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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第7回 ~塩にまつわる「大移動」(その3)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

前回の稿のおわりに、『人類史のはじめから「交易という文化」があったとは考えにくく、「塩のありか」から離れて住むヒトは、はじめは、ターキンと同じように自ら「塩のありか」へと移動していたのではないだろうか』という疑問を提示した。それは、「塩交易の成立」に関わる話であり、まずは「塩のありかへの移動」か「塩のありかからの移動」かという移動の方向の問題であった。第2の問題は、移動するそもそもの理由、つまり「塩が必要な理由」とは何かということをもう少し具体的に考える必要があるのではないかということだった。今回以降では、その2つの問題を検討することで、「塩交易の成立」に関して、「適応」という論理につらぬかれた「塩の人類史」の物語として、ラフスケッチを描いてみたいと思う。

まずは移動方向の問題である。前回の稿では、塩を求めるターキンが自ら「塩のありかへ移動」するのに対し、ドルポの人々の塩のキャラバンは、「塩のありか」に近い者が「塩のありか」から離れた者に塩を運ぶという「塩のありかからの移動」の話として、単純に対置して書いてしまった。しかし、よくよく見てみると、それは正確ではなかった。

実は、ヒマラヤ越えで塩を運ぶドルポの人々の村では、食料、具体的には穀物が必要量の半分しかとれない。その貴重な穀物の一部を北側の中国領チベットのキアト・チョングラへと運び、チベットの人々がさらに北から運んできたドラバイ湖の塩と交換して来る。その後、その塩を険しい峠を越えた南にあるフリコートやチュマ(同じネパール領だが、チベット系のドルポとは異なり、ヒンドゥー系)の町へ持っていって穀物と交換することで、必要な穀物の残り半分を補っているのである(註1)。

まずは移動方向の問題として、このドルポの人々の例は、厳密には、「塩のありか」から離れて住む者が「塩のありか」へと移動するという形でもなければ、「塩のありか」に近い者が「塩のありか」から離れた者に塩を運ぶという形でもない。北のチベットの人々から見れば、ドルポの人々は「塩のありかから離れて住む者」であろうし、南のヒンドゥー系の人々から見れば、ドルポの人々は「塩のありかに近い者」になり得るということである。

さらに、ドルポの人々の例からは、「移動の理由」には、塩だけでなく「穀物」が関与していることもわかる。このことは、「塩が必要な理由」を探っていくと、塩以外のもの(この場合は穀物)が関わってきてしまう可能性を示している。そうした複合的な事情が関わった「移動の理由」を考えるためには、単に塩だけの機能からその必要性を考えるだけでは不十分で、塩以外のものを含んで「生きるために必要なもの」全体の中に塩を位置付けていかなければならないということになるだろう。しかし、「生きるために必要なもの」との兼ね合いの中で、「塩が必要な理由」や「移動の理由」を探っていく話は、検討しはじめると長くなるため、今回の稿で移動方向の問題と一緒に検討するには無理がある。それは、次回以降に検討することにして、今回は、移動方向の問題の方から検討してみよう。

移動方向について、簡単に「塩のありかへの移動」と「塩のありかからの移動」の2つに整理したとき、ドルポの人々の塩のキャラバンは、両方向の移動によって初めて成立しているということができ、どちらか一方に分類することはできない。この事例だけでは、『塩のありかから離れて住むヒトは、はじめはターキンと同じように、自ら塩のありかへと移動していたのではないか』という前回の稿のような疑問を考える上で、都合が悪い。そこで、ここから先は、しばらく、「塩のありかへの移動」または「塩のありかからの移動」のどちらかに分類できると思われる他の事例をいくつかあげて、塩にまつわる「移動の方向」を整理してみようと思う。

「塩のありか」からの移動

塩にまつわる移動の話として、まっ先に思い浮かぶのは、ヒマラヤの話ではなくて、我が国の「塩の道」の話だろう。これはどちらかといえば、「塩のありかからの移動」の方に分類されると思う。まずはそれを皮切りに、「塩のありかからの移動」に分類できると考えられる事例を挙げていこう。

