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コラム:コントロール


   いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。


阿部氏写真

管理と自由の微妙で奇妙な関係

阿部潔

あべ・きよし − 1964年名古屋生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。関西学院大学社会学部教授。専攻は社会学、メディア/コミュニケーション研究。メディア文化と権力の関わりを批判的に研究することに、一貫して取り組んできた。最近では、テクノロジーを駆使した監視社会における空間の変容に関する共同研究の成果を、成実弘至との編著『空間管理社会─監視と自由のパラドックス』(新曜社)として刊行した。
著書に『公共圏とコミュニケーション』(ミネルヴァ書房)、『彷徨えるナショナリズム』(世界思想社)、編著に『メディア文化を読み解く技法』(難波功士との編著・世界思想社)がある。



シネコンの憂鬱

   どうもシネコンが苦手だ。オシャレなファッションビルやショッピングモールにある劇場で、たくさんの上映作品の中から自分のお気に入りの映画を観るのは、たしかに便利で快適だ。全席指定なので座るシートを求めて場内を右往左往する必要もないし、シートもゆったりとフカフカで気持ちいい。上映中に持ち込める飲み物や食べ物の販売も充実していて、まるでスナック片手に自分の部屋で楽しむように大スクリーンで映画を満喫できる。
   だが、コーヒーを求めてファストフードの窓口のようなカウンターの前で列を作って並んでいると、どうも居心地が悪くなる。自分は本当に好きな映画を観に来ているのか、それとも映画を楽しむことを誰かから/どこかからお仕着せられているのか……。そんな疑問に襲われる。
   公共の場で楽しく快適に過ごせることを嬉しく感じながらも、どうもその楽しさや自由さに戸惑う。最近街に出かけると、そうした違和感を抱くことが少なくない。きっとそこには、一方で管理や監視が強まりながら、他方で快適さや気楽さが過剰なまでに追い求められる現代社会の錯綜した姿が関係しているに違いない。



管理をめぐるギャップ

   現代社会を批判的に論じていくうえで、「管理」や「監視」がキーワードになって久しい。その背景には、喧伝される「治安の悪化」や「テロの脅威」に対抗すべく、最新テクノロジーを駆使した監視システムの導入が進んでいることがある。しかし、管理の高まりへの批判がジャーナリズムや論壇で繰り広げられる一方で、そうした危機感が社会一般に広く共有されているようには思われない。むしろ、日々の生活次元での監視や管理は、「安全・安心」を追い求める人々に支持されることで、着実に進行しているようにすら見受けられる。
   ここに奇妙なギャップがある。
   法制度やテクノロジーの導入といった客観的な次元においてさまざまな管理が進み、それに対して言説レベルで批判や疑問が提示される。しかし人々の実感では、管理強化はどことなくリアリティを欠いている。それは、なぜなのだろうか。



なんのための管理強化なのか?

   ここで改めて、管理が強化される理由について考えてみよう。言うまでもなく、管理強化の第一の根拠は「治安の維持」である。犯罪であれテロであれ、それへの対抗として管理が叫ばれるのは、潜在的な危機に対抗すべく社会の安寧を確保するためである。それに対して批判的な立場からは、秩序維持の名目で過剰な監視がなされプライバシーや人権が侵害されることへの危惧が唱えられる。秩序の維持と個人の自由のあいだのバランスをめぐる厳しい意見の対立が、そこに見て取れる。
   だが、この対立図式は一般の人々の日常感覚においても成立しているのだろうか。私たちの多くは、「秩序と自由の比較衡量」という視点から管理について考えているのだろうか。なし崩し的に進む昨今の管理強化を見ていると、どうもそのようには思われない。
   ここで、管理をめぐるキーワードである「安全・安心=セキュリティ」が人々に対して持つ意味が浮かび上がる。日常的な場面で管理や監視が意識されるのは、なにも社会全体の「秩序」や普遍的価値としての「自由」との関わりにおいてではない。むしろ、漠然としながらもなにかしら訴える力を持つ「安全・安心」を求めて、近年の管理強化は受け入れられているようだ。体感としての「安全・安心」が脅かされているかぎりにおいて、私たちは監視を容認する。ときに「安全・安心」を手に入れるために、管理強化を歓迎すらする。そうした管理との関わりあいこそが、今の時代を特徴づけている。



