足」しているので、塩を得るために「塩のありか(=海岸)へ移動」して、自ら製塩しているのであり、逆に、事例2事例3の漁民では、「穀物が不足」しているので、塩を作って「穀物のありかへ移動」し、穀物を得ているのである。

話の発端になったターキン(第5回)と地域的に近いという理由で、ヒトの例の最初にドルポの事例(第6回)を出したがために、議論がややこしくなってしまったが、「塩のありかへの移動」、「塩のありかからの移動」どちらにも分類できないドルポの場合は、「塩も穀物も不足」しているのである。いったん、なけなしの穀物を持って「塩のありか(より穀物不足の地域)への移動」をして塩を得たのち、今度は塩を持って「穀物のありか(より塩不足の地域)への移動」をして、より多くの穀物を得るという形で「両方の不足」を補っているのである。「どちらも不足」しているからこそ、「どちらの方向にも移動」する必要があるのであって、やはり「不足している側が移動する」という原則に則っている。

塩を「移動の理由」と考えれば説明がつくのは「塩のありかへの移動」の場合だけであり、それ以外の事例では、塩はあくまで「塩以外の不足」を補うための「手段」にすぎない。現に、事例3では、クジラの干し肉も「穀物を得るための手段」になりえているのであり、必ずしも塩でないと成り立たないというものではない。

このように「移動の理由」を視野に入れて考えたとき、当初の疑問、つまり『「塩のありかからの移動」が先か、「塩のありかへの移動」が先か』という「時間的な前後関係」についての命題はあまり大きな意味を持たなくなってくる。では、先に述べた「分業をキーワードにした変遷論(「時間的な前後関係」に支えられた論理)」を、「移動の理由」を視野に入れて考え直してみたらどうなるだろうか。

「変遷論」は、移動方向の変化の理由を「分業」という、生活の現場から一歩下がった抽象的な概念で説明したものであるが、生活の現場では、「不足の度合い」の方が問題であろう。塩は確かに必需品であるが、木材(燃料または建築材)や穀物もまた必需品である。事例7の場合には、当初は下流側の「木材の不足の度合い」よりも、上流側の「塩の不足の度合い」が勝っていたから、上流側から「塩のありかへ移動」していたのだと考え、しだいに、下流側の「木材の不足の度合い」が大きくなったので、塩を持って上流側へ移動する「塩のありかからの移動」に変化したのだと考えても説明がつく。つまり、時間的な前後関係は絶対ではなく、「不足の度合い」「必要の度合い」をめぐる状況が変化しただけであると考えることもできるわけで、その方が、普遍的な説明になりやすい。

また、「変遷論」での最終段階(地域間分業)に位置づけられる事例1の代表例である千国街道の場合でも、実際に上流部へ塩を運んでいたのは、必ずしも下流部の人ではなく、中山間地域の人々であったことが多いようだが、これも、「塩も穀物もどちらも不足」している人々、つまりドルポのような立場の人々(「不足の度合い」はドルポほどではないだろうが)だと見ることもできるのである。

とはいえ「分業による変遷論」が全く成り立たない論理だと言いたいわけではない。「塩にまつわる移動」を考えるときには、常に「移動の理由」を考えなければいけないということが言いたいのである。つまり「塩にまつわる移動」とは「何らかの不足を補う行動」だということであり、大事なのは、「塩」でも「穀物」でもなく、「どちらもがそろう(不足しない)こと」なのである。

では、「移動の理由」や「不足の度合い」を考えに入れながら、「分業による変遷論」も成り立たせうる論理とはなんだろうか。現時点では、私はそのキーワードを「交易」と「適応」だと考えている。

塩にまつわる「交易」と「適応」

上記のように、「不足の度合い」の観点から見た場合、塩にまつわる「交易」は、典型的には、「塩は得られるが穀物(または木材)が不足する生業を営んでいる集団」と、「穀物(または木材)は得られるが塩が不足する生業を営んでいる集団」との間に起こるとみて差し支えないだろう。両者は「お互いに不足するものを補いあう」関係で結ばれて、異なる生業集団同士が結びついた「より大きな集団(仮に交易ユニットと呼んでおく)」になっていると見ることもできる。「どちらも不足する集団」が仲立ちをしているとすれば、それも交易ユニットの中に入るだろう。

この状態を、「塩のありか=海」とし、「下流=穀物または木材が不足」と「上流=塩が不足」と考え、先の「変遷論」で言えば、「流域内分業」だと言うことができる。ここに、「適応」という概念を導入すれば、交易ユニットというより大きな集団として、「山から海までの流域」というより広大な地域に「適応」したものだという考えが成り立つ。

そこで、「変遷論」での各段階を、「適応」という概念で解釈し直してみると以下のようになる。

  • 未分業(事例4事例6)・・・必要に応じて「塩のありかへ移動」することによって、集団の構成員それぞれが自ら塩不足を補う適応形態
  • 集落内分業(事例5)・・・集団の一部が日常生活圏を離れ「塩のありかへ移動」することによって集落として塩不足を解消する適応形態
  • 流域内分業(事例7)・・・塩不足・穀物(または木材)不足、両方を解消するため、異なる生業集団が連携してより大きな適応集団を形成し、流域全体というより広い地域へと適応した、交易ユニットとしての適応形態
  • 地域間分業(事例7)・・・適応範囲を流域外にも拡大し、より有利な製塩地、穀物(または木材)生産地を生かした、国レベルでの適応形態(ただし実際は仲立ちとしてかなり貨幣経済に依存する)

「適応」という考え方はどうしても結果論的になるのは否めないが、このように考えれば、「分業による変遷論」のような発展論についてまわる、時系列的な制約から解放される。「不足の度合い」の変化次第で、「未分業」の方向へ戻る方がより有利な適応形態になるならば、そちらへシフトしてもよいことになって、様々な事例を考えるのに都合がいい。現に、太平洋戦争末期から戦後にかけて、塩不足が深刻になったときには、事例4事例6のような未分業な状態が、「自家製塩」という形で、各地に現れている。

「適応」という概念を用いたとしても、以上の様な議論をきっちり行うには、もちろん事例が不足している。私がもともと専攻していた生態人類学では、おもに生業集団を扱って、エネルギーになる食料の獲得という文脈での「適応」を考えることに成果をあげてきているが、「塩の人類史」では、交易ユニットのようなより大きな集団も扱いながら事例を積み重ねて行くことで、偏在する塩という必需品に対しても適応してきた人間の姿が描けるのではないだろうかと考えているのである。

では、エネルギーになる食料だけでなく、塩の入手をも含めて、「交易や移動なし」に、環境適応できるような集団は考えられないか。そのような集団は、農耕が可能な内陸(乾燥地ではなくある程度の湿潤地)で、かつ塩資源がある場所であれば、原理的には成立することになる。次回(といっても例によってまた変更するかもしれないが)は、そのような意味で、移動を伴わない適応形態として、内陸製塩について考えてみたい。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2005年2月号に掲載されたものです。)

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