| ところで、塩井戸の覆屋内の成分表に記された源泉名が「潮満玉の泉」となっているところにも表れているように、鹿野田神社の塩井戸には、「古事記」などで有名な海幸彦・山幸彦にまつわる伝説があり、訪問前からも気になっていた。他の塩泉の場合、六ヵ迫鉱泉(第23回)のように、弘法大師などが関わるものは多いようだが、さすがに日本神話が関わるものは聞いたことがなく、神話に彩られた西都原に近いこの塩泉ならではの際立った特徴であるといえる。以下、本連載の本題からは逸れるが、「塩泉利用」の話に入る前に、伝説について紹介しておきたい。
まず、塩井戸の覆屋のガラスにも塩井戸の由来が書かれていたので、以下に転記して紹介する。なお、文中の【】は私の補足である。
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鹿野田神社と潮満の泉について
草稿者 大町三男

<写真8>
塩井戸覆屋に書かれた「潮満の泉」の由来解説
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この鹿野田神社は明治の初めごろまで、潮妙見大明神とか潮妙見様とかいわれ、彦火火出見尊<ひこほほでみのみこと>をお祀りしてあります。
創建の年代ははっきりしておりません。棟札は弘安六年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。
『彦火火出見尊は別名を火遠理命<ほおりのみこと>といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命<ほでりのみこと>の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神<わだつみのおおかみ>のもとへ行き、三年の後なくした釣針のほかに潮満玉<しおみつたま>と潮涸玉<しおひるたま>を授かって帰られました。』(古事記)
この潮満玉・潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満の泉はその御神徳によるものといわれております。
この潮満の泉は深さ一丈(約三米)余り、海を隔ること三里(約十二粁)に余りながらこの塩水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれております。
享保十二年(1726)の社殿再興の棟札には、上下万民崇敬の様子を述べると共に、こ【の】潮満の泉の功徳をたたえて哀愍六合を覆うと述べております。
平安時代の有名な女流歌人和泉式部は八代の法華嶽薬師に参籠した後、帰郷の途中再び病となり鹿野田氷室の里(潮)までたどりつきこの潮満の泉で湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠り読経三昧の日を送り、竟にこの地で四十三才の生涯を終わったと伝えられています。
『日隠れや氷室の里を眺むれば藻塩の烟りいつも絶やせぬ』
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠った薬師堂跡と式部の墓があり里人によって祀られています。(日隠れ=城内の古名)
このように由緒深い潮妙見様は、伊東氏・島津氏の両時代も領主領民に深く崇敬されてきました。
江戸時代の末には、勤王の志士高山彦九郎が諸国遊説の途この社に参拝し村人と濁酒を吸【汲の誤表記か?】み交し、また肥藩の学者安井息軒が都於郡の史跡巡りをしてここを訪れ神主の丸山宅に一泊して夜通し神楽を見物し『筋骨のあらぶる神の一さしに天の岩戸は早明けにけり』と詠んだと記されています。
時は流れて今日に至も常に里人の崇敬は篤く、霊験あらたかなるこの潮満の泉の塩水を薬用として飲用する人もあり春秋の大祭には大へんな賑わいを見せています。
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また、上記の解説文だけでは、海幸彦・山幸彦の物語と塩井戸の関わりが分かりにくいと思われるので、以下に物語のあらすじを紹介して補足したい。なお、古事記などの原典をあたった訳ではなく、幾つかのホームページ(例えばこちらやこちら)から抜粋して、私がまとめたものなので、神話として正確ではない可能性がある点をあらかじめお断りしておく。
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海幸彦と山幸彦の物語(筆者抜粋)
天孫降臨で降りてきた邇邇芸命(ニニギノミコト)と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の間には、長男の火照命(ホデリノミコト)、次男の火須勢理命(ホスセリノミコト)、三男の火遠理命(ホオリノミコト=ヒコホホデミノミコト彦火火出見尊または日子穂穂手見命)という3人の男子があった。火照命は「海幸彦」ともいい、海で漁をするのがうまく、三男の「火遠理命」は山幸彦ともいい、山で獣を狩るのがうまかった。
