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塩の博物館

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たばこと塩の博物館だより
(注:Webマガジン『en』2002年12月号から2007年3月号に連載されたものです。)

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第17回 ~「答えは1つではない」ということ(その2)~高梨 浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員

今回も、前回までの「答えは1つではない」「見かたを変えれば答えは変わる」というテーマで実施した「夏休み塩の学習室」の話題を続けさせていただきたい。

前回の終わりに、「見かたを変えれば答えは変わる」というような「テーマ展示」を企画した理由は、「子どもよりもむしろ大人の方にある」と書いた。というのは、常日頃、博物館の仕事として、いろいろな質問を受ける中で、しばしば感じることがあったからである。

それは、「『答え』というものが、いつの間にか『出すもの』ではなくて『あるもの』になってしまっているらしい」ということである。誰かに訊いたり、何か資料を見れば、そこに答えが「あるはずだ」という前提で、質問されているような気がするのである。「あるもの」になっているということは、ハナから「自分で答えを出す」という発想そのものがないのかもしれない。しかし、よく突き詰めて考えれば、どこかに「あった」答えというのは、つまり、誰かが「出した」答えにすぎないということに気付くはずである。誰かの「出した」答えを見て、それを「答えがあった」と感じるのは、本来は、その答えに納得して無意識のうちに「自分でも同じ答えを出した」ということであろう。あくまでも、答えは「出すもの」なのである。誰かが「出す」行為をしないかぎり「答え」はない。逆に、誰も何もしないのに、「答え」だけがむこうから転がってくるなどということはない。つまり、答えというものは、断じて「もとからあるもの」ではない。

しかしながら、例えば雑誌などの取材で、「塩の分類表を下さい」という要望がある。しかし、「これが、いかなる場面でも間違いのない分類表です」と言ってお出しできる分類表など存在しないので、「どういう目的で分類表をお求めですか」とたずねた後、目的に応じた「見かた」での分類について解説をすることになるのだが、中には、「いや、とにかく分類表がほしいのです。あるでしょう?」というような話をされる方がある。こちらが「分類というものは無数にあって、目的とか場面、どういう文脈で使うのかとか、何かを限定しないとお答えしにくいのですが」と言うと、それがどうもうまく伝わらない。「塩の特集をしたいので、そこに分類表を紹介したいのです」というようなことを重ねて言われる。しかたなく「塩の分類と言っても、産地での分類もあれば、原料でも製法でも成分でも価格でも分類できるのですが、どのような目的でお使いでしょうか」と重ねてたずねることになる。ここまで来て、ようやく「『自然塩』と『精製塩』の分類を紹介したいのですが。」と言われたりする。しかたなく「『自然塩』という分類をするためには、何を『自然塩』にするのかという見かたを決めなければなりませんが、どういうものを『自然塩』だとお考えですか」ときくと、今度はむこうが当惑する。「えっ?『自然塩』というものがあると思っていたのですが。『精製塩』でないものが『自然塩』なのでは?」ここまで来たらとことん説明するしかない。「人間は自然から得たものを加工することしかできません。一方、精製というのは、その加工のことです。多くの塩は、自然から得たものを加工して販売されているのですが、自然と精製という考え方で、それらの塩の間に線引きをするとしたら、何を基準に分けたらいいと思いますか・・・」という長い話になるのである。その挙げ句に、「当初、企画で考えていた内容では難しそうなので、考え直して連絡します」と言われたりする。

上記と全く同じではないにせよ、いったい私は、このようなやり取りを何回してきただろう。こうした場合、分類表を求めている人にとって、分類表という「答え」は、たずねさえすれば、たちどころに「これが『自然塩』と『精製塩』の分類表です」といって目の前に現れるもので、自分とは無関係にどこかに「あるもの」だと考えていたとしか思えない。

相手が子どもなら、話は分かる。子どもの中にある「見かた」は少ないし、したがって「答え」も少ないだろうから、分からないときは質問をして、自分が持っていなかった「見かた」なり「答え」なりを自分の中に取り込みたいと考えても無理はない。ある程度、それが「たまった」ところで、自分の中にある「見かた」を駆使して、自分なりの「答え」を「出す」ようになってもらいたいのではあるが、小学生はまだまだ「出す」よりも「ためる」時期だろうとは思う。

ところが、よりによって大人で、雑誌に記事を書こうという人を相手に、上記のようなやり取りをしなければいけないというのはどういうことだろう。しかも求めているのは「分類表」である。「分類」というものほど「見かたによって答えが変わる」ものはないではないか。このままでは何かがおかしくないか。このまま放っておくと、いつまでも同じやり取りを繰り返すことになるのではないか。とりあえず、「塩の学習室」の「テーマ展示」で、「見かたによって塩の分類はいかようにでも変わる」ことが体感できるようなものを出せないか。いっそのこと「見かたによって答えが変わる」というテーマで展示を構成してみよう。それが今年の「テーマ展示」の出発点だったと思う。

