「人間」が「物」と同じように扱われるようになった。この人間がモノ化した現象を、著者は「モノ・サピエンス化」と呼ぶ。この「モノ・サピエンス化」は、いったいいつから始まったのだろうか。また、「モノ・サピエンス化」はわれわれに何をもたらそうとしているのか。本書は、「モノ・サピエンス化」が本格化する80年代、さらにその傾向に拍車がかかったとする90年代に焦点をしぼって、人間のモノ化をさまざまな現象から検証していく。
モノ化とは、物質化であると同時に「mono=単一」化でもあるという。「資本主義社会の下、どんな商品も〈お金〉によって価値が一元化するように、〈物化〉するということは〈単一化〉することでもある」。まさに現代は、人間が物質化し単一化した「モノ・サピエンス」の時代であり、それはまた、資本主義社会が生み出した歴史的必然ではないかというのが著者の下した結論だ。
本書は、プロローグで、まず二つの新聞報道を紹介する。一つは、2004年7月に載った「中絶胎児を一般ゴミ」として捨てていたという記事だ。横浜の産婦人科で「妊娠12週以上の中絶胎児」は、「火葬や埋葬が法的に義務づけられている」ために、切り刻んで一般ゴミとして処分されていたというもの。その倫理的な是非はひとまず措くとして、著者は、「妊娠12週」という点に着目する。たまたま妊娠12週以上であったために新聞沙汰になったが、12週未満であれば、こんな報じられ方はしなかったはずである。実際、明確な罰則がないために、妊娠12週未満の中絶胎児について、一般ゴミ同様の形で処分されているケースは少なくないという。妊娠12週未満であれ、中絶胎児はれっきとした生命である。その生命が一般ゴミあるいは医療用ゴミとして捨てられていく。その現実の方に著者の関心は向かう。
もう一つ2006年2月の新聞に、斎場で故人の顔をカメラ付ケータイで撮影する者がいる、という記事が載った。奈良で起きた幼女誘拐殺人事件でも、犯人は殺害した幼女を撮影し、写メールで家族に送りつけていた。後者のそれは犯人の異常性を印象づける行為であったが、前者の場合、犯罪者ではないごく普通の人々がやった普通のことだ。現代では、死体を写真におさめることは、とりたてて問題にするようなことではないのだろう。二つの新聞記事から、著者は、死者に対する意識の変化に注目する。胎児も故人も、死んでいるとはいえヒトであることには変りがない。その背後にあるのは、「人間のモノ化」である。一度「モノ・サピエンス」という視点に立ってみると、この20年ばかりのあいだに起こったいくつかの特徴的な事件、事象が、いずれも「人間のモノ化」の表れであったことがわかってくるのだ。
目次を頼りに、著者の挙げている「人間のモノ化」の例をいくつか見てみよう。まず、「ブランド」のモノ化。言うまでもなく、ブランド品の消費であるが、80年代に顕著になった「差異」化がさらに進んで、「格差」が消費の中軸に位置するようになった。バブル経済華やかなりし80年代、世は「消費社会」に突入したと言われた。生産に従事する人々が中心メンバーであった「生産者社会」は、消費に重点を移した社会、「消費社会」に取って代わられた。しかし、今や、すべてをモノとして消費する「超」消費社会になっているという。いわゆる「差異の戯れ」が消費行動、欲望の駆動力となっていたのが「消費社会」であった。所有し、使用し、あるいは「見せびらかし」の対象として、それでもかろうじて、モノはモノとして人々と関係をとり結んでいた。ところが、モノが純然たるモノとしての意味を失い、瞬間的な消費の喜びのためにだけ存在するようになる。最初から「使い捨て」られるためにだけ消費されるような時代が到来したのだ。それを“超”消費社会と呼ぶ。「超消費社会」では、安モノだけでなく高級ブランド品も、「使い捨て」の対象となる。「使い捨て」が基本のような社会では、ヒトもその例外ではありえない。それが、「からだ」のモノ化だ。
