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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第23回 ~九州の塩泉紀行 その3 -大分県六ヶ迫鉱泉- ~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

今回も、前回に引き続き、3月に訪れることができた九州の塩泉について得られた情報を紹介しながら、「内陸製塩」や「内陸部の塩事情」について考えていきたい。

六ケ迫鉱泉へ

中山香駅の親切な駅員さんに教えてもらった通り、臼杵駅の一つ手前、熊崎駅で降りる。すでに18時半になっており、駅前でもすっかり暗くなっている。人影もまばらな駅前には、タクシー乗り場らしきものすらない。初めて訪れる者にとっては、何とも心細い小さな駅である。

しかし、小さい駅であることは、裏を返せば、駅員さんの心配りが期待できるということでもあった。駅員さんに宿の電話番号を調べてもらうだけのつもりだったのだが、なんと、そのまま宿に連絡までしてくれた。夕食の支度は終わっていたが、「夕食なしでよければ、宿泊はできます」ということだったので、宿泊を頼み、さらに駅までタクシーを呼んでもらった。東京の感覚で考えれば、宿やタクシーの手配は駅員の仕事の範疇であるはずもなく、つくづく親切な対応だったと思う。なりゆきでたどり着いた旅行者にとってはおおいに助かった。

「夕食なし」が宿泊条件だったので、夕食を買わねばならなかったが、駅前には一軒も店がない。とりあえずタクシーに乗って、運転手さんに聞くと、途中にコンビニがあるという。日頃から、「日本全国津々浦々まで、コンビニだらけになって、どこでも風景が似通ってくるのはいかがなものか」と思っていたりする私だが、そうなってくれているおかげで、なんとか夕食が確保できた。

目指す六ケ迫鉱泉は、駅では「車で15分くらい」と聞いていたので、それほど遠くないのかと思っていたが、タクシーは市街地や耕作地を走り抜けて、真っ暗な山道に入って行く。考えてみれば、東京の渋滞と信号のある15分と、信号もまばらな田舎の15分では、車の移動距離が全く違うということだ。とても車なしで行けるような場所ではなかった。すっかり真っ暗になった谷を奥まで進み、さらに脇道に少し逸れた場所に、目指す鉱泉宿があり、都会人には頼りなげな灯のなかに、ひっそりと建っていた。

鷺来ヶ迫温泉「源泉俵屋旅館」での聞き取り

お世話になった「俵屋旅館」は、完全な湯治宿の雰囲気で、ほかにも宿泊客があるらしかったが、夜8時にもならないというのに真夜中のように静まり返っていた。ご当主に、手短に当方の身分や旅の目的を話して、簡単な聞き取りをさせてもらった。療養目的で部屋で休んでいる他のお客さんを考えると、あまり長時間の話もしづらく、簡単な聞き取りに留まったが、製塩の史実や料理等への利用の有無などについて確認することもできたので以下にまとめておく。

昭和45年生まれの若いご当主は、北九州や大分での会社勤めからUターンして5年目になる。
来館者の7割が飲泉目的で、3割が入浴であり、飲泉主体の湯治場(観光温泉ではない)である。
昔は年1万人来館するときもあったが、今は年5千人くらい。今後は、ヨーロッパのように、飲泉中心の療養施設として宣伝していきたいと考えている。
六ヶ迫は集落9戸の小さな農村だが、源泉は全部で11箇所ある。
飲泉や入浴以外の利用としては、ご飯を炊くときに使う。もちもちした黄色っぽいモチ米のような感じに炊き上がる。これは今でもやるときがある。 ご飯以外の料理には、成分的に鉄分が多くて、難しい。
製塩の史実はない。煮つめて湯の花の販売をしていたことはあるが、今はやっていない。
塩づくりを意図してやったことはないが、湯花を作ってたときの感じでは、鉄がたくさん出るので塩にするのは難しいのではないか。
戦時中に塩の代替に使ったというような話は聞いていない。
六ヶ迫鉱泉の開湯は寛延3年(1750)とされているが、弘法大師の伝説もある。「弘法大師の彫った碑の梵字が読めたら温泉が湧く」という伝説で、その碑が、俵屋のすぐ上の飲泉所にある。
飲泉所では、9月12日に薬師の祭りがあるが、特に儀式の中で鉱泉水を使ったりもしない。祝詞をあげるだけ。

