本書は、都市論の形をとりながらも都市そのものについて書かれたものではない。あくまでも都市を題材にして現代思想の問題系にアクセスしようというものである。だからタイトルは、東京「について」考えるのでなく、東京「から」考える、なのだという。具体的な東京の光景を素材としながら、リベラリズム、ポストモダニズム、ナショナリズムや格差、郊外、経済資本、セキュリティ社会などについて語り合った本である。
「まえがき」にあるように、著者の二人は同年齢。「同じように東京の郊外に育ち、同じテレビを見、同じ事件に接し、同じ時期に同じ大学に通って、同じように現代思想の洗礼を受け、同じような読者を対象とした人文系理論の著者とサブカルチャーの分析本を書き、いまも同じ東京に住んでいる」。
そんな共通点の多い二人が、渋谷を皮切りに、東急沿線、小田急沿線、六本木、足立区、池袋、下北沢、国道16号線などをネタにして、自らの専門領域に引き付けて自由に語り合う。面白いのは、章が進むにしたがって、次第に両者の思考の違い、都市への思いの差異が明らかになっていくことだ。都市を媒介項とした1990年代的/現代思想的言説、その解釈、受け止め方が微妙に異なるのだ。その違いかどうして生まれてくるのか。もとより、下北沢や秋葉原の再開発計画が問題視される背景には、東京が多様なサブカルチャーのモザイクによって成り立っている事実に、行政サイドが鈍感すぎることに対する苛立ちがあるとか、「ジャスコ的」「ファスト風土的」アイテムと「ロハス」なるものとどこに違いがあるのか疑わしいとか、西荻は昭和テーマパークだとか、ともすると暴言ともとられかねないことをサラッと言いのける痛快さが、本書の大きな魅力となっている。しかし、表現上は微妙でありなからも、都市それ自体に対する感受性において、ほとんど決定的ともいえる差異が二人にはある。二人のその温度差を確認することが、じつは本書のもう一つの楽しみなのだ。二人の著書を少なからず読んできた読者の一人としては、むしろそっちの方に興味をもったと正直に告白しておこう。
要旨を簡単にまとめてみよう。全体は5章からなるが、まず1章、2章では、北田暁大の著作『広告都市・東京』の分析対象であり、東浩紀にとっては「ヴァーチャルな地元」である渋谷をまくらに、80年代、90年代を経て、都市論そのものが失効していく過程が明らかにされる。都市とは文化であり、その限りにおいて「読まれ」なければならないものというポジションは『ぴあ』から『ぴあMAP』になっても変わることはなかった。都市への関わりが根本的に変化したことを象徴するのが『散歩の達人』や『出没! アド街ック天国』の登場だ。物語的・歴史的・文学的深みを求めるのではなく、「つまみ食い」的に都市を受容するようになる。それは都市を中心とする消費社会化の進行と呼応する。渋谷における西武と東急の関係がそれを図式化する。北田によれば、西武=広告都市と東武=広告郊外がシミュラークル的に都市を構成していったのだという。
ところが、こうしたシミュラクルの都市に綻びが生じてくるのが90年代以降である。広告都市や広告郊外の象徴であるパルコやBunkamuraよりも、キャット・ストリートやランブリング・ストリート、センター街といった「ストリート」が大きなプレゼンスをもつようになる。その背後にあるのは、モノ、コト、ヒトといった情報の集積、情報アーカイヴとして都市機能への重心移動だ。そこでは都市の個性はあまり重要ではない。「相対的に大きな情報アーカイヴ」が求められるわけで、渋谷も秋葉原も脱舞台化した情報都市としては変わりがない。情報の濃度が高ければ高いほどいいわけで、それはまた「ジャスコ的」巨大量販店の店舗展開、国道16号線的発展とも親和性をもつ。今や、渋谷も六本木ヒルズすら、ジャスコ的なものに呑み込まれようとしているという。
3章、4章では、「広告都市」渋谷の死と「情報アーカイヴ」=「趣都」秋葉原の誕生は表裏の関係にあるという指摘。ディズニーランドは共同幻想に依存した記号的空間、ジャスコは共同幻想など必要としない、国道16号線的、「動物的」空間ではないかという仮説が出される。それは、端的に量的なスケールを重視して、巨大なモノと情報のアーカイヴをつくろうという欲望に行き着く。もはや、空間に意味など必要がないのだ。しかも、こうした「ジャスコ的」空間は、適度にバリアフリーで、適度に監視カメラが設置されていて、適度に住みやすい、いわば「人間工学的に正しい」空間を提供する。そして、コンビニやファミレスと結び付き、日本中を侵食し、画一化しようとしている。それが「ファスト風土」的日常であり、それに抗することはかなり難しい。
こうした現状分析を踏まえて、二人の差異が明確な対立軸として示される。それが最も明確に表れるのが「人間工学」の解釈においてだ。5章と「あとがき」で北田は二人の議論を整理しながら、その対立軸について次のように述べる。
「〈僕(東)がこの連続対談で東京を素材として言いたかったことは、人間は主体である前に動物であり、そしてその動物性がいまや、都市デザインを含め、社会システムの根幹を直接に決めはじめているということです〉と言っている。つまり、〈工学的管理の圏域と人間的多様性の圏域を切り離して共存させる〉ポストモダンの基本原理が信憑性を獲得しつつある現在では、動物としての人間の行動可能性を制御する人間工学が、社会システムを直接的に規定していく、ということ」であり、この認識にもとづけば、「国道16号線的なリアリティを嘆く必要もないし、下北沢のサブカルチャー的救済はノスタルジーでしかな」くなる。これは、残酷さ(あるいは苦痛、悪)の除去を目指す工学的論理の肯定と結び付く考えで、説得力のある主張だと言う。
それに対して、「〈人間工学が社会に因果的に影響を与える〉ことは否定しないが、意味的に両者は独立したものだと考えている」と北田は言う。「社会は意味を媒介としたコミュニケーションによって成り立っているのであり、したがって〈人間工学〉そのものではなく、〈人間工学についての(社会の側の)意味づけ〉が社会に作用する」。「言い方を変えれば、人間工学について共同幻想が社会を動かす」。そういう立ち位置で都市を捉えると、結果的に曖昧な態度をとらざるを得なくなってくる。「国道16号線的なリアリティの拡大、都市風景の郊外化は不可避的なものと考えつつも、下北沢は救わなければならないとも思」うような態度を呼び込んでしまうと北田は言うのだ。
「人間工学と社会との関係」をどう位置付け、どう理解するか。二人のこの問題をめぐる理解と態度の差異こそ、都市を論じることの困難を、逆説的に表面化させたといえる。
今、まちづくりのテーマとしてまず挙げられるのが「安全・安心」である。セキュリティは都市にとっての最重要課題である。しかし、それを重視するあまり、都市は人間工学的には正しくても、面白みを失っていくとしたら、それは都市として正しいことなのだろうか。難しい選択である。「について」ではなく、「から」考えるという本書のスタンスは、都市において普遍的な問題に接続していくという意味でかなり成功していると思う。
(了) |