「からだ」のモノ化を、著者は二つの方向から捉える。まず社会現象としての「ブルセラ」・「援助交際」、「フリーター」を取り上げる。「ブルセラ」は、パンツを売るという意味では、モノの売買であり、売春行為ではない。一方、「援助交際」はからだが「モノ」化されている。からだのモノ化は、一見売春行為のように見えるが、厳密に言うとそれはからだを売っているわけではなく、からだをレンタルしているにすぎない。この「カラダをレンタルする」というところが、きわめて「超消費社会」的なのだ。「カラダをモノ化し、レンタルする→レンタルの代償として、おカネというモノを受け取る→受け取ったおカネ(モノ)によって、ブランド品を買う」。「援助交際」の流れは、旧来の売春行為のような「玄人」もいないし「生活の糧」という意識もない、そこにあるのはからだというモノを介した「消費」だけだ。そうであれば、ブランド品と同様に、やがては「使い捨て」られる運命にある。
このプロセスは、「フリーター」においても同じである。「超消費社会」では、職業すらも消費の対象となる。「フリーター」とは、端的に言って「失業者予備軍」のことである。「社会の安全弁」と呼ばれるのは、景気が悪くなれば簡単に人員削減(使い捨て)できるからである。「フリーター」もまた「使い捨て」の対象には違いないのだ。
もう一つ、「からだ」のモノ化の最も分かりやすい例としてBT(バイオテクノロジー)を挙げる。20世紀後半に始まったBT革命は、そのものズバリの「ヒトの使い捨て」のうえに成り立っているというのである。たとえば、体外受精のためには、通常たくさんの受精卵を作製する。なぜならば、一回で成功することは稀なので、たくさんの予備の受精卵が必要になる。作製された受精卵は、必ずしもすべて使われるわけではなく、未使用の受精卵はいずれ廃棄されることになる。現在アメリカにはそんな使い捨てられる受精卵が40万個ほどもあると言われている。また、着床前診断は、最初から受精卵を捨てることを前提にした方法だ。96年に誕生した「クローン羊」のドリーの場合、27個の卵子を使って生まれたのはドリーだけだったという。いずれ行われるであろうヒトのクローン胚の作製においても、大量の卵子が捨てられることは容易に想像できることだ。冒頭紹介した中絶胎児を一般ゴミとして廃棄した例も、ヒトの「使い捨て」を象徴するような典型的な事件であった。
著者は、「人間のモノ化」、さらにはヒトの「使い捨て」化が、人間の「思考」や社会にまで及んでいるという。小泉元首相の発言を引用しながら、それを「人生いろいろ主義」と呼び、その根底にあるネオリベラリズムこそ「人間のモノ化」を推し進めている要因だと分析する。
現代の資本主義社会が、すべてをモノとして消費する「超消費社会」であるとすれば「モノ・サピエンス化」への潮流を拒否したり、食い止めようとすることはムリであり、今のところ資本主義と異なる社会モデルが見出せない以上、この「モノ・サピエンス化」は歴史的必然と考えた方がいいと著者は言うのである。しかも、「モノ・サピエンス化」が、個々人の自由な欲望を原動力としているかぎり、「自由」を擁護する立場からは、その流れを規制するよりも、逆にいっそう加速させた方がいいとすら言うのである。
この方向に対しては、ただちに「人間の尊厳に反する」といった批判が起こるだろう。しかし、そうした批判、非難は、「超消費社会」に孕むさまざまな矛盾を、かえって隠蔽することになる。だから「モノ・サピエンス化」への欲望を加速させた方が有効だというのである。なぜならば、加速させることによって、「その内的な矛盾――八○年代から世界的潮流となっているネオリベラリズム(ネオコンサバティズム)の矛盾――が自ずと明確になってくるから」である。「たとえば、人々が〈自由〉を追求すれば、〈平等性〉が脅かされ〈格差〉が拡大するだけでなく、社会的な〈規範〉や〈道徳〉も崩壊し、ひいては人々の〈管理〉が強化されることになる」わけで、「こうした内的な矛盾は隠蔽するのではなく、欲望の加速化によって出現させるべき」だと言うのだ。「モノ・サピエンス化」への欲望を加速させることで、新たな時代へ踏み出す。そこで初めて、われわれは「モノ・サピエンスの尊厳」を擁護すべきなのかもしれない、と著者は議論を締めくくる。
さて、この結論をわれわれはどう読むか。筆者自身紛れもなく「モノ・サピエンス」の一人である。これを戦略と見るか、ある種の諦観と捉えるか。言うまでもなく、筆者は「戦略」と解釈したことを言い添えておこう。
なお、著者の岡本裕一朗氏は、「en」06年9月号に「〈リベラルな優生学〉と〈コントロール〉の未来」を寄稿している。
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