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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第12回 ~塩にまつわる「大移動」 (その6)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

前々回前回と2回続けて番外編としてしまったために、随分間隔が開いてしまったが、今回から、また元の「塩にまつわる移動」の本筋、 第9回の続きへと復帰して話を続けたい。

第9回で紹介したレンバタ島(インドネシア)のタポバリ村の事例は、時間的には身近な現代であるが、空間的にはインドネシアのある村という「身近でない」事例だった。今回は、空間的には身近な日本であるが、時間的には昔の話という「身近でない」事例を紹介して、話を続ける約束だった。

事例5 『播磨国風土記』に記された製塩集団

註1
広山氏は、「塩民の田の佃・但馬国朝来の人来たりて、此処ニ居りき、故・安相の里と号く」という『播磨国風土記』の記述を受けて、「但馬国朝来里を本拠とする一部族の内部分業のためにここに派遣され、共同体に必要な塩を生産していたのではないか」と推察している。これはあくまで製塩専業集団の誕生を考える上での広山氏の解釈であるし、私自身はこのような史料を読み解く訓練を積んでいるわけでもないので、この推察の正しさはよく分からないのだが、氏の推察に沿って考えるならば、但馬国朝来里とはすなわち「塩のありかから離れた場所」だと考えられるし、そこから来た人々とは言うなれば「山の民」であり、「塩のありかへと移動」してきた人々ということになる。これは、第9回で紹介した事例4のタポバリ村の人々の製塩例を考えると、大いにあり得ることだと感じられる。タポバリ村の例は、「山の民」の期間限定での製塩だが、この『播磨国風土記』の記述は、海まで移動して製塩する人々が部族内分業として特定の人々に絞られるようになり、さらに「塩のありか」の方に定住化したものという、タポバリの発展型とも考えられるようだ。広山氏はこのように解釈するに至った傍証として、次の事例6の民俗調査の事例を掲げている。

事例6 明治専売制以前の日向の内陸部の人

『古代日本の塩(註1)』では、誰によるいつ頃の民俗調査であるかが明記されていないが、広山氏自身の聞き取りのようである。それによると、日向の内陸部の人達は、「明治の専売制以前は、一族のうち定まった家族が、適切な製塩期に毎年定まった海岸へ木灰を背負って行き、網代に灰と泥を塗りつけたアジロ釜を作って製塩し、一定量生産できると俵詰し背負って村に帰った」という。

この話は、事例4のタポバリ村の人々の製塩例と、製塩法や装置などでは確かに異なっているものの、「塩のありかから離れた人々」が、「塩のありかへと移動して製塩」しているという図式では全く同じで、むしろそっくりだといっていいのではないだろうか。装置は、タポバリの例では「半割にした竹」であるのに対し、この例では、「材料を持ち込んで作るアジロ釜」で、手が込んでいる。また、タポバリが自家消費的で集団内での分業化が明確でないのに対し、この例では「一族のうち定まった家族」とあることからかなりの分業化が伺える。

このように見れば、両者は異なってはいるのだが、その異なり方は、タポバリの方をより素朴な形態と見て、この日向の人々の事例をその発展型だと見ても、差し支えないような異なり方ではないだろうか。つまり両者の間に直接のつながりはなくても、「塩の人類史」として語る上では、両者は1本の同じレールの上に乗っており、その位置が少し違っているだけではないかと思えるのである。これだけの事例で断定することはできないとしても、「塩の人類史」の中のある段階では、タポバリのような製塩形態、つまり「塩のありかへ移動しての製塩」が、かなり普遍的に見られたのではないかと思えてくる。

つまり、タポバリの例を基本モデルにして、様々な時代、様々な地域で、同様の事例を掘り起こして行けば、しだいに、この「塩のありかへと移動しての製塩」という図式の普遍性や発展型、バリエーションが見えてきて、「塩の人類史」のうちの何ページかが描けて来るのではないかという希望がわいてくるのである。

