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食の舌と言語の舌が接触する交点に、「物売り」という古来からの人間活動がある。とりわけ売られているものが、パンであるとかチャパティであるとかトルティーリャであるとかいった日々の主食であるような時、それを売る市場や街頭の空間で交されている言葉やコミュニケーションのかたちは、そのままその文化のもっとも基本的かつ本質的な構造を示すことになる。主食にまつわる身振りや言葉は、そのままその文化のもっとも日常的な身体言語のエートスをつくりだすからだ。
顔をヴェールで被って眼だけをのぞかせながら、彼女たちは一列にずらりとならんで地面に座っていた。どの女も目の前に布で覆った籠をひとつ置き、その上にひらべったいまるいパンをいくつか並べて売っていた。私はその列の前をじつにゆっくりと歩きながら、女たちとパンを観察した。たいていは中年の女たちで、彼女たちの格好はいささかパンに似ていた。パンのいい匂いが鼻をつき、同時にわたしは黒い眼からの視線を感じた。
このように書くのはエリアス・カネッティである(「パン選び」。『マラケシュの声』岩田行一訳、法政大学出版局、1973、所収)。モロッコの古都マラケシュ、ジャミア・ル・ファナー街は、逞しい女たちが日がな一日パンを売る地区である。一九五四年、訪問者としてこの町に数週間ほど滞在したカネッティは、熱い陽が沈んであたりを乾いた薄暗がりが覆う黄昏どき、いつものようにパン売りの女たちが並ぶ露地へと出掛けていった。籠のなかにうず高く積まれて売られるモロッコ特有の円く平べったいパン。水と小麦粉の配分をわずかに変えるだけで、その日その日のパンの固さ、柔らかさ、質感が微細に決定される。わずかに加える塩と砂糖の配分もまた、作り手の創意や即興、きまぐれによって、パンの味のかすかな変異をつかさどる。カネッティの描写は、パンの姿を女たちの年格好に見立てることで、それぞれのパンと売り手との不思議な親和性を示唆する。いや、売り手はほとんど例外なくそのパンの作り手でもあるとすれば、パンは作り手の身体の生き写しとなる。彼女たちの手が、体重が、髪や汗の匂いが、パンをこねあげ、円いかたちを与え、こんがりと焼くプロセスのなかで、まさにパンのなかに染み込むからだ。たまに若く痩せた女がパンの前に座っていたりすると、カネッティの違和感は大きい。彼女が作ったにしては、そのパンはあまりにも円くふっくりしすぎているからである。今日は都合で痩せた姪っ子に店番を任せる太った叔母の堂々たる体躯を彼は想像して、安堵する。パンという存在こそ、女そのものなのだ。主食は、こうして、生身の身体的存在としての人間に、やわらかく浸透してゆく。
女たちがパンを売りながら道行く人にその出来栄えを誇示し、ディスプレーする、そのしぐさの描写がすばらしい。カネッティはこう続けている。
どの女も時どき右手でパンをひとつ取りあげ、それを軽やかに宙に投げ、またそれを手の平に受けとめると、まるで秤にかけているみたいに、そのまま少しゆすり、人に聞こえるほど二、三度それを軽くたたき、この愛撫のあとで再びそれをほかのパンの上に戻したのである。パンの塊そのものが、その新鮮さが、その重さが、その匂いが売りに出されていた。これらのパンにはあらわで魅惑的な趣があり、眼のほかには何もむきだしていない女たちの活動的な手が、それをパンに伝えたのである。「それをあたしからお前にあげてもいいわ。それをお前の手に取りなさいな。それはわたしの手にあったのよ。」
魅惑的な光景である。食物にかんするこれほど躍動的な描写もまた稀有のことである。女たちのふっくらした逞しい手によって宙に投擲される、匂い立つ小麦の円盤。瞬時の飛行を終えて彼女たちの手に着地したパンは、休む間もなくゆすられ、リズミカルな音とともにたたかれ、このあざやかな誇示の儀式が終わると、ふたたび籠のなかにぴたりとおさまる。女たちはパンを身体のように愛撫し、もてあそび、運動の生命を与え、イーストが見事に利いて小さな空洞が充満したパンが奏でる音楽を広場に高らかに響かせては、自らの懐に連れ戻す。買われないうちは、そのパンは彼女たちの身体の一部であるとでもいうように。
こんなとき、眼だけをヴェールから出した女たちの口は衣服のかげで閉じられ、その舌は言葉を発しない。にもかかわらず、カネッティは、パンの精と一体化した女たちの言葉を、至高の物売りの口上としてたしかに聴き取った。「それをあたしからお前にあげてもいいわ。それをお前の手に取りなさいな。それはわたしの手にあったのよ。」舌でパンを味わう感触を先取りした、パンという肉体のあげる声。売り手と買い手とを身体的に結ぶ、呪術のような誘惑の言葉・・・。少し離れて見ているはずのカネッティも、いまやパンの質感と匂いと運動を媒介に、女たちの肉感的な手の平のなかにパン種のように捕獲されかけている。パンのあげる誘惑の言語は、女たちの貞節な閉じられた口によって、かえってその蠱惑的な輝きを増幅させる。パンを手にとりたいという誘惑からかろうじて身を翻した観察者カネッティは、ついにパンに近づいた一人の男を描写しはじめる。
