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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第20回 ~ 九州の塩泉紀行 その1-大分県山香温泉・今畑鉱泉- ~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

前回のおわりに、この連載をきっかけにして、日本の内陸製塩あるいは塩泉や塩井戸という共通した関心を持つ考古学・水文学という他分野の研究者との交流ができたという話を書いた。現時点では、まだメールのやり取りが中心で、直接の面識はないため、お名前を出すことは控えることにしたいが、その後、その交流の中から情報提供を受けて、大分県と宮崎県の塩泉を訪れることができたので、今回からは、それらを紹介しながら、引き続き「内陸製塩」や「内陸部の塩事情」について考えたいと思う。

今回、大分県、宮崎県の塩泉を訪れたのは、ちょうど、学会で九州に行く機会があったからである。といっても、学会は佐賀県の武雄温泉で、当初、予定していた2か所の塩泉は大分県(今畑鉱泉)と宮崎県(高屋温泉)に分かれており、目的地は九州の東、西、南に分散している。これを、学会での1泊を含めてなんとか3泊4日で回り、可能なら聞き取り調査もしようというのだから、なかなかの強行軍である。おまけに、九州に上陸するのははじめてで、結果的に「九州は広い」ということを実感する旅程になった。

実際に訪れた塩泉は、途中の聞き取りで有望そうな塩泉が増えたため、全部で下記の6箇所になった。

【2006.03.22】

○山香温泉(やまがおんせん)
大分県杵築市山香町大字倉成3003<位置

【2006.03.23】

○今畑鉱泉(いまばたこうせん)
大分県杵築市山香町大字小武<位置

○神塩鉱泉(こうじょこうせん)
大分県杵築市山香町大字野原2028<位置

○六ケ迫鉱泉
大分県臼杵市大字藤河内1826<位置

【2006.03.24~25】

○高屋温泉
宮崎県西都市大字鹿野田10726<位置

○鹿野田神社
宮崎県西都市鹿野田2017<位置

また今回は、今までとは違い、博物館からの出張という形での訪問になったため、一応の調査方針を立てて望んだ。

  • 後日、博物館の資料とするため、できれば源泉の水を採取する。
  • 製塩あるいは塩の代替としての利用可能性を検討するため、可能なら源泉の成分表を入手する。
  • 可能な限り、製塩あるいは塩の代用としての利用について聞き取り調査をする。
    現在も利用しているのであれば、可能な限り観察する。
  • 補足資料や書籍があれば入手する。

これらの調査方針は、おもしろそうなものがあれば、必要に応じて再度「追加調査」をすればいいだろうという前提での、あくまで「予備調査」のための方針であったが、結果的には、予備調査としては、それなりに満足のいくものになった。

では、順を追って、それぞれの塩泉について報告したい。

山香温泉

当初予定していた目的地の今畑鉱泉には宿がなく、近隣の宿泊施設をさがした結果、山香温泉「風の郷」に泊まることになった。学会が終了した午後1時半過ぎに佐賀の武雄温泉を出てから、いったん博多に戻り、JR特急と日豊本線の普通列車を乗り継いで、最寄りの中山香駅に着いたのは、夕方の6時前だった。ひとくちに九州と言っても、西から東に移動するだけで想像以上に大変である。


写真1.中山香駅より甲尾山を望む

甲尾山の左裏手方向に山香温泉「風の郷」、
右方向に2つほど山を越えた谷に今畑鉱泉、
線路沿いに右手に数百m行った辺りに神塩温泉がある。

九州は長距離バス路線が発達しており、鉄道より便利だと聞いていたのだが、今畑鉱泉のある国東半島の付け根の内陸部に向かうようなバス便はなく、長距離バスを利用すると国東半島の辺りを通らずにもっと南の別府に直行してしまう。別府に着くのも夕方になるから、計画段階では別府に宿泊することも考えた(温泉好きとしてもその方が魅力的だった)が、それだと結局、翌朝の列車で今畑鉱泉に行くことになり、強行日程の中ではロスが大きいので、歩いてもなんとか今畑鉱泉に向かえそうな距離にあった山香温泉に泊まることにしたのである。