これは、雲を掴むような「塩の人類史」に対する1つの方法論にもなるかもしれない。つまり「より素朴で普遍的だと思われる事例をモデルに、その発展型やバリエーションを探す」というアプローチだ。まだうまく行くかどうかは分からないし、固執しすぎると、方法論倒れで事実を見失う危険もあるので注意も必要なのだが。いずれにしても、この日向の人々の事例は、『古代日本の塩』の中ではわずか4行の記述に過ぎないが、私にとっては大きな意味を持つ、興奮させられる記述だった。

大枠は、上記のようなアプローチで考えるとしても、例えば、タポバリの割竹による天日製塩を「素朴な形態」、アジロ釜の材料をも運んで行って製塩をする日向の人々の事例を「手が込んだ発展型」としてだけとらえ、単純に考えるのはやはり少々無理がある。インドネシアのレンバタ島と日本の日向地方とでは気候条件が異なるわけで、必ずしも天日製塩に適さない日向地方では、釜を使わざるを得なかったという事情があるだろう。上記のようなアプローチを採りながらも、地域の環境条件も考慮して、発展型やバリエーションといったことを考えていかなければならないということになるだろう。

さて、日向の人々が自前でアジロ釜を作って製塩したというところで、もうひとつ、タポバリにはなかった問題が生じる。それは燃料の調達である。釜を使うなら、当然、燃料が必要となる。先の日向の事例では、広山氏の「製塩専業集団の誕生を考える」というそもそもの文脈には直接関わりのない問題であるためか、燃料のことは記されていないが、日本の製塩を考える上では、燃料調達はどうしても関わって来る最大の問題である。この「燃料調達」の問題と、これまで述べてきた「塩のありかへ移動しての製塩」の両方に関わる事例がいくつかあるので、次に紹介したい。

事例7 新潟県・山形県などの民俗事例~「塩木をナメる」話~

『日本塩業大系 特論 民俗(註2)』に記された、新潟県岩船郡小俣側上流の山村、雷・小俣での聞き取りによると、昔は、山で木を切って目印を付けて川に流し、川狩りをしながら木とともに下流へ下り、河口の府屋でその木を受け止め、それを燃料に、浜の仮小屋で製塩して持ち帰っていたという。そのため、製塩用の木を切ることを「塩木をナメル」と言った。また、小俣から山を越えた山形県東田川郡朝日村大島でも、「塩木をナメル」という言葉があり、同様に、山の木を切って下流の酒田近くの四カ浦の浜で製塩していたと言う。岐阜県揖斐川の上流にもこの言葉はあり、やはり下流で木を受け止めて塩を作って持ち帰っていたと言う。これらのことを受けて『日本塩業大系 特論 民俗』では、「東日本では、かつては広く見られた形態ではないか」と推論している。

これらの事例は、いずれも、昔(いつ頃かは不明)は「燃料とともに、塩のありかへと移動して製塩」していたという事例である。ということは、事例6の日向の人々も、同様に燃料である木を切って流していたとしても不思議はないのである。つまり、タポバリのような「塩のありかへ移動しての製塩」を基本モデルに、「燃料とともに移動」という要素が付け加わったのが、煮詰めないと塩が得られない気候条件である「日本ならではのバリエーション」ということが言えそうである。また、これらの場合、「塩のありかから遠い」人々が、実は、「塩のありかからは遠いが、燃料のありかに近い」人々だったということは、覚えておくべきことだろう。

いずれにしても、「塩のありかへ移動しての製塩」は、海外にしか見られない特殊例ではなく、日本でも、かつてはある程度普遍的に見られた形態だったということになる。第9回でも書いたように、ともすれば日本には「塩のありかへ移動しての製塩」がなかったと錯覚してしまい、「塩の必要性」を語るような場面でも、近世以降の「塩の道(塩のありかからの移動)」の方ばかりが取り上げられ、「塩のありかへの移動」が取り上げられてこなかったのは、単に、いつ頃かは不明なくらい昔の話で、「時代的に身近でなかった」だけのことではないかと思うのである。であるならば、今後、「塩の必要性」を語るような場面では、「塩の道」の話ではなく、もう少し情報を掘り起こし整理した上で「塩のありかへ移動しての製塩」を積極的に語るようにすべきではないだろうか。

