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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第24回 ~九州の塩泉紀行 その4-宮崎県鹿野田神社塩井戸・高屋温泉- ~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

今回も、前回に引き続き、2006年3月に訪れることができた九州の塩泉について得られた情報を紹介しながら、「内陸製塩」や「塩の代替としての塩泉利用の文化」について考えていきたい。

宮崎県西都市へ

大分の臼杵駅を朝9時頃に出発して、特急列車で宮崎へ向かう。列車は、延岡までの間、何もない山の中を延々と走り続ける。通過する駅も、駅しかないようなものがほとんどで、人家が見当たらない。夜になったら車窓の風景は、恐らく黒一色になるのではないかと思われるほどである。延岡あたりで、ようやく人の気配が感じられる風景になってホッとする。事前に、大分~宮崎の行程は大変だと聞いてはいたが、なるほどと思われた。今回は特急列車だからまだいいようなものの、一本しかない国道(高速道路は未整備)をレンタカーで行ったとしたら、いつ宮崎に着くのか気が遠くなるほどであろう。隣の県とはいっても、まるで別世界のような感覚である。

昼頃にようやく宮崎駅に着いた。この移動だけで半日つぶれてしまったが、目指す鹿野田神社の塩井戸や高屋温泉は宮崎市ではない。ここからやや北に戻った西都市にある。西都は古墳群が有名で、観光地でもあるはずだが、鉄道はない。2時間弱の距離ではあるが、バス便に頼っていたのでは時間のロスが大きく、行った先での移動もままならないと想定されたため、レンタカーを使うことにする。

西都に着いたものの、泊まりたかった高屋温泉はすでに予約がとれなかったため、まずは宿を探さねばならない。西都市街と鹿野田神社は意外に離れているが、宿は市街で探す他はない。鉄道の駅がないため中心地がはっきりせず、自動車で走る範囲では観光案内所のようなものも見つけられない。何のあてもないので、仕方なく西都市歴史民俗資料館に行ってみる。鹿野田神社の参考資料でもあればと思って立ち寄った訳だが、用件を話すうちに、「今夜の宿はどちらですか」という話になり、宿がないことが伝わると、親切なことに宿探しまで手伝ってくれた。レンタカーを使用しているので駐車場があることが絶対条件で、鹿野田神社とは反対側になってしまうが、市街の外れにある宿を何とか確保することができた。歴史民俗資料館には鹿野田神社の参考資料はないということだったが、直接、宮司さんに聞く方がいいでしょうという話になり、宮司さんに電話までしてくれた。あいにく宮司さんは不在だったが、17時過ぎには戻るということで、後で電話してアポイントをとる手はずを整えてくれた。

この段階ですでに夕方に近く、明るいうちに鹿野田神社や高屋温泉の位置を確認しておきたかったので、結果的に観光案内所のように使っただけになって申し訳なかったが、歴史民俗資料館内を見学するのは諦めて、鹿野田神社と高屋温泉へと向かう。レンタカーに搭載されたナビだけでは位置がよく分からず、ナビと、持参した2万5千分の一地形図を併用して場所を突き止め、翌日に備えて、道順をおぼえることにする。

鹿野田神社の下見・飲泉

鹿野田神社(位置)は、14世紀半ばにこの地を支配していた伊東氏が築き、以来約250年にわたり日向を治める居城となった「都於郡城」趾の北西2kmほどのところにある。県道18号から逸れた主要道路に面しているのは参道入口の鳥居だけで、注意していなければ車で通り過ぎてしまいそうである。神社自体は主要道路からさらに逸れて田んぼの中を伸びる参道を200mほど進んだ奥にあり、参道はまるで田んぼの中にかかった橋のようである。神社を中心に農業と牧畜を営む集落がある。翌日、うまく人に会えれば、神社周辺の集落でも塩泉利用の聞き取りができるかも知れないと期待が高まる。


<写真1> 鹿野田神社の参道入口

鳥居の奥の森が鹿野田神社。塩井戸は森の麓にある。

<写真2> 鹿野田神社より参道を望む

神社の本殿から参道を見下ろした風景。画面右から左上に向かって田んぼの中を参道が走り、画面中央やや右に参道入口の鳥居がある。


<写真3> 鹿野田神社全景

鳥居をくぐって左の大きい方の屋根が塩井戸の覆屋。神社の本殿は鳥居の右奥の階段を上った高台にある。

塩井戸は鳥居をくぐってすぐのところにあり、塩井戸専用の建屋に覆われて保護されている。覆屋に入ると井戸の口が2つある。小さな祠がありガラスの蓋がかかっている方がおそらく本来の塩井戸で、柄杓が備えられた方は飲泉用の井戸ではないかと思われる。飲泉用の井戸の傍らには、「御神水」として販売もされている旨が表示されている。サンプルの採水をするよりも、明日この「御神水」を購入して、館宛に発送してもらう方が良さそうである。


