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塩風土記

日本全国の塩にまつわる歴史・民俗的な話題をご紹介。

関東

茨城県

茨城県と塩

茨城県では古くから製塩が盛んであり、霞ヶ浦南東岸地域では複数の縄文時代の製塩遺跡が発掘されている。また、古い文献にもさまざまな塩に関する記録が残っており、720年代に書かれたといわれる『常陸風土記(信太郡の条)』に、専門の製塩業者が塩水のついた藻を刈り取り、それを焼いた灰から塩を製造していたとの記述がある。
鹿島地方の海岸から水戸の吉田神社付近を経て内陸部に至る塩街道があり、塩や海産物と、米や野菜等を交換するといった交易が行われていた。

人物

文正長者(ぶんしょうちょうじゃ)
土地の伝説や『ぶんしょうのさうし』などに見られる長者伝説。鹿島大宮司家の雑色の文太が主家を追放されたのち、製塩で身を起こし、文正長者と呼ばれるようになったという。
(地方史研究協議会編『日本産業大系4関東地方篇』)

名所・史跡

霞ヶ浦南東岸地域
古鬼怒湾の湾口部に当たり、広畑貝塚,法堂貝塚,前浦貝塚と縄文式の製塩遺跡が集まっている地域。製塩遺跡と周辺に多く分布する製塩土器片を出土する遺跡との間に,塩および塩蔵食品の流通関係があったと考えられている。
村松白根遺跡(むらまつしらねいせき:那珂郡)
2002年(平成14年)に発見された中世後半以降の大規模な製塩跡を中心とする遺跡。
(茨城県教育委員会財団埋蔵文化財部)

名産品

おぼろ納豆
納豆に塩漬けした切り干し大根を混ぜ合わせ、醤油・調味料で味付けしたもの。しょぼろ納豆、そぼろ納豆とも言われる。

塩の道

塩街道
太平洋に面した鹿島灘沿岸で作られた塩を、内陸の栃木や群馬方面に運んだ塩の道。製塩地から塩や海産物を運び、米や野菜などと交換していた。
(瀬谷義彦、豊崎卓『茨城県の歴史』)

学びの場

上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)(土浦市)
国指定史跡上高津貝塚と、隣接の考古資料館からなる。貝塚広場には、竪穴式住居などが復元されている。また考古資料館では、上高津貝塚と縄文人の生活の様子が分かりやすく解説されており、霞ヶ浦沿岸の製塩遺跡や製塩土器等も紹介されている。
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栃木県

栃木県と塩

内陸部に位置する栃木県だが北部には塩の付く地名とともに塩泉が点在し、塩泉製塩が行われていた記録がある。塩泉製塩からの生産量は地元の需要を満たすには十分ではなく、沿岸地方より塩や海産物を移入し、農作物と交換する交易が盛んであった。
近世においては、栃木と江戸方面をむすぶ交通路として川を利用した舟運が発展したため、巴波川を通って江戸から行徳塩(千葉県)等が移入され、遡航(そこう)終点があった栃木の河岸で馬荷となりさらに内陸部へと運ばれていった。栃木河岸には塩問屋が11軒もあったという。18世紀半ばからは行徳塩に替わり安価な十州塩(瀬戸内海沿岸)が主流となっていった。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名産品

干し納豆
納豆に塩を混ぜ1週間~10日位硬くならない程度に干したもの。長期保存が可能。
鮎のくされずし
背開きにして数ヶ月塩漬けにした鮎を水洗いし、飯と千切りの大根を混ぜたものと交互に桶に漬け込み、さらに数日発酵させるナレズシの一種。関西のナレズシが利根川・鬼怒川を経て伝わったものといわれている。
日光とうがらし
塩漬けにしたとうがらしを、同じく塩漬けにした赤紫蘇で一本ずつまいたもの。修行僧が体の温まる食物として愛用していたと言われている。この地方の特産物の1つであり、東照宮に参拝に訪れた人々が日光参りのお札にそえる日光土産として使っていたという。(小川聖『人づくり風土記・栃木』)