では、「塩のありかへ移動しての製塩」が「時代的に身近でなくなっていった」のは、どういう経緯によるのだろうか。先の新潟・山形・岐阜の例では、それぞれ事情は少々異なるものの、同じような経緯をたどっている。

まず、第一の段階として、下流の人々に薪を受けて製塩してもらうようになり、塩木とともに下流に移動して自ら製塩して帰るという形態ではなくなる。つまり、上流の人々が「燃料供給者」、下流の人々が「製塩作業者」というように、いわば「流域内分業」の段階になったということである。

さらに、木を薪として製塩燃料に使うのではなく、下流で材木として現金化し、その金で塩を「購入」するように変化する。この第二段階の変化の背景には、もちろん中・下流部での材木需用の増大もあったわけだが、瀬戸内海産塩の増産と流通拡大が大きく関わっているようだ。つまり、塩の調達方法だけを見ると「地域間分業」の段階になったというわけである。

以上の事柄を、「塩のありかから遠い」人々の塩の調達と分業というキーワードで整理すれば、「自前調達(未分業)」の段階から、「流域内分業」の段階を経て、「地域間分業」へと移行して行ったことが見えてくる。このような経緯を辿って、日本では次第に「塩のありかへの移動」が消えて行き、「塩のありかからの移動(塩の道)」ばかりが目立つようになったのだろう。この場面でも、やはり、より素朴な「塩のありかへの移動」の方を基本モデルにして、その後の発展型やバリエーションを考えるというアプローチの方が、理解がしやすいのではないかと思う。現段階では、事例の質も量も不足しているかも知れないが、さらに情報を積み上げて行くことで、「塩の人類史」の1ページとしての完成度を上げて行きたいと考えている。

今回の稿の最後に、事例6の日向の人々の塩の調達方法が「塩のありかへの移動」でなくなって行った経緯を書いておきたい。『古代日本の塩(註1)』では、「内陸奥地では塩商の塩は高くて買えなかった。専売制になりどこでも同價で入手できるようになって塩づくりは止まった」という話が附記されている。つまり日向の場合は、先にまとめた「分業段階」の変化というよりも、「塩の値段」の変化が大きく関わっているようなのである。

このことは、明治38年から導入された日本の塩専売制度の、ひとつの「成功」を物語っているとも考えられる。日向の内陸部の人々が自前での製塩をやめたのは、直接的には、文字どおり「専売」となって禁止されたという理由もあるのかも知れない。しかし、より大きな視点から見ると、大正11年に「公益専売」に転じて以降、平成9年に廃止されるまで、塩専売制度が目指してきたのは、生活必需品である塩の「全国同一価格」での「できるだけ安価な塩」の「安定供給」であり、この目標が達成されてきたからこそ、人々は「塩の調達」に苦心しなくてすむようになったという考え方もできそうだ。それゆえ、現在の人々にとって、塩は「あって当たり前なもの」になっているのであり、「生きるのに必要なもの」という意識からは遠い感覚になっているのではないだろうか。「塩が必要な物資だ」という意識が希薄になったことこそ、塩専売制度の何よりの成功の証であろう。

それは、逆に見れば、専売制度自身が、自ら「塩の必要性」を希薄にし、自らの存在理由を分かりにくくしてきたという、ある意味では「皮肉な歴史」になっているともいえる。だからこそ、私は、専売によって情報を蓄積してきた側(たばこと塩の博物館もその内のひとつ)が、塩が明確に「必需品」であった時代の姿を後世に伝えて行く責務を負っているのではないかと考えている。塩に限らず多くのモノが「不足する」ということがなくなり、むしろ「差別化」をはからなければ売れないようになっている時代だからこそ、その責務は重いのではないかと思うのである。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2004年12月号に掲載されたものです。)

(註1)
広山堯道・広山謙介 ,2003, 『古代日本の塩』 , 雄山閣

(註2)
日本塩業大系編集委員会 ,1977, 『日本塩業大系 特論 民俗』 , 日本塩業研究会

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