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塩風土記

日本全国の塩にまつわる歴史・民俗的な話題をご紹介。

北海道・東北

北海道

北海道と塩

日本の総面積の約2割を占める北海道は、年間を通して日照時間が短く寒冷な気候であり、塩づくりにはあまり適してはおらず、製塩に関して残された記録は少ない。
近代に入り、幕末には竹の細枝を使った枝条架による製塩が試みられたが、装置に使用する竹の入手が難しい等の理由により進展はしなかった。その後、明治政府による官業として岩内製塩所が作られたが、これも採算が合わず3年で廃業となっている。
北海道における塩は、当地で生産されるものというより、北前船によって十州塩(瀬戸内海沿岸)等が移入されるものであった。塩を使って豊富な海産物を加工し、保存性を高めた上で南へ運ぶ交易は港町(松前・江差・函館等)の発展に大きく寄与した。
(藤原相之助『仙台戉辰史』)

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

人物

高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ
北前船により、海産物、米、塩など各地の特産品を運んで商売し、港の発展に貢献した。また、北洋漁業の基礎を築いた人物でもある。
(北海道新聞社他編『北海道歴史人物事典』)

名産品

新巻鮭
鮭の内臓を取り除き水洗いをして塩をまぶして干したもの。冷凍技術が発達していなかった頃、産卵期に川で大量に漁獲されるシロサケを保存するために生み出された。
山漬
鮭の内臓を抜き塩を詰め、さらに塩と交互に挟む形で漬け込み熟成させたもの。山のように積むことから山漬と呼ばれる。
数の子
ニシンの魚卵を天日干し又は塩漬けにしたもの。
めふん
鮭の背骨の内側についている腎臓を塩漬けにし、発酵、熟成させた塩辛の一種。
ニシンの切り込み
生のままのニシンを薄切りにし、塩と米麹に漬け込み発酵させたもの。
紅葉子(もみじこ)
スケソウダラの未熟卵を塩漬けにしたもの。北海道から北陸地帯の一部にかけての呼び名。関東一帯ではタラコと称される。(「平島裕正『ものと人間の文化史「塩」』)

その他

北前船(きたまえぶね)
日本海海運に就航していた北国地方の廻船のうち、江戸中期以降、西廻り航路に就航していた廻船に対する上方地域での呼称。北海道では弁財船ともよばれていた。大阪からは、上方の木綿や古着、瀬戸内海の塩等を運び、帰路は北海道から昆布やニシンなどの海産物を運び、港の発展に寄与した。
(『大辞林 第二版』)
アツケシ草
塩湿地に生育する塩生植物。秋になると茎から枝が赤く変化するため、別名をサンゴ草とも言う。日本では、北海道の厚岸町で発見され、地名にちなみ厚岸草(アツケシソウ)と命名された。そののち岡山県、愛媛県、香川県等の塩田地域でも発見されている。当初は、江戸時代、十州塩を運ぶ北前船の交易等によって、北海道から中四国へと伝播したと考えられていた。  (平島裕正『塩の道)』)
しかし、星野教授(岡山理科大学)の研究により北海道に自生するアツケシソウと瀬戸内沿岸に自生するアツケシ草のDNAの塩基配列が一致しないことが判明し、北前船説が否定された。教授は瀬戸内海沿岸のアツケシソウは、韓国に自生するアツケシソウとDNAが一致しており、古代吉備地方と朝鮮半島との交易過程で人為的にもちこまれたのではないかと推定している。
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青森県

青森県と塩

本州最北端に位置する青森県は、古くから北端の製塩地として知られていた。青森地方では主に海水を直接火にかけ、水分を蒸発させる方法(海水直煮製塩法)が行われていた。
海水を煮るための塩釜は、中・近世では焼貝殻と粘土を原料にして作る土釜が用いられていたが、その後は鉄釜に移行した。海水直煮製塩法は、多量の塩木(しおき:塩を作るための燃料として必要な樹木)を必要とするため、他の地域では早くから入浜式塩田等、効率の良い製塩法に取って代わられていたが、県内には塩田に適した遠浅の砂浜が少なく、海岸線のすぐ側に山があり塩木を得ることが容易であったためか、近代まで直煮法による製塩が続けられていた。