地名

那須塩原
塩原温泉郷には、塩釜温泉、塩の湯温泉といった塩化物泉がある。
塩谷郡(しおやぐん)
塩泉があり、『甲子夜話』『諸国里人談』などに、水をそのまま調理につかっても普通の塩と変わらないほどだ、といった記述がある。
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群馬県

群馬県と塩

内陸部に位置する群馬県では、わずかに塩泉からの製塩が行われていた記録があるが、塩は生産するものと言うよりは外部より移入されるものであった。
街道の発展に伴い陸上の交通が盛んとなり、荷馬を使った塩の運送が行われるようになった。また後に利根川が整備されると、江戸と上信越地方の中継地点の要として舟運が盛んとなった。江戸から送られてくる登り荷の筆頭は塩で、瀬戸内海沿岸から安価な塩が移入され、内陸部へと運ばれていった。

名所・史跡

八塩温泉(やしおおんせん:藤岡市)
塩の湯口八ツ所と呼ばれたところから、八塩と名づけられたといわれている。塩分濃度が非常に高い鉱泉が特徴。
倉賀野河岸(くらがのかし)
利根川の支流、鳥川に面し江戸に直航する元舟の遡行終点であり中山道の宿駅でもあった。信越方面と結ぶ輸送幹線の水陸接点として利根川上流でもっとも重要だった河岸。さまざまな荷が行きかい、江戸から送られてくる登り荷の筆頭であった塩は、高崎への付送り分だけで1771年(明和8年)には、年に6万俵にも及んだという記録が残っている。
(山田武麿『群馬県の歴史』)

名産品

イワナずし
利根川上流域に伝わる正月料理。イワナを塩漬けにし、腹に飯をつめ桶に並べて20日から1ヵ月程長期発酵させたナマナレズシの一種。
おっきりこみ
煮込み麺料理の一つ。小麦の生産地である群馬の郷土料理。小麦粉に塩と水を混ぜて幅広の麺を作り、野菜等と味噌や醤油ベースのつゆで煮込む。煮ぼうとうとも。
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埼玉県

埼玉県と塩

内陸部である埼玉県では、製塩の記録はほとんどない。近世には、十州塩(瀬戸内海沿岸)および行徳塩(千葉県)が、江戸川を利用して内陸部へと移入されていた。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名所・史跡

塩地蔵 (さいたま市)
その昔、大宮宿で娘を連れた旅の途中で病に倒れた浪人がいた。医者の手当ても薬も利かず、寝込んでしまった父親の看病を続ける娘の夢枕に、ある日地蔵様が現れ、塩断ちをするように告げたという。娘が塩断ちをして地蔵堂に祈ったところ、父親の病は全快した。喜んだ親子はお礼にたくさんの塩を奉納し、その後、人々も塩を供えるようになったという。
(佐藤利夫『大宮の郷土史』)
大滝温泉(おおたきおんせん:秩父市)
ナトリウム・塩化物泉。神経痛・創傷・皮膚病などに効能があるといわれている。

名産品

しゃくし菜漬
標高が高い秩父地方で、古くから白菜のかわりに栽培されてきたしゃくし菜を、10月末から11月のはじめ、霜の降る頃に収穫し塩で漬け込むもの。しっかりとした歯ごたえが特徴。
塩あんびん
埼玉県北部の農家で古くから秋の収穫を祝ってつくられ、現在も食されている。小豆に砂糖を加えず、代わりに塩で味付けしたあんを、餅の生地で包みこんでつくった大福。
(財)埼玉県市町村振興協会、久喜市観光協会)

地名

塩(しお:熊谷市)
地形が由来となった地名。谷口などのような、シボり込んだような地形、シワんだ地形を示す言葉を「シワ」「シオ」といい、それに漢字の「塩」が当てられたと考えられている。4世紀頃の古墳群が見つかっており、県指定史跡として塩古墳群と呼ばれている。
(竹内理三他編『角川日本地名大辞典』)
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千葉県

