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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第15回 ~「移動」をともなわない塩適応(その2)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

前々回に「大きな移動や交易をしなくとも、(塩を含めての)環境適応が可能な例」として内陸製塩の可能性に触れた。今回も、かつての日本の内陸製塩を紹介しながら、考察を進めることにしたい。

日本の内陸製塩としては、前回紹介した長野県下伊那郡大鹿村鹿塩と同じような「塩泉製塩」がいくつか知られている。とくに福島県会津地方を中心に、山形県、新潟県、栃木県にまたがる地域には、塩泉製塩の記録が集中しているので、ひとまずまとめておきたい。なお、「大塩」や「塩沢」といった、同じ地名が重複して別の場所にも存在して分かりにくいため、便宜上、4地域に分けて列挙し、可能な限り現在の地名を<>で付しておく。また、各項の内容は基本的にはそれぞれの文献からの引用だが、字句通りに引用してしまうとあまりに長くなるため、それぞれ簡単にまとめることにした。より詳しく調べたい方は、引用文献をあたられたい。

南西会津地方

【1】福島県南会津郡伊北村<福島県南会津郡只見町>

  • わずかではあるが、明治末まで塩泉から製塩していた(註1
  • 塩泉を何度も砂にまき、乾燥させて鹹砂を得、それを溶出して鹹水を造り、煎熬して結晶塩を取り出していた
    註1

【2】会津の西方十八里の塩沢村<福島県南会津郡只見町塩沢か>

  • 『塵塚物語』に、塩井の場所、数、大きさとともに、塩焼小屋が6軒あり、村民が農業の合間に製塩していたこと、他の村まで供給していたこと、味が軽く白い塩だったことが記載されている(註2
  • 『福島県史』所収史料の『津川廻り御囲塩駄送人足代御免願』から、従来から大塩組11か村(筆者註;次項の伊北郡大塩のことか)と黒谷組の地域では、峠越えで運ばれた尾道塩と、地塩(塩沢で生産された山塩)だけで需用が賄われていたこと、塩沢産山塩の供給圏が村外(奥只見大塩11か村)に広がっていたことが読み取れる(註3)
  • 明治10年代以降に、それまでの直煮法から、鹹砂を用いた濃縮法に切り替わった(註2
  • 『塩専売史』の明治 36 年の塩産地一覧に「南会津郡伊北村、塩田反別二畝五歩、竃数五、製塩場数一、塩生産高一八石」と記録がある (註2

【3】伊北郡大塩<福島県大沼郡金山町大塩か>

  • 近世には、製塩が行われた記録がある(註1
  • 『倭訓栞』に記す伊北郡大塩とは(筆者註;『塵塚物語』に登場する)塩沢村のことであろう(註2
  • 明治末まで製塩が行われ、『塩専売史』に「生産高一八石(明治36年)」と記録がある(註2

北会津地方

【4】福島県熱塩加納村<福島県耶麻郡熱塩加納村>

  • 第二次大戦末期、陸・海軍が製塩。陸軍が塩泉直煮、海軍は枝条架濃縮を行ったのち煎熬したという(註1

【5】大塩村<福島県耶麻郡北塩原村大塩>

  • 第二次大戦末期、陸・海軍が製塩。陸軍が塩泉直煮、海軍は枝条架濃縮を行ったのち煎熬したという(註1
  • 『新編会津風土記』に、塩井の数や大きさ、塩が乏しいのを見た弘法大師が沸き出させた伝説、塩を焼いて生業とする者があったことが記載されている(註2
  • 『半日閑話』に、海辺から離れた山中で塩を焼く珍事として紹介し、「例年会津守護より公方様へ献上」と記載されている(註2
  • 古代に遡る弘法大師の湧出伝説だけでなく、「浦遠きこの山里にいつよりかたえず今まで塩やみちのく」という西行法師の歌もあり、かなり古くから製塩が行われていたことがうかがわれる。(註3
  • 藩政時代、大塩村の主産業は製塩と漆栽培による蝋の生産で、いずれも藩庁の指示で行われていた(註3
  • 藩政時代には、村民の自給はもちろんのこと、藩庁内での賄用や藩士への支給塩としても利用されたが、明治元年戊辰の役を契機に全廃され、その後、大塩村・若松町・川桁町など近郷諸村有志により再開を請願した記録がある(註3
  • 藩主や藩士の日常消費に供されたり、ごく近年まで、近隣諸村から自家用の調味料用に塩井戸の塩湯を樽詰めで持ち帰っていた事実などから近郷の住民に自家用塩として愛用されていたことは容易に想像される(註3
  • 生産量の記録からみても、藩庁内での賄用や藩士への支給塩を全てこの山塩で充当したと考えて無理がない(註3
  • 価格の記録から見ても、尾道塩などの多額の移送費が加算された移入塩よりはるかに割安だったと見て間違いない(註3