男たちがそのそばをじろじろ見ながら通りすぎた。男のひとりが気に入ったパンを見つけると、立ちどまって、右手にひとつ受け取った。かれはそれを宙に軽やかに投げ、それをまた受けとめると、そのまま、まるでこの手の平が秤の皿でもあるかのように少しゆすった。かれはそれを二、三度人に聞こえるほど軽くたたいてみて、軽すぎると思ったり、別の理由でいやだったりすると、それをほかのパンのところへ戻した。
男による、パンの吟味の光景である。直接口に入れて試食するのではなく、女の手からパンを受け取り、自らの手の感触のなかにそれを受け入れ、宙に投げ、手の平でゆすり、たたき、重さと固さと音によってパンの肉体と声を知る。なんという優雅な、身体的試食の儀式だろうか。口蓋のなかの生身の舌よりもはるかに繊細な感覚が、こうした身体的な儀式の感覚のなかで覚醒するのだ。しかもそこには、男と女の肉体を触れ合わせ、交換し、結び合わせる、優雅にしてエロティックな性の交渉の気配が濃厚に立ちのぼる。カネッティは文章をこう結んでいる。
しかし時にはかれはそれをずっと手に持っていた。そんなとき、まわりの人はその塊の誇りを、その塊が特別な匂いを放つのを感じた。男はマントに左手をつっこみ、大型のパンと並ぶとほとんど目に入らぬほど小粒の硬貨を一枚取り出して、女に投げ与えた。それから、その塊はマントのなかに消えた──その塊がどこにあるかもう見当もつかなかった──、そして男は立ち去った。
この瞬間を、商行為の完結の風景として見ることほど無粋なことはあるまい。ここにあるのはむしろ、エロティックな性交渉の秘儀にも匹敵するような、男女の、パンと手を媒介にした、濃密で典雅なコミュニケーションの姿である。女の籠のなかに戻ることなく、ついに男の手に留め置かれた一枚の大型パン。愛の成就は、この運動の停止によってもたらされる。そしてパンは女の生命圏を離れ、男の所有物として別の生を生きはじめる。躍動的に踊っていた誘惑の塊が、まもなく「主食」として、家族の舌と胃を潤わせる食物となるのだろう。
だが、このような取引きの後に得られる主食を持つことは、人間にとって幸福である。舌がこのようなモロッコ・パンを食べる時、味覚を味わい尽くすグルマンな欲望から遠く離れてそれが感知するのは、この食物が手渡されてきた、ひとつの手ともうひとつの手のあいだの豊穰な身体的やりとりの記憶だからである。パンや米や玉蜀黍が演出する主食の味とは、まさにこの日常空間における豊かな身体的交渉の記憶のことにほかならない。主食にまつわりつくそうした手と声の肉感的記憶をこそ、私は主食を味わう舌に取りもどしたいと、強く願う。
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あれはどこだっただろうか? 私の耳の記憶のどこかにも、青く鈍色に光るブルー・トルティーリャを両手でたたく太った女たちの内部の声がただよっている。メキシコ南部かグアテマラの、インディオの小さな村の市場のなかで、つつましく供される昼食のために焼かれたトルティーリャ。藍色のレボッソ(インディオの肩掛けショール)の房飾りを翻しながら、浅黒く逞しい女たちの掌が愛撫していたあのトウモロコシ粉でできた円い心臓。焦げて匂い立つ優雅な青い円盤。「それをあたしからお前にあげてもいいわ。それをお前の手に取りなさいな。それはわたしの手にあったのよ・・・」
たしかに、モロッコのように、それらが宙に放り投げられたことはなかったかもしれない。だがトルティーリャはそれ自身の固有の快活な運動性のなかで、石臼の上で捏ねあげられ、手の平で叩かれながら平たく伸ばされ、小刻みなリズムを刻む音楽の精となった。鉄板の上に置かれ、数度ひっくり返され、焼かれては恍惚とする香りの女神となった。私の手にそっと渡された数枚の女神たちは、いまだほの暖かい皮膚を惜しげもなく私にさらしながら湯気を立てた。それはそのままで、私の舌に悲しみの味を残した。隠れた歓喜の味をほのかに分泌した。どこかのレストランのように、その上に、豆と肉と過激に辛いチレ・ソースとを贅沢に乗せる必要などどこにもなかった。
私の舌先をかすめて喉の奥へと落ちていった青い女神は、沈黙の歌をうたいながら、胃のなかの宙をひらひらとあでやかに舞い踊った。
<次号につづく> |