前回の神塩鉱泉でも、製塩原料や調理用の塩の代替品としての塩泉利用は見られなかったが、六ヶ迫鉱泉でもそのような意味での「塩の代替品」という事例はなかった。神塩鉱泉と同様に「ご飯を炊くときに使う」という話はあったが、まとめの項で後述するように、これも「塩の代替品」というよりは、飲泉の効用にあやかったものだと考えられる。

ようやくたどり着いた六ヶ迫鉱泉だが、製塩原料や塩の代替としての価値よりも、飲泉による効能を期待した湯治場としての価値の方がはるかに高い印象で、その効能を頼りに遠くから来館する人々が多いらしい。ご当主の話も飲泉のことや、その効用を物語る鉱泉の歴史の方に力点が置かれていた。その歴史も、確かなところでは寛延3年(1750)に遡り、弘法大師の伝説などもあって、ずいぶん古いもののようであり、ご当主自らがまとめた六ヶ迫の歴史資料のコピー集などを見せてくれた。旅館には機械がなくコピーはできなかったが、成分分析値の載った学術誌などとともに一晩お借りすることができたので、以下に抜粋して紹介しておく。

六ヶ迫鉱泉の歴史

六ヶ迫鉱泉の歴史を明らかにすることは、今回の稿の目的ではないが、せっかく入手した資料なので、以下にかいつまんで紹介する。興味のない方は、この歴史の項を読み飛ばしていただければ幸いである。

何らかの温泉紹介雑誌のコピー(出典不明)によれば、「俵屋」の開業は明治28年(1895)とあり、旅館としてもすでに110年の歴史を刻んでいることになる。

一次借用して筆写・複写をした資料のうち、「鷺来ヶ迫」と題した研究報告文(註1)には、口伝をそのまま拾ったものとして2つの伝説が紹介されている。
(1)人皇百十五代桜町天皇の元文年間、一羽の白鷺が脚を痛めてこの谷に飛び来たり、谷川に十七日間浴し傷癒へて飛び去った。因て鷺来ヶ迫の名が生じたと。
(2)昔弘法大師この地に遊錫し石に梵字を刻し、その字を読み得る人の出た時、この冷泉が温泉となると。(その碑俵屋の後の小高きところに現存す)

弘法大師の伝説はあくまで口伝によるものらしく出典が不明だが、鷺来ヶ迫の名の由来については、同報告文では、ほかに「臼杵小鑑」からも、次の一文を引いている。

「此地冷泉ありてよく人の疾を治す。始め此所にて金をほるとて山をくづしけるが、その跡より此の霊泉出たりけるに、脚をなやめる鷺来りて此泉に脚をそそぎけるが、疵癒て飛立ちけるを見て霊泉なることを知りて、六ヶ迫の湯と號しけるとかや。或は鷺来ヶ迫ともいふ。」 (以下、霊泉銘についての記述が続くが省略)

また、この報告文では「鼇城沿革史」より「寛延三年六月藤河内村六ヶ迫の霊泉を発見す」という一文も引用している。

また、同報告文では、臼杵藩の記録資料である「古史捷」の記述を引き、「最初の発見者は西江禅師である」とも書いている。西江は臼杵藩士甲斐氏の出自で多福寺の隠居であり、藩主の帰依も厚かった人物らしい。その内容を要約して以下に記す。

あるとき「北に一里の谷間に薬水が湧出し、諸人の病に偉効があるからそれで人々を救え」という霊夢を感得する。しかも17日間連続して同じ夢を見たので、探してみたところ発見した。西江が鉱泉を発見した頃、寛延3年(1750)には、臼杵藩主泰通公も病に臥せられていたので、禅師がこの鉱泉を奉納したところ、たちまち平癒した。藩主は禅師に命じて薬師堂を建立し、湯治場とするに至った・・・。