<写真4> 塩井戸の覆屋外観

右側の建物が塩井戸の覆屋。


<写真5> 塩井戸

覆屋の中にも小さな祠がある。祠の手前のガラス蓋が載った石組みが塩井戸。


<写真6> 塩井戸わきの飲泉所

覆屋の中には、塩井戸(右端の石組み)とは別に、飲泉用の井戸もあり、柄杓が添えられている。「御神水」として販売もされているようである。

ひとまず一口だけ頂いてみると、若干の鉄味はあるものの、六ヶ迫鉱泉よりもずっと弱い。塩味自体も、後味ににがりが残るようなしつこい感じを受ける海水とは異なり、すっきりとしたしょっぱさで、飲みやすい。神社なので浴場は存在しないはずだが、塩井戸の上には、浴用・飲用の効能書きがついた成分表が掲げられていた。それによるとナトリウムイオンは5941mg/kgで、海水の半分強であり(成分の詳細は次回に触れる)、マグネシウム分が少なめで、製塩にも適した泉質ではないかという点で期待が高まる。覆屋にある解説文には、「塩水を薬用として飲用」という記述があり、その点ではこれまで紹介して来た塩泉と同じであるが、味という点では、塩分の低い今畑鉱泉(第20回)や鉄分の多すぎる六ヵ迫鉱泉(第23回)よりも「塩の代替」として利用しやすいものだと考えられる。また、調理への利用例も若干見られたかつての神塩鉱泉(第22回)よりもかなり塩味が強いものだと思われ、「製塩」までは行かなくても、何らかの「塩の代替」としての利用例は出てくるのではないかと期待が高まる。九州の東側を延々と南下して、最後にようやく、最も成果が期待できそうな塩泉にたどり着いたのではないかという感慨を持った。


<写真7> 塩井戸上の成分表示

成分についての詳細は次回で考察することにしたいが、左上の源泉名に「潮満玉の泉」という記述があるのが興味深い。

鹿野田神社塩井戸の由来

ところで、塩井戸の覆屋内の成分表に記された源泉名が「潮満玉の泉」となっているところにも表れているように、鹿野田神社の塩井戸には、「古事記」などで有名な海幸彦・山幸彦にまつわる伝説があり、訪問前からも気になっていた。他の塩泉の場合、六ヵ迫鉱泉(第23回)のように、弘法大師などが関わるものは多いようだが、さすがに日本神話が関わるものは聞いたことがなく、神話に彩られた西都原に近いこの塩泉ならではの際立った特徴であるといえる。以下、本連載の本題からは逸れるが、「塩泉利用」の話に入る前に、伝説について紹介しておきたい。
まず、塩井戸の覆屋のガラスにも塩井戸の由来が書かれていたので、以下に転記して紹介する。なお、文中の【】は私の補足である。