出発点が「塩の分類」だったから、展示では、これは特別扱いにした。前回の冒頭に書いたような「カードとコンピュータ」による方法は、いろいろな回答者に話を聞くとそれぞれが異なる答えを返すというアナロジーに支えられていて、たしかに面白いと思われるのだが、「見かたによって分類はいかようにでも変わる」ことを伝えるには少々まどろっこしい。そこで、いくつかの塩を並べ、それぞれにランプを付けておき、いくつかの「見かた」をボタンにしておいて、押したボタンによって分類を示すランプの色分けが変わるという装置を考えた。

今回、分類に使った「見かた」とその線引きの「基準」は以下のようなものだった。

  • 原料で分ける(1.海水、2.岩塩、3.湖塩、4.輸入天日塩、5.その他)
  • 結晶の作り方で分ける(1.煮つめる、2.天日乾燥、3.原料そのまま、4.原料再製)
  • 成分 < 水分の量 > で分ける(1.多い(水分3%以上)、2.少ない(水分3%未満))
  • 成分 < 純度 > で分ける( 1.NaCl95% 未満、 2.NaCl95% 以上)
  • 産地で分ける( 1. 日本、 2. 外国)
  • 使い勝手で分ける( 1. 乾いた食材になじむ、 2. 振出し容器向き、 3. そのままでは使いにくい)
  • 値段で分ける( 1. 安い (1000 円 /kg 未満 ) 、 2. 高い (1000 円 /kg 以上 ) )

この装置で示した「塩の分類」は、あくまで「見かた次第で分類結果は変わる」ということを示すためのものであり、普遍的な「塩の分類」などではない。むしろ、普遍的な「塩の分類」というものが存在しないということを伝えるための展示であった。例えば、「水分の量」という見かたでの分類結果と、「塩化ナトリウム純度」での分類結果では、結果の色分けが全く同じになるように()内の基準を調整してあった。この調整は「脱水工程で水分量を減らせば相対的に純度が上がり、水分がなくなるまで脱水せずに、途中で止めてにがりを残せば、純度は下がる」ということを読み取りやすくするための調整である。通常の展示であれば、「塩の成分の特徴は、脱水工程が左右しているということが読み取れる」と示すだけでも良いのかもしれない。しかし今回は、「見かた次第で分類結果は変わる」という趣旨であるから、もう一歩踏み込み、解説パネルで「結果が見て取りやすいように基準を操作している」ことも明かして、「分類とはあくまで恣意的なもので、基準次第で結果の印象が大きく変わる」ことまで解説した。この「分類装置」の展示は、話が概念的すぎて、子どもたちにはあまり人気がなかったようだが、そもそも、この部分の展示は、企画の「出発点」からして大人にこそ見てほしかった部分なので、それはそれでしかたがないと割り切っている。展示室で見る限り、大人の皆さんも、「見かた次第で分類結果は変わる」という受け取り方をしている方は少ないようだったが、中には、分類というものの本質について考えていただいた方もあったのではないかと思いたい。

さて、「分類」というものを取り上げるとより一層ハッキリするのは、「見かたが変わると答えが変わる」ということだけでなく、「見かたがなければ答えもない」ということである。この装置で言うなら、ボタンを押さなければ分類ランプは消えているのであって、「見かた」ボタンを押すという行動を起こして初めて、答えが出るのである。現実の世界もこれとよく似ていると思われる。「自分なりの見かたで考える」からこそ、「答え」が「出せる」のである。逆に言うと、何らかの「見かた」がなかったのでは「考え」ようもなく「答え」の「出しよう」もないのである。

そのことを示すために、「海と塩」という表のテーマを離れて、会場の出口に「見かた」について総括するための小部屋を作った。そこに展示したのは、例えば以下のようなものである。

ヘビのしっぽはどこからか? ~ヘビの模型の展示・・・生物学の見かたでは、裏返してみて腹板(いわゆる蛇腹)が並んでいるところまでは腹、それより後ろのウロコに切り替わるところから先がしっぽ。

何に見えるか? ~黒地に白い曲線が何本も並んでいる写真・・・シャッターを開放して夜空を撮ると星が線になって写るという見かたを持っている人にとっては星の写真。よりくわしい見かたが身に付いている人にとってはオリオン座の写真。

いずれも、見る側に何らかの「見かた」が備わっていなければ「答え」が出せない。もちろん、ヘビの場合、頭以外は全部しっぽという「見かた」を決めれば、それも「答え」として間違いではない。