また、「臼杵小鑑増補」からの引用では、「宝暦2年(1752)に西江和尚によって建立された六ヶ迫薬師堂は・・・」という一節があり、年号が違っている(宝暦2年は、正しくは藩による湯小屋修復の年らしい)が、西江禅師による薬師堂という点は同じである。一方、「古史捷」からの引用では、寛延3年(1750)に藤河内村六ヶ迫の庄屋が薬師如来の石像と明神を安置したいと願い出て許可されたとある。これらのことから考えるに、庄屋からの願い出により薬師如来の石像と明神が安置され、その後西江禅師が建物としての薬師堂を建立したということなのだろうか。

その後も、宝暦9年(1759)八月八日に藩公の母である玉泉院もはじめて湯治に訪れ、以来たびたび湯治に利用されたこと、などが「臼杵小鑑増補」などから引用、記載されている。

ざっと振り返って見ると、当初は庶民の療養場であったものが、寛延3年(1750)ころからは徐々に臼杵藩も整備に力を入れ始め、宝暦2年(1752)には臼杵藩自体も工事に乗り出して大きな湯船や湯小屋の修復を行ったほか、次々と沸かし湯や新しい湯船の設置も許可され、発展していったようである。それが、廃仏毀釈の影響もあり、明治初年ごろには、小さな湯小屋が残るのみで、薬師如来や明神も四散してしまっていたらしい。薬師如来と明神一体(もとは3体)については、その後発見されて戻されているが、藩政当時の湯小屋などは現存しない。飲泉所の薬師堂と「俵屋」の間にも湯小屋があるが、俵屋のご当主によれば、中の湯船は藩政当時のものといわれていて、近年、それに覆屋を付け足したものらしい。

前出の報告文によれば、「明治8年には更に下方に同質の温泉が発見した」とある。これは住民が魚を捕らえようとして川の中で偶然、発見したものということだ。

「六ヶ迫鉱泉」と「鷺来ヶ迫温泉」という2つの表記があるのを不思議に思う方もあったかと思うが、これらの記述をみると、どうやら、当時の藤河内村にあった既存の地名は「六ヶ迫」であり、鷺の伝説に由来する表記が、「鷺来ヶ迫」ということらしい。また、鉱泉と温泉の区別については、前出の報告文によれば、昭和9年8月に調査に訪れた九大温泉治療学研究所の高安慎一博士が、「摂氏20℃以下は冷泉であるが、22℃の六ヶ迫鉱泉は温泉である。湧出の状態から見て、非常に深い層から出るので途中で冷えるため温度が下がったもので、もとは温泉である」旨の発言を残されたのが元になっているらしい。「俵屋」では、伝説による「鷺来ヶ迫」と高安博士による「温泉」を採用しているようである。そのため、少々紛らわしいが、今回の稿では、通常は、地図に表記のある地名として「六ヶ迫」を使い、温度に関係なく薬用成分を含んで湧出する水ということで「鉱泉」を使うことにし、「俵屋」さんに言及するときのみ「鷺来ヶ迫温泉」を使うことにした。

温泉「俵屋」の浴場と、薬師堂の「共同飲泉所」

今回の稿の論旨の上では重要ではないが、後の成分分析の項の参考になればと考え、「俵屋」の源泉と浴室、薬師堂の「飲泉所」についても、簡単に紹介しておく。

俵屋旅館の外観と浴場の建物

写真1

左の旅館の入口とは別に、中央奥の暖簾のところに別棟の浴場の入口があり、階段をかなり下った先に源泉と浴場がある。手前のタンクと小屋は藩政時代の源泉と浴槽(小屋は後年のもの)で「俵屋」とは別源泉。さらに別源泉の飲泉所や薬師堂などは、撮影している方向とは逆のすぐ背後にある。