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鹿野田神社と潮満の泉について

草稿者 大町三男


<写真8> 塩井戸覆屋に書かれた「潮満の泉」の由来解説

この鹿野田神社は明治の初めごろまで、潮妙見大明神とか潮妙見様とかいわれ、彦火火出見尊<ひこほほでみのみこと>をお祀りしてあります。
創建の年代ははっきりしておりません。棟札は弘安六年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。
『彦火火出見尊は別名を火遠理命<ほおりのみこと>といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命<ほでりのみこと>の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神<わだつみのおおかみ>のもとへ行き、三年の後なくした釣針のほかに潮満玉<しおみつたま>と潮涸玉<しおひるたま>を授かって帰られました。』(古事記)
この潮満玉・潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満の泉はその御神徳によるものといわれております。
この潮満の泉は深さ一丈(約三米)余り、海を隔ること三里(約十二粁)に余りながらこの塩水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれております。
享保十二年(1726)の社殿再興の棟札には、上下万民崇敬の様子を述べると共に、こ【の】潮満の泉の功徳をたたえて哀愍六合を覆うと述べております。
平安時代の有名な女流歌人和泉式部は八代の法華嶽薬師に参籠した後、帰郷の途中再び病となり鹿野田氷室の里(潮)までたどりつきこの潮満の泉で湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠り読経三昧の日を送り、竟にこの地で四十三才の生涯を終わったと伝えられています。
『日隠れや氷室の里を眺むれば藻塩の烟りいつも絶やせぬ』
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠った薬師堂跡と式部の墓があり里人によって祀られています。(日隠れ=城内の古名)
このように由緒深い潮妙見様は、伊東氏・島津氏の両時代も領主領民に深く崇敬されてきました。
江戸時代の末には、勤王の志士高山彦九郎が諸国遊説の途この社に参拝し村人と濁酒を吸【汲の誤表記か?】み交し、また肥藩の学者安井息軒が都於郡の史跡巡りをしてここを訪れ神主の丸山宅に一泊して夜通し神楽を見物し『筋骨のあらぶる神の一さしに天の岩戸は早明けにけり』と詠んだと記されています。
時は流れて今日に至も常に里人の崇敬は篤く、霊験あらたかなるこの潮満の泉の塩水を薬用として飲用する人もあり春秋の大祭には大へんな賑わいを見せています。

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また、上記の解説文だけでは、海幸彦・山幸彦の物語と塩井戸の関わりが分かりにくいと思われるので、以下に物語のあらすじを紹介して補足したい。なお、古事記などの原典をあたった訳ではなく、幾つかのホームページ(例えばこちら)から抜粋して、私がまとめたものなので、神話として正確ではない可能性がある点をあらかじめお断りしておく。

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海幸彦と山幸彦の物語(筆者抜粋)

天孫降臨で降りてきた邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の間には、長男の火照命(ホデリノミコト)、次男の火須勢理命(ホスセリノミコト)、三男の火遠理命(ホオリノミコト=ヒコホホデミノミコト彦火火出見尊または日子穂穂手見命)という3人の男子があった。火照命は「海幸彦」ともいい、海で漁をするのがうまく、三男の「火遠理命」は山幸彦ともいい、山で獣を狩るのがうまかった。
あるとき、山幸彦が「互いの道具を交換して獲物を捕ろう」と提案し、海幸彦もしぶしぶ交換に応じたので、海幸彦が山幸彦の弓矢を持って山へ、山幸彦が海幸彦の釣り針を持って海へと向かった。ところが、漁をしているうちに、山幸彦は、海幸彦の釣り針を海の中になくしてしまった。山幸彦は仕方なく家に帰り、許しを請うが、もともと仲が良くなかった海幸彦は許してくれない。海は広く、山幸彦一人では探しきれす、山幸彦は自らの剣を千本の釣り針に作りなおして献上したが、不寛容な海幸彦は許してくれなかった。
山幸彦が途方にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩土老翁神(シオツチノオジノカミ)が顔を出した。事情を聞いた塩土老翁神は小舟を作って山幸彦を乗せ、「このまま良い潮に乗って進めば海神(ワタツミ)の宮に着く。その娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)が出てきて知恵を授けてくれるだろう」と告げた。 山幸彦は言われたとおりに海神の宮へ行き、豊玉姫に会うと、これが大変な美人だった。豊玉姫も、大変な美男だった山幸彦に一目惚れで、海神にも許されて結婚した。そのまま山幸彦は海底に住み着き幸せな日々を送るうちに、たちまち3年が経ってしまった。
ある日、自分が海底へ来た理由を思い出した山幸彦が、豊玉姫に事情を説明すると、海神が魚たちに大集合をかけてくれた。魚たちの中から、海幸彦の釣り針を飲み込んで困っていた鯛が名乗り出て、無事に釣り針を取り戻すことができた。
地上へ帰る山幸彦に、海神は、「この釣り針を返すとき、『この釣り針はつまらない針、うまくいかない針、貧乏の針、おろかな針』と心の中で唱えながら渡しなさい」と呪文を教えた。さらに海神は、潮満玉(シオミツタマ、または塩満玉・塩盈珠)、潮涸玉(シオフルタマ、または塩乾玉シオヒルタマ)という2つの宝玉を山幸彦に授けて、「呪文によって貧しくなった海幸彦があなたを憎んで攻めてきたらこの潮満玉を使いなさい。潮がたちまち満ちて、海幸彦をおぼれさせることができる。海幸彦が謝って救いを求めてきたときは、潮涸玉を使えば、潮が引きます。そうやってこらしめれば海幸彦は降参するでしょう」と教えた。
豊玉姫を残して地上に帰った山幸彦が、海神から教えられた通りに呪文を使うと、海幸彦の国はたちまち貧乏になってしまった。怒った海幸彦は山幸彦の国へと攻め入るが、山幸彦は潮満玉を使って海幸彦を溺れさせ、海幸彦が命乞いをすると潮涸玉の力で助けることをくり返した。その結果、海幸彦は、山幸彦が海神から力を授かったことに気付き、大人しくなって、以後は山幸彦に仕えることを誓った。こうして争いはめでたく収まった。
鹿野田神社は山幸彦が海幸彦をこらしめたときに使った潮満玉と潮涸玉をご神体としており、境内にある潮の井は、「潮満の泉」とも呼ばれ、潮満玉を使ったときに潮が吹き出した井戸だとも言われている。海から10km以上離れているにもかかわらず、潮の井から湧き出る水は塩辛く、また、潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するという。
なお、山幸彦の御陵について、日本書紀には「日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)」とあり、都於郡城跡がその地であるともいわれている。