名所・史跡

大浦遺跡(おおうらいせき:青森市)
縄文時代晩期と平安時代の遺跡。1971年(昭和46年)に発掘調査が行われた。平安時代の遺跡からは製塩土器が出土している。
(青森市教育委員会事務局文化財課)
内真部遺跡(うちまんべいせき:青森市)
縄文時代から平安時代にかけての遺跡。平成11年度の青森市教育委員会の発掘調査で、白砂式土器と呼ばれている製塩土器が出土している。
(青森市教育委員会事務局文化財課)

名産品

こぬか漬
にしんやいわし等を塩糠に漬け込んだもの。
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岩手県

岩手県と塩

岩手県の三陸海岸は東北有数の製塩地帯であり、沿岸部でつくられた塩は、塩の道を通り内陸部へと運ばれていた。三陸海岸は、もともと塩田に適した遠浅の砂浜がほとんど無く、気候も寒冷で夏が短く製塩に適した地域ではなかったが、逆に平地が少なく農作物にも乏しかったため、海にすぐ続く山から薪を集め海水を汲み上げて釜で煮詰める海水直煮製塩法により製塩を行い、その塩を内陸部の食料と交換するといった生活様式が定着したといわれている。

行事

塩の道を歩こう大会
九戸郡野田村で、毎年9月に行われている。野田村を基点とした「ベコの道」と呼ばれる塩の道を歩くイベント。

地名

波板海岸(なみいたかいがん:上閉伊郡大槌町)
江戸時代から明治にかけて盛んに製塩が行われていた。ここで作られた塩は、内陸地方の遠野、花巻、江刺などへ運ばれていた。

塩の道

野田道
野田村で作られた塩を牛の背に乗せて運んだ道。県内ばかりでなく、雫石からさらに仙岩峠を越えて秋田県の鹿角地方まで続いている。野田ベコの道とも言う。野田ベコの呼称は、盛岡方面の内陸部の人たちの塩行商に対する総称でもあった。
(日本塩業大系編集委員会(編)『日本塩業大系 持論民俗』)
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宮城県

宮城県と塩

宮城県は古くから製塩の記録が残っている県である。特に鹽竃神社で知られる塩竃地方は、縄文時代から製塩の地として栄え、製塩遺跡や製塩土器等が多数出土している。
近世においては、領内での塩の自給自足を目指した仙台藩は赤穂(兵庫県)、行徳(千葉県)より入浜式製塩を学び、塩田の開発を行い、東北随一の製塩地帯となっていった。中でも渡波塩田(石巻市)で作られた渡波塩(わたのはえん)は江戸にまで出荷されていたという。

人物

菊地与惣右エ門(きくちよぞうえもん)
江戸初期、赤穂(兵庫県)や行徳(千葉県)の入浜式製塩に学び、お塩方主立として流留・渡波塩田を完成させた。
(石巻市教育委員会『石巻市の歴史』)

行事

藻塩焼神事(もしおやきしんじ:鹽竃神社)
毎年7月4日から鹽竈神社境外末社御釜神社で行われる神事。ホンダワラの採取を行う藻刈神事、釜へ潮水を入れ替える水替神事、釜で潮水を煮詰める藻塩焼神事、と製塩の一連の行事が3日に渡って行われ、県の無形民俗文化財に指定されている。