俵屋の源泉と飲泉所

写真2


写真3

源泉上には飲泉の設備とともに祠などもある。薬効に感謝する人々の思いが形になったものだろう。写真にはないが、源泉のすぐ右側にも、加熱していない浴槽がいくつも並んでいた(私には冷たくて入れなかった)。拡大写真(写真3)にある壷のような所に源泉の湧き出し口があるが、もとの形がよく分からないほど、鉄分が被っており、飲んでみても、塩味よりも鉄味が強い。

俵屋の浴室

写真4

源泉と飲泉所からさらに扉を開けて入ると浴室になる。加熱した小さな浴槽とそこからあふれた湯が入る浴槽が一つずつ。さらに右側に加熱していない浴槽も一つある。いずれも鉄だらけで、大きな浴槽ではない。この鉱泉では、あくまで飲泉が主役で、加熱した湯への入浴は脇役扱いのようである。

薬師堂の共同飲泉所と源泉

写真5


写真6

写真左の建物が薬師如来等が祀られた飲泉所。画面右端の建物は共同便所。飲泉は一日に一升とか二升といった単位で行われるため、便意を催してすぐに便所に駆け込めるようになっている。そうして宿便をとるうちに、糖尿病、肝臓病、痛風、胆石、高血圧などをはじめさまざまな病状に改善が見られるようになるらしい。拡大写真の源泉の湧出口は、俵屋源泉と同様、もとの形が分からないほど鉄分が被っている。飲泉用の柄杓も鉄だらけである。

藩政時代のものともいわれる浴槽

写真7

俵屋と薬師堂飲泉所の間にあり、写真1手前の小屋の内部にある浴槽。

成分分析表

今回入手できた成分表は、「俵屋」の浴場に掲示された成分表、ご当主に一晩お借りして接写した論文(伊藤嘉夫ほか,1966,「六ケ迫鉱泉研究」『温研紀要 特集号X』九州大学温泉治療学研究所)に掲載された成分表(「上元湯」と「下元湯」の2カ所)、飲泉所に掲示された成分表で、計4種類である。しかし、このうち「俵屋」の浴場に掲示された成分表は、論文の「上元湯」のデータと同一であり、論文を流用して掲示したものと考えられるため、以下に3種類としてまとめる。また、前回紹介した神塩鉱泉のデータも参考のために再録する。

論文に掲載された「上元湯(「俵屋」浴場の掲示と同一)」は、昭和36年9月14日採水による分析で、蒸発残留物6610mg/kg、「含炭酸・ホウ酸 重曹食塩泉」という泉質になっており、浴場の脇の源泉に掲げられた成分表では「鷺来ケ迫温泉(白鷺湯)」という泉名になっている。

「下元湯」も同じ昭和36年9月14日採水で、蒸発残留物3420mg/kgと少し成分が薄いが、同様に「含炭酸・ホウ酸 重曹食塩泉」という泉質になっている。「下元湯」は、「俵屋」や「飲泉所」から谷川にそって300mほど下流にあり、明治8年に発見された別源泉だと考えられ、現在も3軒の旅館に利用されているようである。


写真8

「六ヶ迫」のバス停わきの案内看板だが、俵屋(上元湯)と飲泉所(源泉薬師堂)、下元湯などの位置関係が分かりやすい。

「飲泉所」の源泉は、「俵屋」にほど近いが別源泉で、現場に掲示された成分表では「鷺来ケ迫温泉(薬師泉)」という泉名になっており、大分県衛生研究所の分析では、「含重曹・炭酸 弱食塩泉」という異なった泉質になっているが、ホウ酸の分析値もなく、単に泉質の命名ルールが異なっているだけかも知れない。