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この物語は、海の民である隼人の筑紫朝廷への屈服を表す神話であるとされているものだが、世界各地に似たような神話が伝わっており、必ずしも日本神話のオリジナルではないらしい。この物語の中では、「潮流を司る神」という役回りで塩土老翁が登場するが、塩土老翁は塩竃神社に祀られる「製塩を人間に教えた神」としても有名であり、興味深い。

私は神話の専門家ではないから、ここで「この塩井戸こそが潮満玉の泉である」と主張したい訳でもないし、神話の内容や伝説の真偽を問題にしたい訳でもない。ここで伝説について紹介するのは、この連載で塩泉利用について考えているうち、「多くの塩泉に伝説が付随しているのは、海水以外にほとんど塩資源がない日本ならではの現象で、内陸で塩水に出会うのが珍しいからこそではないか」ということに気付いたからである。

「塩の代替として役に立つ・立たない」というレベルでの"堅い"塩泉利用論を核にしつつも、このような伝説もまた「塩泉利用の文化」の一端であると考え、塩の代替としての利用と合わせて事例を収集していった方が、「塩泉利用の文化」を語る上では「おもしろい」のではないかと思い到ったというわけである。明日の宮司さんへの聞き取り調査では、何らかの成果が期待できそうな「塩の代用」としての塩泉利用の事例ばかりでなく、可能な範囲で、神話についても話が聞ければと考えておくことにする。

高屋温泉の下見・入浴

高屋温泉(位置)は、都於郡城趾から続く高台の北側にあるが、観光バスなどが着く都於郡城趾の入口とは反対側になるため、別の道から細い山道を行った方が早い場所だということがわかった。また、鹿野田神社との直線距離は1km強で、事前には歩ける距離かも知れないと考えていたが、実際に現地に行ってみると、両者を直に結ぶ道がないためかなり遠回りになり、また高屋温泉へは曲がりくねった山道を通ることになるため、移動距離は遠くなることがわかった。両者の集落も連続していないため、おそらく昔は別々の村で、車のない時代なら生活圏も別だったのではないかと思われる。徒歩で両者を行き来するのは大変で、レンタカーを借りていて正解だった。


<写真9> 高屋温泉遠望

画面右端の曲がりくねった山道を下った先の、咲き始めの桜に囲まれたところ(画面中央)が高屋温泉。画面左が都於郡城趾のある高台の北端で、西向きに撮影したもの。


<写真10> 高屋温泉の浴場外観

背後にある母屋とは別棟の浴場(照明のある建物)。浴場の奥が都於郡城趾の高台。画面左の屋根の下に飲泉所がある。

この時期の高屋温泉はスポーツ合宿で貸切になっており、フロントのスタッフも夕食の準備などで忙しい様子だったが、用件を伝えて、翌日の昼過ぎに話を聞く約束をすることができた。事前に宿泊予約ができなかった理由もスポーツ合宿で貸切のためだと判明したが、この時間なら入浴だけなら可能だとのことだったので、入浴することにした。


<写真11> 高屋温泉の浴室

鉄分はさほど濃くなく、湯はほとんど透明である。飲泉用の源泉ではなくて沸かし直した湯の注ぎ口のため、泉質が異なる可能性があるが、ちょっと舐めて味見をする。鹿野田神社よりやや鉄分が感じられるが、六ヵ迫鉱泉(第23回)のような強烈な味ではない。鹿野田神社よりもかなり塩味が薄いが、六ヵ迫に比べれば「しょっぱい」と表現できる味である。塩の代替としての利用という点では、鹿野田神社ほどには期待できないかもしれないが、鉄分と塩分で感じる限りは、むしろ、今となっては分からない昔の神塩鉱泉(第22回)に最も近そうな味(炭酸が全くないところは異なるが沸かし湯のためかも知れない)であり、神塩鉱泉で出て来た事例を考えれば、明日の聞き取りで何らかの利用法が出てくるかも知れない。