結果的には、山香温泉に宿泊したことは幸いだった。フロントで今畑鉱泉のことを尋ねても係の人は知らないようで、奥に支配人さんを呼びに行ってくれた。こういったことはよくあることで、観光名所でないような事物は、案外、地元の人にも知られていなかったりする。過去に訪れた塩泉でも、受付の人に「昔、塩を作っていなかったでしょうか」等と尋ねて、「聞いたことないですね」との返答しかなく、あきらめた経験がある。今回もあまり期待できないかなと思ったが、出てきてくれた支配人さんは、山香町(2005年10月1日に"平成の大合併"で杵築市となったばかりで、まだ旧山香町が単位となって活動しているようにも見受けられたので、以下、とくに旧をつけずに表記する)の観光協会長もしていて町の歴史にもくわしく、今畑鉱泉のことも知っていた。訪問の目的を明かすと、その場で『山香町史()』の該当部分をコピーしてくれ、今畑鉱泉が山香町教育委員会で天然記念物に指定されていることも教えてくれた。また、現在は「山香町温泉センター」になっている神塩温泉の方がずっと塩分が濃いことも教えてくれ、神塩温泉が紹介された雑誌記事もコピーしてくれた上、昔のことを調べるならと、杵築市役所山香庁舎の方にも便宜を図ってくれた。

さらに、副支配人さんの方も、偶然、今畑集落出身だったこともあり、鉱泉の正確な場所を詳細な地図で教わることができ、「数百年来の析出物が堆積して塚のようになっている」こと、「圃場整備以後、湧出が止まっている」ことも教えてくれた。また、「自分自身は鉱泉の水を何かに使った記憶はないが、鉱泉のすぐ近くに学校の先生だった人が住んでいるから、その人きいたら何か分かるかもしれない。もしくはその隣の家の畑に面して鉱泉があるから、どちらかに行ってきいてみたら」と教えてくれた。

ここまで調査準備がとんとんと運ぶことは珍しいことで、今回の強行日程の中では、支配人さん、副支配人さんに協力してもらえたことは、非常にありがたかった。

なお、山香温泉自体も、かなりの塩分(Na+で4,968 mg/kg)を含んだ「含硫黄・二酸化炭素-ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉」で、成分表も入手し、念のため採水もしたのだが、1,500m以上掘削した動力揚湯による温泉で、2000年に開業したばかりでもあるため、過去に製塩原料や塩代替品として利用された可能性はなく、現在も温泉施設として利用されているだけであるので、ここではこれ以上は触れないことにする。

今畑鉱泉

翌朝、いよいよ今畑鉱泉に向かう。3月はじめに水文学の調査で現地を訪れた際のことをすぐにメールで送っていただいたので、「湧出口に析出物が堆積して畑の中に直径10メートルくらい、高さ数メートルの塩の山が形成されている」「塩の小山の中央部に深さ50cm、直径40cmくらいの塩水の湧出口と思われる小穴が開いているが、現在は塩水の湧出は見られない。季節によっては(梅雨時とか台風期とか)塩水の湧出が起きるのかもしれない」との情報を事前に得ていたため、「日本で見られる塩の小山」という点が最も興味深く、今回、目的地に決めた場所である。

メールでの情報提供では、時間もなく、雨にもたたられ、今畑鉱泉では全く聞き取りができなかったということだったので、今回は、塩の小山を見るだけでなく、なんとか塩泉の利用についての聞き取りをしたいと考えていた。天候に恵まれたので歩いていくことも考えたのだが、昨晩、支配人さんに聞いた神塩鉱泉に行かない手はないなと考え直し、さらに午後遅くならないうちに、宮崎行きの列車に乗ることを考えると、悠長に歩いている時間はなく、結局タクシーで向かうことにした。

