塩風土記

塩風土記

■高知県と塩■

山地率が高く、年間平均降水量が多い、台風による影響が強い等、天候上の理由により四国の他県ほどの大規模な製塩業の発展は見られなかったが、長い海岸線沿いでは小規模な製塩が行われていた。赤岡町の海浜では安土桃山時代から製塩が始められており、かつては一大製塩地として塩市なども立っていた。1587年(天正15年)からおこなわれた天正検地によると、塩田は約621ha、塩浜は1979浜半あったとの記録が残されている。自給製塩は進んでいたものと思われるが、後に吉野川流域では讃岐(香川県)からの塩の移入が多くなったという。
(日本地理教育学会誌『新地理第2巻第2号、第3巻第1号』)


【名産品】

釜揚げちりめん
ちりめんじゃこ、しらすと呼ばれる小さな魚を、水揚げしてすぐ塩水で茹であげたもの。


酒盗(しゅとう)
カツオの胃と腸をよく洗い、塩漬にして熟成させたもの。
土佐藩12代藩主山内豊資がこれを肴に酒を飲んだところ、あまりにうまいので酒量があがった。そこで「酒盗と名付けよ」、と言ったのが由来だという伝承がある。
(渡辺茂雄『四国開発の先覚者とその偉業』)


【塩の道】

赤岡町の海浜で作った塩を物部村まで馬の背に載せて運んだ、ほぼ直線の約27㎞の道。塩に限らず生活必需物資が行き交う重要な産業道だった。
(富岡儀八『塩の道を探る』)


【その他】

鯨五十集(くじらいさば)
鯨漁が盛んであったころ、室戸沖で捕れた鯨の生肉や皮等を塩漬けにし、保存性を高めて大阪方面の市場へと移出していた。それらを運ぶ小型の廻船のことを、特に鯨五十集と呼んでいた。仲買商人が数人で一艘の船を所有する形をとっており、明治中期には、室戸で約10艘の鯨五十集があったという。
(牧野昇他編『江戸時代人づくり風土記・高知』)

塩の民話
その昔、大栃(おおどち:香美市)という山村に住んでいた力持ちの猟師が、南の海辺の村へ遊びに行き、そこで力比べをして勝った褒美に沢山の塩を貰ったという。当時はまだ、塩がたいそう貴重で高価だった頃。大喜びで重い塩荷を担いで山道を登っていたが、途中、ほんのひと休み、と腰を下ろしたところ塩の包みがころころと麓までころげ落ちてしまった。その塩荷が落ちたあたりには「塩」という地名がつけられた。今も残る「塩」という地名の由来話である。話中の南の海辺の村と思われる赤岡は製塩で知られており、「トンボトンボおとまり、赤岡の市で塩買うて、ねぶらしょ」と言った童歌もあったという。
(平島裕正『ものと人間の文化史7塩』)