名所・史跡

鹽竃神社(しおがまじんじゃ:塩竃市)
人々に製塩法を教えたとされている塩土老翁神が主祭神。塩土老翁神が実際に塩焼きに使ったという「神竃」が祀られている。塩釜の地名の起こりともなっている。
毎年7月4日から末社である御釜神社で藻塩焼きの神事が行われる。
櫃ヶ沢遺跡(ひつがさわいせき:宮城郡利府町)
古代の製塩遺跡。松島湾周辺の製塩土器は、縄文時代晩期には尖底だったものが丸底、平底のバケツのような形に変化したと言われている。
(宮城県教育文化保護課)

学びの場

鹽竃神社博物館
鹽竈神社境内にある博物館。神社の宝物を中心に、鹽竈神社には欠かせない塩業関係資料、港町ならではの漁業関係資料等、およそ5000点の資料を収蔵、展示している。
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秋田県

秋田県と塩

年間を通して日照時間が少なく、豪雪地帯でもある秋田県には、あまり製塩に関する記録は残されていない。海路の発展していった江戸中期ごろからは、十州塩(瀬戸内海沿岸)が廻船によって運ばれていた。また、三陸海岸の製塩地帯であった野田村(岩手県)で作られた塩が陸路を通り、平庭峠を経て鹿角にまで運ばれていた記録が残っている。

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名所・史跡

塩湯彦神社(しおゆひこじんじゃ:横手市)
秋田県内の式内3社のひとつ。山岳修験の祖・役行者が開山したと伝えられ、平安時代中期に編纂された『延喜式』に記されており、秋田県内最古の神社として知られる。元は湯の神であったとも言われている。
(今村義孝『秋田県の歴史』)

名産品

しょっつる
魚と塩を漬け込み熟成させた魚醤の一種。
いぶりがっこ
大根を燻製にしてから塩と麹で漬け込んだ漬物の一種。
塩くじら
くじらを塩漬けにしたもの。もともとは保存食として用いられていた。
稲庭うどん
江戸時代初期に誕生した干しうどん。手伸べ製法で細めでコシの強い麺が特徴。
ハタハタ寿司
秋田を代表する魚であるハタハタをつかった郷土料理。ハタハタを塩漬けにしたのち、米や麹、野菜等をまぜて漬け込み熟成させるイズシの一種。冬から春にかけての保存食であり、秋田の正月には欠かせないものである。(秋田県庁農林水産部農山村振興課)
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山形県

山形県と塩

山形県は日本海に面してはいるが、日本海沿岸での製塩の記録が乏しい一方で、内陸部で山のカツノ木またはシホヂの樹の実を煮詰めて塩を取ったとの記録がある。また、1775年(安政4年)米沢藩十代目藩主上杉鷹山は、仙台藩から技術者を招き、井塩・池塩として知られていた小野川温泉(米沢市)の塩泉を利用し、塩泉からの製塩を行っていた記録が残されている。小野川温泉では、塩田に余り湯を流し込み塩泉を浸透させたかん砂を利用するという方法で製塩が行われていた。この方法で作られた塩は1升が120文で売られた。その頃の赤穂塩の生産地価格が1升で6文程度であったことを考えると、大変高価な塩であることが分かる。その後、第二次世界大戦中の物資不足の折に一時的に製塩が復活したが、現在は塩泉からの製塩は行われていない。

行事

沢庵禅師供養祭(上山市)
沢庵禅師の遺徳を偲び、年に1度、11月下旬ごろに行なわれている行事。沢庵の発祥の地とも言われ、山形県史跡に指定されている春雨庵で、昔ながらの方法で塩とヌカを使った沢庵の漬け込み式等が行なわれる。
沢庵禅師供養祭

人物

上杉鷹山(うえすぎようざん)
米沢藩第9代藩主。藩政の立て直しに成功した名君で、小野川温泉の塩泉を利用した製塩を行っていた。
(広山尭道『日本製塩技術史の研究』)

名産品

晩菊漬け(ばんぎくづけ)
菊作りが盛んな山形県ならではの漬物。食用の菊や野菜などを細かく刻んで塩に漬け込む。

地名

小野川温泉(米沢市)
含硫黄ナトリウムカルシウム塩化物温泉。戦前は製塩も行われたほど塩辛い温泉であったというが、現在は湯の汲み上げ量が増えたため、塩辛さは減ってしまったという。