【6】塩川<福島県耶麻郡塩川町>

  • 近世には、製塩が行われた記録がある(註1
  • 『塵塚物語』に、弘法大師が湧出させた伝説が記載されている(註2

米沢地方

【7】小野川<山形県米沢市小野川温泉>

  • 塩泉を何度も砂にまき、乾燥させて鹹砂を得、それを溶出して鹹水を造り、煎熬して結晶塩を取り出していた。塩田法を導入するため仙台湾から技術者を招いた。1升110文で生産、120文で売っている。そのころ瀬戸内では1升が6~7文であった(註1
  • 『囘国雑記標柱』に、米沢藩からの命で塩を焼いていること、会津とは異なり塩泉を浸透させた鹹砂を使った方法であることが記載されている(註2
  • 『和漢三才図絵』にもこの塩泉が井塩・池塩として記載されている(註2
  • 『鷹山公偉績録』に、仙台より技術者を招いて伝授させたことが記載されている(註2)(註4
  • 現在の小野川温泉うめや旅館には、旅館群の裏手に7~8枚の「塩取り場」が描かれた塩田時代の様子が分かる掛け軸が伝わっている。戦前までは塩辛かったが、汲み上げ量が増えた現在は塩辛さは減ってしまった(註4

【8】小玉川<山形県西置賜郡小国町小玉川>

  • 『小国町史』に、小野川温泉とともに寛政期の藩政改革で製塩がはじまったが数年で廃止され、その後、慶応元年に復活し慶応4年まで製塩が行われたことが記載されている(註2
  • 『小国町史』所収史料の当時の覚え書きに山塩生産の収支が記載されており、生産地価格が1升110文、町場での小売価格が120文、山林所有の農民の農閑期副業と仮定して、薪代を無償に補正して計算すれば、生産費は1升100文程度となる。当時の赤穂塩の生産地価格1升6文と比較すると当時の東北山中ではいかに塩に恵まれなかったかがわかる(註2

その他の地方

【9】栃木県塩谷郡栗山村

  • 『甲子夜話』に、「塩泉の水を食物に用いれば焼塩と変わらない味だという」と記述がある(註2
  • 『諸国里人談』にも、この塩泉は「焼かずにそのまま調理に使っても、甘い焼き塩のようだ」と記述がある(註2

【10】新潟県越後三島郡、魚沼郡の山中

  • 近世には、製塩が行われた記録がある(註1

以上、手近な文献から抜き出してみると、思っていたよりも塩泉製塩の記録が多い。ところが、大塩や塩沢という同じ地名が至る所にあって、文献によっては記述が入れ違っていたりもする。私も今回、文書類などをはじめ、直接の原典に当たれたわけではないからなんともいえないのだが、入れ違ってしまっても仕方がないと思うほどややこしいのである。特に、北会津の猪苗代湖周辺にある「大塩」と南西会津の奥只見の方にある「大塩」、福島県南西会津の奥只見にある「塩沢」と山を越えた新潟県にある「塩沢」は、文献を読みながら、いま読んでいるのがどちらの話なのか、しばしば分らなくなる。また、山形県の「小野川」と「小玉川」もややこしい(註1では「小野川」のこととして書かれている内容が、註2では「小玉川」のことになっている。これはどうやら、註2の記述が正しいようだ)。タイムマシンに乗って、当時の現地調査をすることができたなら、よく似た地名だからという理由だけで混乱することはないと思うのだが、文献だけを手がかりにするというのは難しいものである。

さて、今回は、塩泉製塩そのものの詳細を知ることが主たる目的ではなかった。前回までの話の流れの中で、「農産物や木材が得られる内陸で、製塩もできたならば、大きな移動や交易をしなくとも、環境適応できるのではないか」という文脈で、内陸製塩の可能性を考えることが主目的であった。

そこで、今回挙げた例の中で特に注目したいのは、北会津地方【5】の大塩村である。藩政期の製塩は、藩の指示によるものではあったが、藩内の需用を満たすほどで、村民の需要も全て賄えていたようであり、「移動をともなわない塩適応」ができていた希有な例だと言えると思う。とくに、価格の面で見ても、瀬戸内塩などの移入塩より格段に割安だったというのは、他に例がないのではないだろうか。塩以外の部分では、江戸時代のことであり、商品経済的な品々については無論、他地域からの移入に頼る部分はあったと思う。また、山間部で米などが不足しがちだった可能性もあり、情報がなく確かなことはいえないが、最低限の衣食住に限っていえば、「移動をともなわない環境適応」ができていた可能性が高い。江戸以前の古い時代に製塩されていた頃には、その傾向はより強かったのではないだろうか。そのような背景もあって、明治初頭の製塩廃止後も、塩湯を樽で持ち帰るといった形で脈々と塩泉利用が続いたのではないかと思うのである。

塩湯そのままでの利用という点では、製塩の明確な記録はないが塩泉そのものを調理に使っていた【9】栗山村も同様である。液体のまま持ち帰るという利用形態は一見、不便そうに見えるが、それこそが「移動をともなわない塩適応」の真骨頂ではないだろうか。長い距離を移動しなくてすむからこそ、塩湯という液体のままでも用が足りるのであり、塩利用の原初的な姿を想像させて興味深い。逆に、長い距離を移動する必要が生じたからこそ、水分を飛ばし、塩というエッセンスのみを持ち運ぶようになったと考えれば、製塩のはじまりに関しても大いに示唆的である。南西諸島や伊豆諸島でも、かつては海水そのものを調理に利用していたことが知られており、いずれ、合わせて考察してみたいテーマである。