千葉県と塩

千葉県では、近世より国内最大の消費地江戸(東京都)の隣国という立地条件からさまざまな生産活動が盛んであった。塩についても同様で、東京湾内(行徳、船橋等)に入浜式塩田があり、行徳塩と呼ばれていた。また、外房に小規模の揚浜式塩田が存在していたが、それらは、専売制度開始後に姿を消し、東京湾内の入浜式塩田の生産量も急激に減少した。古くから醤油の産地でもあり、現在でも塩の消費量が多い県のひとつである。

人物

小野 友五郎(おのともごろう)
明治の初めに枝条架の事業化をはかり、塩業技術の改良・普及に貢献した。
(田村栄太郎『日本の産業指導者』)

名所・史跡

余山貝塚(よやまかいづか:銚子市)
縄文時代後期から晩期にかけての貝塚。国指定の重要文化財「みみずく土偶」が出土している。製塩なども行われていたという。
(銚子市教育委員会)
行徳塩田(ぎょうとくえんでん:市川市)
潮の干満差が大きい江戸湾岸に位置し、自然浜塩田(入浜塩田の先駆的な形態)で塩がつくられていた。江戸幕府は、軍事物資としての塩の確保を目的として、この地の製塩を保護する政策をとった。
行徳塩田の対岸に位置していた篠崎村の堤防の高さを制限し、行徳側より高くさせない等の保護により、周辺地域との利害が生じており、江戸川で洪水が起きた際に、白蛇が行徳側の堤防に穴を開け、ために篠崎村が助かったという当時の軋轢を示すような民話も残されている。
(江戸東京湾研究会編『江戸東京湾事典』、鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』)

名産品

くじらのたれ
鯨の赤身を醤油や塩をベースにした「たれ」に一晩漬け込み天日で干した鯨の干物。
くさりずし
イワシやアジなどを塩漬けにしたあと、魚の腹に酢飯をつめ、すし桶に並べてショウガの千切りなどをかけながら数段重ね、最後にハランや柚子の葉を敷きつめ1~2週間、飯粒が溶けるまで発酵させたナマナレズシの一種。

その他

行徳塩(ぎょうとくえん:市川市)
江戸時代、行徳塩田で作られていた塩には、明造り、地古積、直し古積、の三種があった。明造りとは行徳で生産された加工なしの塩。地古積は行徳塩を、直し古積みは十州塩をそれぞれ原料として苦汁を除去した加工塩である。当時安価で多量に出回っていた十州塩はほとんどが苦汁分の多い差塩であったので、輸送途中や保管中に苦汁分が溶けだしかなりの目減りがあったため、苦汁分を除去し目減り分を少なくした古積塩は関東奥地で歓迎されという。(小沢利雄『たばこと塩の博物館研究紀要第5号"江戸時代の塩の道"』)
塩浜由緒書(しおはまゆいしょがき:市川市)
下妙典村の名主、岩田家の伝来文書。明和6年(1769年)に幕府へ提出した年貢減免願書であり、行徳塩田のはじまり、開発手当金の支給、塩浜の経営方法等が記されており、代々重要引継文書として扱われ、災害による年貢減免の申請や、堤防工事等の嘆願の際の有力な根拠として幕府へ提示された。(鈴木和明『明解行徳の歴史大事典』)

学びの場

市立市川歴史博物館(市川市)
鎌倉時代以降の市川の歴史や文化を紹介しており、海辺、水路など地形を活かした市川の生活・生業(塩づくりなど)を展示している。
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東京都

東京都と塩

近世において国内最大の消費地であった東京都だが、海岸線が短いため塩の生産はほとんど行われていなかった。徳川幕府は江戸湾近郊での塩の生産を奨励し自給自足を目指していたが、それだけでは不足であったため、下り塩として十州塩(瀬戸内海沿岸)が移入されていた。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

佐藤信淵(さとうのぶひろ)
幕末の絶対主義的思想家。幕末の米・塩の自給体制を整えるため、江戸湾を干拓し塩田、水田を作るという計画を立てた。
(広山堯道『塩業時報第18巻』)