まとめと考察

今回、六ヶ迫鉱泉に立ち寄った大きな理由は、前回紹介した神塩鉱泉での聞き取りで『冷鉱泉だったころの神塩鉱泉と泉質が似ている』という話が出てきたからであった。泉質が似ているならば、同じような塩泉利用の話なども聞けるかも知れないという期待ももちろんあったが、わざわざ六ヶ迫鉱泉に立ち寄った動機には、いろいろと興味深い話が聞けた「昔の神塩鉱泉」の「味」がどんなものだったかを感じてみたいということも含まれていた。「昔の神塩鉱泉」は、今となっては味わうことができないが、泉質の似ている六ヶ迫鉱泉の味から想像することができるのではないかと思ったわけである。

「俵屋」や「飲泉所」で実際に味わってみると、しょっぱさはあまり感じず、とにかく鉄臭いものだった。療養効果を期待してというなら何とか飲めるかも知れないが、神塩鉱泉の聞き取りに出てくるように「サイダーがわりに飲む」のは困難な味である上に、単に「塩水」と表現できるような味でもなく、味から連想して、「塩の代わりに料理に使う」とか「塩の代わりに清めに使う」という発想は出てこないだろうという味だった。

一方、成分分析値をみると、確かに、主成分は全体的に似ているといえなくもないが、やはり違いがある。とくに鉄分は、「上元湯(「俵屋」源泉)」と「神塩鉱泉(S39)」を比べてみると、「上元湯」の多さが目立つ。仮に「神塩鉱泉(S39)」は単に鉄分データが欠落しているだけだとしても、成分が全体的に濃厚になったような「神塩温泉(S55)」よりも鉄分が多いというのは、かなり大きな違いである。溶存炭酸ガスを含む点は同じだが、「上元湯(「俵屋」源泉)」は「神塩鉱泉(S39)」の半分ほどしかないというのも、「サイダーみたい」という形容や「アク抜きなどでの利用」が今回の聞き取りから出てこなかったことにもつながっているようで、これも相当違うといえる。

六ヶ迫鉱泉の鉄分を薄めて、炭酸を補ったら・・・などと想像してはみたのだが、「サイダーがわりに飲める」というレベルにはほど遠く、想像し切れなかった。「昔の神塩鉱泉を味わう」という私の目論見は、今回は、どうやら外れたようである。「昔の神塩鉱泉の味」は、宮崎に移動してから出会う塩泉がより近い泉質であることに期待するほかない。

肝心の塩分については、「上元湯(「俵屋」源泉)」と「神塩鉱泉(S39)」のナトリウムの分析値を直接比較してみても少々違いがあるが、分析値だけでは、違いがよく分からない。そこで、便宜的に、両者のNa+の分析値に2.54を乗じる方法で換算して、Na+が全てNaClになった場合(塩分相当量)を考えてみると、上元湯3886.2mg/kg(濃度換算で約0.39%)、神塩鉱泉5257.8mg/kg(約0.53%)となり、分析値のまま比べるより、六ヶ迫鉱泉(上元湯)の方が薄いという違いがはっきりする。ちなみに、両者とも、海水26486mg/kg(約2.65%)や神塩温泉(S55)28651mg/kg(約2.87%)よりも相当薄いことはいうまでもない。

「昔の神塩鉱泉を味わう」という当初の目論見に相応しく、塩分相当量のデータについて、もう少し考えてみたい。例えば、料理屋などで出されるお吸い物やすまし汁の塩分は8000~9000mg/kg(0.8~0.9%)だから、どちらの鉱泉も、かすかに「しょっぱさ」を感じる程度ということになるが、1500mg/kg(0.15%)以下になると「しょっぱさ」としては感知しにくくなるという閾値も参考にすると、より閾値に近い六ヶ迫鉱泉の方が塩味を感じにくいということになる。

さらに「上元湯」の鉱泉水を実際に煮つめた場合、塩(NaCl)として析出するNa+は、換算値(塩分相当量)の6割強に減り、残りのNa+のほとんどは重曹(NaHCO3)になってしまう(註2)わけで、実際のNaCl濃度としては0.2%程度と閾値に近い。これは、私自身が味わったように、ほとんど「塩味」としては感じられない泉質である。その上、前述のように鉄分が多いことで、より一層、塩味を感じにくくなっていると思われる。製塩原料として適当かどうかという以前に、「塩の代わりに使う」という発想そのものが出てこない可能性が高い。