今畑鉱泉は、一応、町の天然記念物になったいるためか、直近の道路に小さな案内標識が出てはいたのだが、それでも、地元タクシーの運転手さんが通り過ぎかけ、慌てて私が声をかけて引き返してもらわなければならなかったほど、何の特徴もない田んぼと畑のまん中にあった。昨晩、副支配人さんに詳細地図で場所を教わっていなかったら、辿り着けなかったかもしれない。

肝心の「塩の小山」は、事前にメールで聞いていた通り、雑草でおおわれていた。


写真2.今畑鉱泉の体積物の小山

写真中央の色の異なる雑草の茂った部分が鉱泉堆積物の小山で、その頂のほぼ中央に、今は枯れてしまった湧出口の穴がある。その傍らに「山香町指定天然記念物 今畑鉱泉 昭和五十九年三月」と書かれた高さ1mほどの木製の記念碑が立っている(倒れていたのだが、私が撮影用に立て直した)。小山のむこうに見える右端の家で、畑仕事の準備をしていたおばあさん(副支配人さんに聞いたうちの一人。先生をしていたという方は外出中だった)に話が聞けた。

以下に、その聞き取りの結果を簡単にまとめておく。

  • おばあさん(以下、私・自身と表記)は、山香町内のほかの集落から今畑に嫁いで68年になる。
  • 鉱泉は相当昔から利用されてたはずだが、嫁いでくる前のことはわからない。
  • 今畑鉱泉の所有者は、もう少し上の方の家の人だが、勤めに出てるので今は留守にしている。
  • 塩泉の主な使い道は、アセモの治療だった。塩の代用にしたという話は聞いたことはない。
  • 自身も若い頃、塩泉を湯にわかして盥に入れ、年寄りの背中などに擦り込んだ経験がある。2回付けたら治るくらいよく効いた。
  • 飲むと胃腸の弱い人にいいともいわれ、遠方からビール瓶や一升瓶で汲みに来る人もあった。
  • 塩泉は「ラムネの出来損ない」のような味で、日照りのときでも枯れることなくブクブク出ていた。
  • 鉄分が多く、すぐにタオルが赤く染まるので、アセモの治療専用のタオルを用意しないといけなかった。
  • 農業基盤整備で、田んぼを低くしたら出なくなった。あんなに湧き出てたのにどこに行ったんだろう。塩泉が出ないなら、立て札もとればいいのに。
  • 整備前の田んぼの高さは、鉱泉の縁にたまった赤い泥の高さとあまり変わらないくらい高かった。
  • この辺の田は「湯の平(ゆのひら)」という呼び名だが、塩泉が湧いている当時でも塩害などはなく、米がよくとれた。
  • 駅の方、中学の近くの「神塩鉱泉」は50年くらい前には木賃宿で栄えてた。足節が痛いのが10日で治るというが、私自身は行ったことはない。

現地での考察

ということで、事前のメールでの情報、あるいは山香温泉での情報どおり、今畑鉱泉は枯れていた。農業基盤整備の前後での変化は、現在の写真を見て、堆積物の小山と同じくらいの高さに田んぼがあった姿を想像するのが不可能なくらい、激変だったのだろう。湧出口を覗いてもみたが、水らしきものも見えず、源泉採取はできなかった。

過去の話、特に戦時中の塩不足期であれば、塩の代わりに使われたこともあったのではないかと考えたが、聞き取りによる限りでは、アセモ治療が主で、塩の代替はないということだった。現在は雑草におおわれている小山を「赤い泥」と表現していることや、「タオルが染まるほどの鉄分」であることを考えると、製塩あるいは塩の代用には使いにくい、鉄だらけの泉質だったようにも思える。