行事

火渡り祭(八王子市)
高尾山薬王院有喜寺で毎年3月第2日曜日に行われている行事。
柴燈護摩(さいとうごま)を焚いた後の残り火の上を渡ることでさまざまな功徳を受ける。火渡りを行うものは清められた塩を踏んで出発し、渡火の終わりにはまた塩を踏む。最初に火渡りをおこなう先達は三方に乗せた塩を撒きながら渡火を行う。この塩には、製塩の四つの行程が、四徳に通じるものであり、塩を踏むことで四徳の宝を献じ、同時に四徳の心を奮い立たせ新たにし火渡りを行うという意味があるという。
四徳と塩
1.海水をくみ上げる(発心)、2.天日で干す(修行)、3.製品になる(菩提)、4.人の為になる(ねはん)に相通じるという。
(高尾山薬王院有喜寺信徒課)

名所・史跡

小名木川(おなぎがわ:江東区)
旧中川と隅田川を結ぶ運河。徳川家康が、行徳の塩を江戸城に運ぶため開削した。
東京都内の塩地蔵
東京都内には各地に塩地蔵と呼ばれる地蔵尊が存在する。これらの造立時期、由来などははっきりしないものが多いが、古来より塩は清めとして用いられており、これを供える、あるいは供えられている塩を持ち帰るなどして、人々は健康祈願、商売繁盛などのご利益を求めていたと考えられる。
塩船観音寺(青梅市)
八百比丘尼という尼僧がこの地に立ち寄った際に千手観音を安置したのが始まりと伝えられている寺。「塩船」とはこの谷間の水田の西が細長く東に広いさまを、法華経に説く千手観音の広大な慈悲によって、人々を苦海から救って彼岸へ渡す"弘誓(ぐぜい)の船"にたとえてつけられたと言われている。
(古橋才次郎(編)『塩元売会報』)

名産品

べったら漬
大根を砂糖と塩を混ぜた甘酒で漬けた浅漬け。
くさや
ムロアジやトビウオなどをくさや汁と呼ばれる魚を繰り返し長年漬け込んで熟成させた塩水に漬けてつくった干物。

その他

塩年貢(伊豆諸島)
稲作に適した土地が少ないため、江戸幕府は年貢を塩で納めることを求めた。
(児玉幸多、杉山博『東京都の歴史』)

学びの場

たばこと塩の博物館(墨田区)
塩の性質、生活との関わり、日本の塩づくりの歴史や世界の塩などを展示している。
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神奈川県

神奈川県と塩

神奈川県では近世において東京湾(川崎市、横浜市)に入浜式塩田があり、小規模ながら製塩が行われていたが、十分に需要をまかなうことが出来ず十州塩(瀬戸内海沿岸)が移入されていた。人口が多く、かまぼこ、干物、梅干等の名産品もあるため、塩の消費量が多い県のひとつである。また、小田原市には塩の研究所である海水総合研究所と塩業史資料を保存・公開する塩業資料室がある。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名産品

小田原かまぼこ
主にいしもち等の魚肉に塩や他の調味料を加えてすりつぶし、板に盛り付けて蒸し焼きにしたもの。
塩うずわ
小田原、真鶴あたりに伝わるソウダガツオを塩漬けにした保存食。ソウダガツオは、夏から晩秋にかけて相模湾で定置網や釣りで多く漁獲され、主にそばつゆなどで使われる節(宗田節)の原料として加工されていた。秋に獲れたソウダガツオを塩漬けにし、正月など漁の少なくなる冬場の保存食として作られていたが、現在では、宗田節と同じく、作る人が少なくなっているという。
(参考:神奈川県水産技術センターHP)

地名

塩浜(川崎市)
もとは塩田があり、塩浜新田と名付けられていた地域。昭和40年の住居表示で塩浜となった。
(小塚光治『川崎史話(中)』)

学びの場

海水総合研究所(小田原市)
当センターの研究部門の中核として製塩技術、塩の品質などに関する研究に取り組み、その成果を提供している。
塩業資料室(小田原市)
研究所向けの塩、塩業に関する専門的な資料の他、一般の方向けの塩に関する歴史資料、図書を公開している。蔵書数約1万5千冊。利用には事前の申し込みが必要。
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