これら以外の例では、南西会津地方【2】の塩沢村(場合によっては「大塩11か村」とも)が、北会津地方【5】の大塩村に近い姿だった可能性がある。とくに、村民が農業の合間に製塩し、他の村にも供給していたというのは、「自給を満たした上で」供給していたと考えるのが自然であり、かつては「移動をともなわない環境適応」と呼べる姿だったのではないだろうか。藩政期には、越後から山越えで入って来る瀬戸内塩と合わせて消費圏を形成していたというから、【5】の大塩村のように全量賄えるほどではなかったわけだが、これは、消費圏の規模の問題なのかも知れない。地図で見る限り、【1】の伊北村、【2】の塩沢村、【3】伊北郡大塩(大塩11か村はこちらか)が合わさってひとつの消費圏のようであり、【5】の大塩村よりかなり広そうである。また、新潟側からの移入塩を考えた場合、【5】の大塩村より、【1】【2】【3】の奥只見地区の方が新潟から近く、移入塩の影響力に差があったのかも知れない。

米沢地方の【7】小野川と【8】小玉川は、文献で見る限りは藩の主導によるところが大きく、自給的ではないように思える。これは、上杉鷹山の高名によるものであるのかもしれないが、環境適応というよりも、殖産・興業としての意味の方が大きく目立つ。つまり、「生きるための適応」というより、「よりよく生きるための経済」に見えるのである。とはいえ、単に、文献上、自給的な話が出てこないだけなのかも知れない。

今回紹介した塩泉製塩の地域はほとんどが豪雪地帯で、越冬のための塩蔵用、春先の一時に採れる山菜等の保存用など、塩の需用は平野部よりもかえって多かったろう。自前の製塩で本当に全てを賄えていたとすれば、【5】の大塩村は驚異的である。豪雪地帯といえば、「陸の孤島」「僻地」といったマイナスイメージで捉えられがちであるが、本当に需用を満たすほど塩生産もできていたのであれば、「農産物、木材のみならず、塩も自給できる理想郷」というプラスイメージを押し出した解釈もできるのではないかと思うのだが、言い過ぎだろうか。いずれにしても、「くらしぶり」までを含めた当時の詳しい状況が分からないので、明確な答えは出ないのであるが、第13回(前々回)まで「塩をめぐる移動」について書いてきた身としては、【5】の大塩村の内陸製塩には、そのような可能性を感じてしまうのである。

蛇足ながら、よく考えてみると私は、今回紹介した地域のうち、【9】栃木県塩谷郡栗山村、【4】福島県耶麻郡熱塩加納村、【5】福島県耶麻郡北塩原村大塩の3ケ所を、旅行で訪れたことがあった。
熱塩加納村だけは「塩泉製塩」の記憶があって、別の訪問地から足を伸ばして行ったのだが、着いたのは夜であり、辛うじて温泉に入れただけだった。現在は製塩できるような泉質ではなかったように思う。
栗山村は何回か訪れているのだが、面積がかなり広いうえに道が悪く、自動車で走っても広いと感じるような大きな村であった。山道を歩かなければ行けない温泉も多いうえに、源泉によって泉質が違う。私が1時間ほどの山歩きで訪れた温泉は製塩ができるような泉質ではなかった。さらに奥に山道を歩いて行けばいくつか別の泉質の温泉もあるので、記録にあるのはもっと奥のものなのか、あるいは別の谷筋なのかも知れない。かなり山深いところではあるが、蕎麦と山の幸は素晴らしいところだった。これで本当に塩も生産できたら、かなりのところまで自給でくらせそうなところだったように思う。
北塩原村の大塩は、厳冬期に通りかかって、非常に気にはなったのだが時間がなく、入湯もできなかった。このような原稿を書くことになるなら、なんとしても足をとめればよかったと、悔やまれる。現在ではそれなりに開けた場所であるので、今も製塩可能な泉質ならば、観光資源としても活用できそうなところである。
いずれも明確に「塩泉製塩」を意識して訪れたわけではなく、これ以上ご紹介できるような情報もないのが残念だ。それぞれの地域のかつての塩泉製塩を調べてみたい気持ちはあるが、時代的にも前のことであり、現時点で新たな情報を得るのはかなり困難だろうと思う。今後は、他の地域も含めて、もう少し「塩泉製塩」を意識しながら、当時の「くらしぶり」にも注目して訪れてみたいと思っている。そんな中で、「塩泉製塩」を調べる手がかりになるようなものに出会えればと考えている。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2005年6月号に掲載されたものです。)

(註1)
日本塩業体系編集委員会(編),1977,『日本塩業体系 特論民俗』,日本塩業研究会

(註2)
廣山堯道,1993,『日本製塩技術史の研究』,雄山閣

(註3)
富岡儀八,1978,『日本の塩道』,古今書院

(註4)
田中奈津子,1999,「塩泉スケッチ紀行~小野川温泉」『Salt21(No.4)』,塩事業センター

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