主にアセモ治療、人によっては飲泉して胃腸の治療に使ったという話しかなく、治療以外の目的にはあまり使わないものだったらしい。「ラムネの出来損ないのような味」というのもちょっと味をみてみたという程度のようである。ナトリウムイオンと塩化物イオンが多い泉質だったら、どこかに「しょっぱい」という表現があってもよさそうだが、ついにそのような表現は聞かれなかった。鉱泉水の塩分はあまり濃くはなかったのかもしれない。

また、訪問前から、「堆積物の小山が塩(塩化ナトリウム)」だとすると、「なぜ雨で溶け出さないのか」「なぜ雑草が生えることができるのか」という点が大きな謎だったが、聞き取りでも「塩害はなく米はよくとれた」という。実際の小山を少し突いてみたところ、塩というよりはセメントに似ている。塩類であるとすれば、塩化ナトリウムではなく、カルシウム塩(炭酸カルシウムや硫酸カルシウム)ではないかと思われた。

それなら神塩鉱泉へ

やはり、塩が不足したとき(とくに戦時中)に塩の代用に使われるためには、もっと塩分が濃い必要があるのではないか。となれば神塩鉱泉のことも調べてみたい。しかし、市役所で紹介してもらってから神塩鉱泉に行くというのは、列車の時間を考えると徒歩ではちょっと難しい。などと考えながら歩いているところに、折よく今畑まで乗せてもらった運転手さんのタクシーが通りかかった。「ちょうどこっちにお客さんがあったんで」ということだったが、おそらく気にかけて迎えに来てくれたのだろう。このタイミングでタクシーがあれば、なんとか昼前に市役所での話を済ませることができるだろう。そうなれば、神塩鉱泉での聞き取りも可能かもしれないという当たりを付けて、運転手さんに感謝しつつ、ご好意に甘えて、まずは市役所に向かうことにした。

(以下、第22回に続く)

その後の補足

「なぜ塩の代用に使われなかったのか?」「堆積物の小山は本当に塩か?」という謎は、その後、落ち着いてから『山香町史』を読み返してみて氷解した。

○なぜ塩の代用に使われなかったのか?

『山香町史』には、町内の鉱泉水の分析表も出ており、ちゃんと今畑鉱泉も載っていた。当時は、時間に追われていて、せっかく入手した『山香町史』のコピーをちゃんと読んでいなかったらしい。詳細な分析値はここでは省くが、泉質は「含二酸化炭素-カルシウム-マグネシウム-炭酸水素塩泉」とあり、泉質名には「ナトリウム」「塩化物」いずれも含まれていない。昭和53年の分析値でも、カルシウムイオンが274mg/kgあるのに対しナトリウムイオンは105mg/kgに過ぎず、マグネシウムイオンの152mg/kgよりも少ないのである。昭和53年以前も以後も泉質が大きく変化しなかったとすると、誰も、今畑鉱泉の泉質で塩を補給しようとは考えなかっただろうと思われる。

○堆積物の小山は本当に塩か?

同じく『山香町史』に、はっきり「湧出口周辺の円錐上の堆積物は炭酸カルシウムで鉱泉中の成分が沈積してできたものである」と記載があった。つまり「塩(しお)」の小山ではなく、「塩(えん)」の小山だったのである。メールという文字によるコミュニケーションのなかで、私は「しおのこやま」だと勝手に決めつけていたのかもしれない。『山香町史』のコピーを携えて、直接、情報提供のお礼と報告に伺った方がよさそうである。

○湧出が止まったのはいつか?

これは『山香町史』でも明確にならない点だが、「炭酸ガスの気泡を伴って湧出しているが、湧出量(毎分0.5リットル)は少量である」と記述されており、少なくとも昭和53年の時点では、枯れていなかったことは確かである。農業基盤整備の行われた時期は、また、別の方法でも調べることができるだろう。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2006年5月号に掲載されたものです。)

(註)
山下幸三郎, 1982, 「山香町内の鉱泉・湧水の泉質」『山香町史』, 山香町史刊行会
なお、山下氏は当時、京大理学部で温泉や地下水の研究をしていたとことが、この章の冒頭に記載されている。

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