高屋温泉の由来

鹿野田神社とは異なり、事前にはこの温泉にまつわる伝説は知らなかったが、現地の看板に書かれていた由来に興味深いものがあったので、以下に転記する。

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<写真12> 高屋温泉の由来を記した看板

高屋温泉の西の方の台地に高屋山稜があります。ニニギの尊の御子で神武天皇のオジイ様ヒコホホデミの尊の御陵です。今でも毎年里人が集まって御陵祭りをして居ります。此の地方は西都市鹿ノ田の名前が残っておりますように、昔はたくさん鹿が棲息しており、古代の人たちの狩り場だった様です。 命もある日この谷里で鹿を射止められましたが、深いやぶの中で見失われました。その事をお聞きになった奥方が従者を連れてさがしておられたところ、谷間の湧水の泉の中で体をやすめて居た鹿が元気に坂をかけのぼりましたので、今でもこの坂を鹿活坂と云っております。奥方がその泉のほとりに社を建てお祭りになりました。
中世になって伊東氏が日向の大主になって御陵のところ一帯に城を建て栄華を極めましたが、戦国時代はこの泉のところが戦傷者の療養所になって居たそうです。

     傷病の武士らかくれて癒えせしと云う           湯場あり ここ城跡の谷は  (吉野禎晃)

日本で初めて遣欧使節としてローマに行った伊東満所はこの城で育ったのです。昭和十年創始者が塩水の試験を県にたのみましたところ分析の結果人体に必要なミネラルが沢山ふくんで居るので胃腸病の特効があるからと県の方からすすめられて温泉場を始めました。

     女郎花 いざこの野辺に宿借らん           我待つ虫の声も絶えねば  (安井息軒)

     呑んで利く高屋温泉もず日和  (旅人)

天然カルシウム・胃腸特効
鯉料理                高屋温泉
宿泊                西都市都於郡高屋

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上記の文章だけでは分かりにくいが、鹿野田神社の項で得た日本神話の知識を援用しつつ文章を読み直すと、高屋温泉にも、神話と関係する伝説があることが分かってくる。つまり、海幸彦との争いを解決した後の時代、高屋山稜(現在の都於郡城趾の高台)に住んだ山幸彦(上記文中では「ヒコホホデミの尊」、あるいは「命」と表記)が射止め損なった鹿を、豊玉姫(上記文中では「奥方」と表記)が発見した泉(文中では明確ではないが、戦傷者の療養所という記述から塩泉だと考えられる)が高屋温泉の起源だということのようである。

どうも、日本神話に関わる伝説ばかりで不思議な感じにとらわれるが、日本では珍しい塩泉が、これだけ近い距離にあるのだから、神話の上でも関係づけられているのは、むしろ当然だと言えるかも知れない。この看板の出典は不明で、「奥方」つまり豊玉姫が泉のほとりに社を祀ったと言う記述に相当する社が現存するのかどうかも不明だが、明日の聞き取りでは、何らかの関係する社についても明らかになるかも知れない。

また、由来看板とは別に、浴場の脇には、近年の新聞記事を基にして作られた看板も掲げられていた。そこにも、幾つか興味深い話が記されていたので、以下に転記する。
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ゆったりと九州山口温泉紀行「満所も飲んだ太古の海水」

(読売新聞朝刊1999年3月3日)