事例1 日本のいわゆる「塩の道」の数々

これには「海と内陸を結ぶ古い道はすべて塩の道である」といわれるくらい、多くの例がある。よく知られている千国街道(新潟県糸魚川~長野県小谷・大町~松本・塩尻)は、近世の例では、運ばれている塩は瀬戸内産で、厳密には「塩のありかから」の移動ではなく、中継点からの移動である(註2)。しかし、少なくとも、ドルポの人々のようにいったん「塩のありか」へ移動するというようなことはなく、「塩のありか」である瀬戸内から終着点の「塩のありかから離れた人々」のところまで移動方向は変わらない。単に運び手が分業しているのだと考えれば、「塩のありかからの移動」に含めてもいいだろう。また、例えば、千国街道ほど有名ではない秋葉街道(静岡県相良~青崩峠~長野県大鹿・高遠~諏訪地方)の例(註3)では地場の塩が運ばれていたから、日本の「塩の道」の数々は、古代に遡れば、多くの場合海から山へと地場の塩を運ぶ、まぎれもない「塩のありかからの移動」だったと考えていいのではないかと思う。
しかし、これらの事例だけでは、「塩のありか」の人々がそのまま塩を運んでいくという形でないものも含まれ、瀬戸内塩以前のことについて推測もあるので、海から山へという形での「塩のありかからの移動」の典型例とするには無理があるように思う。また、後に検討したい「移動の理由」もよく分からない。そこで、より素朴な事例の中に、海から山へという形での典型例をさがしてみた。

事例2 三陸の「塩の道」

三陸海岸沿岸では、明治末まで、海水直煮で製塩する村々が多かった。その背景には、気候的にも地形的にも農業に恵まれなかったという事情があり、塩を内陸へ運んで、米などの農産物と交換していたのである。『日本塩業大系 特論民俗』には、そのような三陸の塩の道の事例が8例も出ている(註4)。中には1例だけ例外があって、海岸で製塩した後、内陸に向かわずに舟で宮古へ運んで交換するという「海から海へ」という例があるが、これは、農産物の産地へ直接塩を運ぶのではなく、集散地へ運ぶだけの違いであり、「塩のありかからの移動」に含めて考えていいだろうと思う。

その例外を除く三陸の典型的な「海から山へ」という事例の中では、岩手県北部の野田村を代表例に挙げたい。野田村でも海岸の人々が海水直煮で製塩し、北上山地を越えて内陸の盛岡や雫石へ運んで、米などと交換していた。ときには、遠く秋田県まで運んだこともあったという。もともとは牛の背に載せて運んでいたので、「野田塩ベコの道」という呼び名までつけられている。のちに馬が用いられるようにもなったようだが、「野田塩ベコの道」として親しまれ、定着していたためか、呼び名はそのまま残った。近年、その歴史を見直そうという動きがあり、青年会議所などが中心となっていろいろな企画が催され、塩事業センターの『Salt21』(註5)にも取り上げられている。

日本の「海から山へ」の塩の道としては、有名な千国街道などよりも「移動の理由」がわかりやすく、「塩のありか」の人々がそのまま塩を運んでいく素朴な形でもあるので、三陸の「塩の道」の方を典型例として考えたい。つまり、日本の「塩の道」は、「塩のありかからの移動」に分類でき、それは本来、農産物に恵まれない「塩のありか」の人々が、農産物を求めて内陸へ移動するということだったのではないかと考えられるのである。

農作物(とくに穀物)がとれない海岸の人々が、塩を作って内陸へ運んで農作物を得るという話ならば、何も日本に限らず、海外にも例があるはずだ。次回はその事例から、話を続けたいと思う。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2004年1月号に掲載されたものです。)

(註1)
Diane Summers[Text], Eric Valli[Photo], 1996,「ネパールの秘境地帯ドルポ~最後のキャラバン南へ」『GEO』3(2),同朋舎,80-102

(註2)
富岡儀八,1978,『日本の塩道-その歴史地理学的研究』,古今書院 など

(註3)
有賀競(著)・野中賢三(写真・イラスト),1993,『秘境はるか 塩の道 秋葉街道』

(註4)
日本塩業大系編集委員会(編),1977,『日本塩業大系 特論民俗』,日本塩業研究会,647-667

(註5)
[塩の道を歩く]「岩手県 野田塩ベコの道」『Salt21 No.8』2001.10,塩事業センター企画部刊

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