この小部屋の展示は、単に展示としては子どもにも喜んでもらえたようだが、「見かたを変えれば答えは変わる」という「テーマ展示」全体の「まとめ」としては伝わらなかったようだ。

さて、ここまでお読みになると、小学生を対象にしたはずの「塩の学習室」なのに、「答えは1つ」「答えはどこかにある」と考えている大人のために使ってしまい、結局、子どもは犠牲にしたのかと問う方もあるかもしれない。たしかに、以上に書いたように、うまく伝わらずに心苦しい点もあるのだが、必ずしも犠牲にしたつもりはない。「答えはいくつもあり得る」「見かたを変えれば答えは変わる」「答えは自分なりの見かたで出すもの」ということに気付いた大人がいたら、それを子どもに伝えてくれるのではないかという期待もあった。そして何より「自分なりの見かたで答えを出すこと」は「塩の学習室」の存在意義の1つでもある「自由研究」というものの根底にも関わっていると考えるからである。

毎年「夏休み塩の学習室」のチラシには、「自由研究にピッタリ!」というようなコピーが書いてある。そして自由研究の宿題のために来館する子どもたちは多い。そこで毎年、私はどうしても「自由研究というもの」について考えることになる。現時点で、私が「自由研究」について考えている仮説は、以下のようなものである。

多くの方にとって「自由研究」の宿題は「やっかいなもの」だと受け取られているようだ。それは、ふだん「1つの問題、1つの答え」「○か×か」式のテストに慣らされていて、いつの間にか「答えはどこかにある」と思い込んでしまっているところに、突然、「自分で自分に問題を出し、その問題に自分なりの見かたで答えを出す」という、やり慣れたテストなどとは大きく異なった方法論が求められる「自由研究」の宿題が出され、いつもの方法論が全く通用しないので戸惑うということではないだろうか。「1つの問題、1つの答え」で「答えはどこかにある」と思ったまま大人になり、子どもの自由研究を手伝おうとしたなら、親子ともども戸惑うことになるのは道理である。つまり、自由研究がやっかいなのは、「答えは1つでどこかにある」という前提がとても強固で、「自分なりの見かたで答えを出す」という発想に頭を切り替えることが難しいからではないか。親子ともども「答えは1つではない」「見かたが変われば答えが変わる」ことを踏まえたうえで、「自分なりの見かたで答えを出す」のが自由研究だと気付けば、少しは事態が変わるのではないか。

この仮説は、いささか後付けの感もあるが、先に述べた出発点(「分類」の話)で企画を進めるうちに、上記の「自由研究」にからんだ思いも高じて、今年はこのような「テーマ展示」になった。おもに科学の分野から塩を紹介するはずの「塩の学習室」が例年とはかなり異なったものになって、中には期待外れだったお客さんもあったかもしれない。それでも「科学」の分野の話はかなりのウェイトを占めていたのだが、総じて見ると、今回の「テーマ展示」は、分野としては「哲学」になっていたようである。小学生は小学生なりに、大人は大人なりに受け止めてくれているとよいのだが。

私がこのようなことを考えるようになったのは、間違いなく「塩」に関わる「博物館」で仕事をしてきたからである。塩の話をするとき、例えば、すでに連載の初期に書いたように、「塩は必需品か?それとも嗜好品か?」というようなことを考えると、当然、「答えは1つ」にならない。また、「塩とは何か?」と問えば、塩は食品でもあり、食品の保存薬でもある。工業原料でもあり、化学物質でもあれば、自然界では海水に溶けており、岩塩として地下に埋まってもいる。からだの中で生命維持に関わるはたらきをしているかと思えば、摂りすぎれば健康を損なう。つまり、塩のことを考えていると、「答えは1つではなく、見かたによって答えは変わる」としか言えなくなる。それは不幸なことか?私にとってはむしろ逆である。見かたを変えるたびに答えが変わるのが、私には楽しいのである。これは、「塩」に関わる「博物館」で仕事をしていなければ気付きにくいことだったと思う。私が今年の「テーマ展示」で、子どもたちに本当に伝えたかったのは、「1つの見かたで答えを決めてしまうのではなく、多くの見かたを身につけて、いろんな答えを自分で考えてみる方が、きっと楽しいよ」ということだったのかもしれない。

毎年、特に夏休みの終盤に、とにかく急いで自由研究のまとめになるような「答えらしきもの」を聞いて、レポートを仕上げようという親子(どちらかというと親の方)に出会う。どうしてそんなに「答え」に急ぐのか。じっくりといろんな見かたで考えて、いろんな答えを出してみる過程が楽しいのにと、延々と終わりのない自由研究をし続けているような立場の私は思う。来年は、また違ったテーマで、なんとか「本当は楽しいものだよ」ということを伝えられればと考えている。

(注 : 本稿は、Webマガジン『en』 2005年11月号に掲載されたものです。)

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