その他

塩木をナメル
製塩用の木を切ること。昔は、山で木を切って目印を付けて川に流し、川狩りをしながら木とともに下流へ下り、河口の府屋でその木を受け止め、それを燃料に、浜の仮小屋で製塩して持ち帰っていたという。新潟県、岐阜県にも同様の言葉が残っている。
(日本塩業大系編集委員会(編)『日本塩業大系 特論民俗』)
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福島県

福島県と塩

福島県は古くから製塩が盛んな地方であり、沿岸部では製塩土器などが出土している。近世においては、1600年代に赤穂(兵庫県)や行徳(千葉県)より入浜製塩を学び、製塩が発展していった。塩の生産高は藩内の需要をほぼ満たしていたといわれるが、瀬戸内海沿岸から安価な塩が移入されることもあった。磐城の浜で生産された地塩と平潟港・九面港に荷上げされた十州塩(瀬戸内海沿岸)は、海産物と共に内陸部へと運ばれ、その道は「塩の道」と呼ばれていた。
内陸部では数箇所で塩泉を利用した製塩が行われていた記録があり、「浦遠きこの山里にいつよりかたえず今まで塩やみちのく」という西行法師の歌が残されている。
(富岡儀八『日本の塩道』)

十州塩(じっしゅうえん)
瀬戸内海沿岸地域の入浜式塩田で作られていた塩の総称。主な生産地が十州地方にあったため、この名がついた。 江戸初期から中期にかけて、瀬戸内海沿岸地方では入浜式製塩法が発展していった。入浜式製塩法による生産性の向上と、内海航路を利用した海上運送によって、安価で良質な塩を多量に提供することができたため、十州塩は、生産・流通の両面から他地域の製塩を凌駕し、国内製塩市場のほとんどを占めることとなった。 実際に『十州塩』の名称が使われるようになったのは1875年(明治8年)頃からであったといわれている。
十州地方(じっしゅうちほう)
長門(山口県)、周防(山口県)、安芸(広島県)、備後(岡山県)、備中(岡山県)、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)。

(日本たばこ産業株式会社高松塩業センター『香川の塩業の歩み』)

名所・史跡

大塩裏磐梯温泉(おおしおうらばんだいおんせん:北塩原村)
塩分を多く含んだナトリウム塩化物温泉。昔から製塩に利用されていた。

名産品

ハヤ寿司
ハヤ(ウグイ)を一晩塩漬けにし、桶にハヤ、飯、山椒と重ねて漬け込むナレズシの一種。初夏に漬け込み冬に食べる、長期に渡る熟成が特徴。

地名

塩沢(しおざわ:只見町)
弘法大師が塩がなくて困っている村民を見て、錫杖をつき塩の井戸をつくったという伝説を持つ。

その他

相馬塩(そうまえん)
海岸沿いに領地をもつ相馬藩(相馬市)では、古代より製塩がおこなわれていたが、1600年代に関東地方の製塩先進地であった行徳(千葉県)から入浜式塩田技法が伝えられて以降、飛躍的に塩産業が発展していった。
「相馬藩御経済略記」によると1817年(文化14年)から1835年(天保6年)にかけての、年間の平均産出量は年間約三万俵(約1800トン)。『相馬塩』として主に内陸部に移出されていたという。藩の直営塩田こそなかったが、藩領内で作られた塩はすべて藩が統制し、自由販売は禁止されていた。また藩政として「塩方」、「塩場奉行」、「塩目付」といった役人をおき、忍塩(密売塩)の取り締まり、藩内の塩生産や販売取扱約を命じるなどさまざまな塩政策を行っており、藩の産業として、製塩事業の保護を行っていた。(村川友彦『人づくり風土記・福島』、『福島県の塩業史1』)
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