あるとき、山幸彦が「互いの道具を交換して獲物を捕ろう」と提案し、海幸彦もしぶしぶ交換に応じたので、海幸彦が山幸彦の弓矢を持って山へ、山幸彦が海幸彦の釣り針を持って海へと向かった。ところが、漁をしているうちに、山幸彦は、海幸彦の釣り針を海の中になくしてしまった。山幸彦は仕方なく家に帰り、許しを請うが、もともと仲が良くなかった海幸彦は許してくれない。海は広く、山幸彦一人では探しきれす、山幸彦は自らの剣を千本の釣り針に作りなおして献上したが、不寛容な海幸彦は許してくれなかった。
山幸彦が途方にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩土老翁神(シオツチノオジノカミ)が顔を出した。事情を聞いた塩土老翁神は小舟を作って山幸彦を乗せ、「このまま良い潮に乗って進めば海神(ワタツミ)の宮に着く。その娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)が出てきて知恵を授けてくれるだろう」と告げた。
山幸彦は言われたとおりに海神の宮へ行き、豊玉姫に会うと、これが大変な美人だった。豊玉姫も、大変な美男だった山幸彦に一目惚れで、海神にも許されて結婚した。そのまま山幸彦は海底に住み着き幸せな日々を送るうちに、たちまち3年が経ってしまった。
ある日、自分が海底へ来た理由を思い出した山幸彦が、豊玉姫に事情を説明すると、海神が魚たちに大集合をかけてくれた。魚たちの中から、海幸彦の釣り針を飲み込んで困っていた鯛が名乗り出て、無事に釣り針を取り戻すことができた。
地上へ帰る山幸彦に、海神は、「この釣り針を返すとき、『この釣り針はつまらない針、うまくいかない針、貧乏の針、おろかな針』と心の中で唱えながら渡しなさい」と呪文を教えた。さらに海神は、潮満玉(シオミツタマ、または塩満玉・塩盈珠)、潮涸玉(シオフルタマ、または塩乾玉シオヒルタマ)という2つの宝玉を山幸彦に授けて、「呪文によって貧しくなった海幸彦があなたを憎んで攻めてきたらこの潮満玉を使いなさい。潮がたちまち満ちて、海幸彦をおぼれさせることができる。海幸彦が謝って救いを求めてきたときは、潮涸玉を使えば、潮が引きます。そうやってこらしめれば海幸彦は降参するでしょう」と教えた。
豊玉姫を残して地上に帰った山幸彦が、海神から教えられた通りに呪文を使うと、海幸彦の国はたちまち貧乏になってしまった。怒った海幸彦は山幸彦の国へと攻め入るが、山幸彦は潮満玉を使って海幸彦を溺れさせ、海幸彦が命乞いをすると潮涸玉の力で助けることをくり返した。その結果、海幸彦は、山幸彦が海神から力を授かったことに気付き、大人しくなって、以後は山幸彦に仕えることを誓った。こうして争いはめでたく収まった。
鹿野田神社は山幸彦が海幸彦をこらしめたときに使った潮満玉と潮涸玉をご神体としており、境内にある潮の井は、「潮満の泉」とも呼ばれ、潮満玉を使ったときに潮が吹き出した井戸だとも言われている。海から10km以上離れているにもかかわらず、潮の井から湧き出る水は塩辛く、また、潮の満ち引きに合わせてその水位が上下するという。
なお、山幸彦の御陵について、日本書紀には「日向の高屋山上陵(たかやのやまのうえのみささぎ)」とあり、都於郡城跡がその地であるともいわれている。
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この物語は、海の民である隼人の筑紫朝廷への屈服を表す神話であるとされているものだが、世界各地に似たような神話が伝わっており、必ずしも日本神話のオリジナルではないらしい。この物語の中では、「潮流を司る神」という役回りで塩土老翁が登場するが、塩土老翁は塩竃神社に祀られる「製塩を人間に教えた神」としても有名であり、興味深い。
私は神話の専門家ではないから、ここで「この塩井戸こそが潮満玉の泉である」と主張したい訳でもないし、神話の内容や伝説の真偽を問題にしたい訳でもない。ここで伝説について紹介するのは、この連載で塩泉利用について考えているうち、「多くの塩泉に伝説が付随しているのは、海水以外にほとんど塩資源がない日本ならではの現象で、内陸で塩水に出会うのが珍しいからこそではないか」ということに気付いたからである。
「塩の代替として役に立つ・立たない」というレベルでの“堅い”塩泉利用論を核にしつつも、このような伝説もまた「塩泉利用の文化」の一端であると考え、塩の代替としての利用と合わせて事例を収集していった方が、「塩泉利用の文化」を語る上では「おもしろい」のではないかと思い到ったというわけである。明日の宮司さんへの聞き取り調査では、何らかの成果が期待できそうな「塩の代用」としての塩泉利用の事例ばかりでなく、可能な範囲で、神話についても話が聞ければと考えておくことにする。 |