<写真13> 高屋温泉の記事を転載した看板

傷ついたシカが、温泉で元気を取り戻し駆け上がったことから「鹿活坂」の名のある県道。その坂をわき道に入ると間もなく見えてくる。都於郡城の小高い丘陵の谷あいに、山水画のような枯れたたたずまいが広がる。三月は枝垂れ梅や白梅、紅梅が咲き誇る。四月になれば、周囲の山桜が、彩りを添えるという。
一五八二年(天正十)、長崎からヨーロッパへ向かった天正遣欧使節団の首席正使・伊東満所(マンショ)ゆかりの温泉、宮崎県西都市鹿野田の高屋温泉を訪ねた。
一九三六年、呉服商船橋与利丸当主が城の下に満所も愛飲したという鉱泉が湧出していることを聴き、これが塩化ナトリウム、カルシウム、マグネシウムなど有効成分がきわめて豊富に含有しているのを知り、これを範く篤知するため湯治場を開いたのがこの温泉。少年使節四人を乗せ、ヨーロッパを目指す三本マストの南蛮船「イグナシオ・デ・リマ号」は木の葉のように波にほんろうされ、少年たちは大変な船酔いになる。「そんな中で、マンショ一人は船酔いなどどこ吹く風とケロリとしていた」宮崎放送でラジオ制作部専任職部長をしている毛利泰之さんの歴史小説「きりしたん伊東満所物語」は、こう記している。満所が船酔いに強かったなぞを解くカギが高屋温泉にある。
満所は日向の国に君臨した戦国大名、伊東義祐の孫。西都市の都於郡の居城で生まれ育った。この城は鎌倉時代伊豆の国から下向した伊東祐持の築城で、以来二百五十年これを本城に日向一円を領した中世山城としては全国屈指のもので、山頂に今もその跡をしのばせている。城の北側のがけ下に古来わき出ていた鉱泉が同温泉の泉源で、ヨウ素を含むアルカリ性塩分泉。取材で度々訪れ、同温泉のファンの一人になった毛利さんも、「塩辛い温泉を飲むと胃腸の中がきれいに掃除され快調」とうなずく。
もう一つのなぞ。高屋温泉はなぜ塩辛い?
宮崎大学教育学部の金子弘二教授(岩石鉱物学)によると、宮崎平野は海の底だった地層「宮崎層群」が隆起してできたという。「この地層に約八百万年から三百万年前の太古の海水成分が"パッケージ"されている可能性が高い」と説明する。
同温泉から北東約一キロの鹿野田神社は、「古事記」の山幸彦(彦火火出見尊[ひこほほでみのみこと])を祭る。
境内に、やはり塩水がわく天然の井戸がある。丸山邦夫宮司は「山幸彦が一緒になった海神の娘、豊玉姫が陸と海を行き来した『海つ道』がこの井戸」と言う。「井戸に落ちた牛が『鬼の洗濯岩』で有名な青島近くの海に出てきた、という伝説もある」と話は尽きない。
高屋温泉の湯船に体を沈める。手のひらにすくった透明な湯を口に含み、「地球の歴史」、山幸彦らの「神話の歴史」、伊東満所らの「人間の歴史」に思いをはせた。

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もとの記事は確認していないが、新聞記事の転記であるらしい。転記するときの問題か、話題の転換や改行がやや不自然な感じもあるが、いろいろな情報が盛り込まれていておもしろい。この看板を読むまで、この地が、有名な「天正遣欧使節」の一人である伊東満所の出身地だったとは知らなかった。その伊東満所と高屋温泉の塩泉との結びつきは、いささか後からのこじ付けといった感もあり、塩泉のもとを単に太古の海水と考えるのも事実と違う可能性がある(事前にガス田付随水という別情報を得ていた)など、正確な情報ではないかも知れないが、鹿野田神社の塩井戸が豊玉姫の「通い道」になっていたという記述もあり興味深い。明日の鹿野田神社の聞き取りでも豊玉姫の話題が出てくるかも知れないと期待が高まる。

今回の目的地である鹿野田神社と高屋温泉は、どちらとも、いわゆる観光コースからは少々外れている。明日いきなり訪ねようとしてもかなり戸惑うことになったと思われる。半日を予備調査として、事前に場所を確認することができたのは収穫だった。また、数々の伝説との結びつきについて情報が得られたのも良かったと思う。と同時に、これほどいろいろな伝説や歴史が付随した塩泉が、観光地としては必ずしも有名でないことを少々残念にも思った。

高屋温泉に入浴後、市街に戻って宿にチェックインし、翌朝10時に宮司さんに話を聞くアポイントも無事に取ることができた。結局、大分からの移動と調査の準備で、今日一日を費やしてしまった訳だが、手探りで訪問した割には、何とか調査最終日に聞き取りができる段取りを整えることができてホッとした。特に、鹿野田神社の塩井戸は、泉質としても、「塩の代替利用」の事例が出て来る可能性が高いように感じられ、数々の神話との関わりと合わせ、翌日の調査に期待を膨らませながら床に就いた。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2007年3月号に掲載されたものです。Webマガジン『en』は2007年3月号をもって休刊したため、本連載は未完となっています。)

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