このように、六ヶ迫鉱泉の泉質は、味の面からも分析値からも、「塩の代わりに使う」という発想が出てきにくく、製塩や調理に利用するには鉄分も多すぎるということになる。鉄分が少なく、味の上ではかなりましだと考えられる昔の神塩鉱泉でさえも、「塩の代わりに清めに使う」という興味深い話はあっても、「塩の代替に料理に使う」直接の事例はなく、したがって製塩原料に至らなかったことを考えれば、六ヶ迫鉱泉で「塩味の代替」や「製塩原料」といった話が一切出てこないのは無理もない話である。

さらに、製塩用原料として考えたときに、両者に共通して湧出量の問題がある。海水より薄い鉱泉水を使って塩を作るとき、同じ量の塩を得るためには、濃度が薄い分だけ海水より多く原料水が必要になるからである。湧出量についての明確なデータはないが、「俵屋」や「飲泉所」の源泉を観察してみた限りでは、思い出したように時々水面が動く程度で、相当少ないようであった。この程度の湧出量では、万が一、製塩を試みたとしても、あまりに少ししか塩がとれないので、試験段階で諦めるだろうと思われる。

以上のことから、六ヶ迫鉱泉は、戦時中など、極度のNa欠乏時であっても、塩の代替としての調理への利用や製塩原料には難しい濃度・泉質・湧出量の鉱泉ということになる。聞き取りによって塩の代替として利用された事例が出てこないのはむしろ当然といえる。前回の神塩鉱泉と同様に、「ご飯を炊く」という利用法は出てきたが、これはむしろ、飲泉の効能にあやかったもので、塩味を期待したものではないように思う。特に塩分が強い訳ではない他の温泉地で現在も見られる「温泉粥」のような感覚のものではないだろうかか。神塩鉱泉では出てきた「ゆでものやヨモギのアク抜き」といった利用例も六ヶ迫鉱泉ではなく、あくまで飲泉による療養効果が主役の塩泉と結論づけるしかなさそうである。

六ヶ迫は、飲泉による効能が有名な鉱泉としての歴史も古い。そのため、仮に塩不足があったとしても、療養効果が名高い「貴重な鉱泉」を単なる「調味料」「製塩原料」に利用することにはならなかっただろうことも推測される。「飲泉の需要」と「塩の需要」を秤にかけたら、「飲泉の需要」が勝るということである。そもそも、前回の神塩鉱泉と同様、六ヶ迫鉱泉でも、鉱泉から製塩しなければならないほど深刻な塩不足は、戦時中でも起こらなかった可能性もある。「戦時中の塩不足の状況下であれば、塩分を含む鉱泉水が塩の代わりに使われた事例が全国各地で出てくるのではないか」と考えた、今回の調査旅行の発想そのものが、いささか安直だったのだろうか。

宮崎へ

そんなことを考えながら、翌朝を迎えた。それくらい六ヶ迫は、これまで訪れたどの温泉地とも異なった、現在も生きている湯治場としての雰囲気に満ちていた。翌朝に見た飲泉所の様子も、「俵屋」のご当主の話の様子も、厳粛な湯治場の空気であり、これ以上「この鉱泉を塩の代わりに・・・」という話をするのがはばかられるような、朝だった。宮前に移動する列車の時刻もあり、早々に「俵屋」と「飲泉所」を後にして、バス停のある「下元湯」近くまで歩いて下り、バスで臼杵駅に向かう。「戦時中の塩不足の状況下であれば、塩分を含む鉱泉水が塩の代わりに使われた事例が出てくるかもしれない」という最後の望みは、地元では有名であるらしい宮崎の「塩井戸」に託すことになった。(次回へ続く)

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2006年12月号に掲載されたものです。)

(註1)
臼杵史談会『臼杵史談(第十六號)』 pp.10-17

(註2)
正確なモル計算ではない

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