「楽しさ」の保証

   では、セキュリティ確保を追い求める現代社会の背景には、なにが見て取れるのだろうか。秩序と自由の比較衡量ではなく、より体感的な次元での「安全・安心」の希求は、どのような欲望に支えられているのだろうか。
   ここで、管理とは縁遠いように思われる「楽しさ」を切り口として、考えてみたい。管理であれ監視であれ、その言葉の喚起するイメージはどことなく陰鬱だ。管理・監視されることは、自ら望むのではなく他者から強制的に課される状況であろう。そうであれば個人にとって管理とは、楽しいどころか嫌なものであるに違いない。だが奇妙なことに、今日の管理のあり方は、そうした二項対立を超え出ているかのようである。つまり「安全・安心」のために治安強化を甘受し歓迎する現代人にとって、管理されることは嫌な辛いことではなく、むしろ嬉しく喜ばしいことなのではないだろうか。「する側」からの一方的な強制ではなく「される側」からの積極的な要請のもとに管理強化が進んでいく昨今の状況を眺めていると、そうした思いを抱かずにはおれない。



「自由」のための管理

   どうして人々は「安全・安心」のために自ら進んで管理を受け入れるのか。それはおそらく、社会の安寧を願ってのことではない。それよりはむしろ、自分自身が好きなことを/好きなようにするためであろう。大文字の社会ではなく自らが体感できる身近な世界において、ほかの誰からも拘束されることなく「自由に」振る舞えること。これこそが、現代に生きる多くの人々が最大公約数的に追い求める「社会の条件」である。
   「安全で安心できなければダメだ。そのためには管理もやむを得ない!」。このように唱える善良な市民たちのメンタリティの裏には、安全な状況下で安心して「好きなことができる」ことを貪欲なまでに求める、私たち自身の姿が見て取れる。
   このように考えると、これまで批判的な言説が想定してきた管理と自由との対立構造が、セキュリティを闇雲に重視する現代では既に失効していることが確認される。管理を受け入れる人々は、合理的な判断に基づき「治安」のために「自由」を犠牲にしているのではない。むしろ逆に、「自由」を保証してもらうために管理を支持しているのだ。



「楽しさ」と「管理」の共謀関係

   「好きなことを好きなように」するのは、楽しいことである。誰からも邪魔されたり制限されることなく振る舞えることは、消費活動(自分のテイストに合わせて、市場にあふれる多様な商品の中から、好きなものを購入する)に典型的なように、肌身で実感できる「自由」にほかならないのだから。
   そうだとすると、批判派の主張とは反対に、現代社会における管理の強化や監視の広がりは、プライバシー侵害や自由の制限を含むものではないようにすら思えてくる。いやそれどころか、「安全・安心」を求める人々の要請に応え、個人の「自由」を保証している点で、むしろ望ましい社会のあり方である。そのように管理強化を正当化することすら、論理的には不可能でないだろう。だが、ここに現代的な管理の落とし穴が潜んでいる。
   たしかに「好きなことを好きなように」するのは楽しい。だが多くの場合、その楽しさは、自分以外の誰かによって予め設えられ用意されたものではないだろうか。例えば、きらびやかに彩られた賑やかなショッピングモールで買物にいそしむとき、私たちは豊かな消費社会の楽しさを実感する。溢れるほどのモノに囲まれモール内を自由に歩き回る経験は、独特の豊かさと自由を感じさせる。しかし、モールという消費空間は巧妙に管理された場所でもある。至る所に置かれた防犯カメラをはじめ、安全かつ快適にモノを買わせるためのさまざまな装置が、当人たちにそれと気づかれることなく人々を消費へと誘う。自分で好きなように楽しんでいるつもりであっても、それ自体が巧妙かつ徹底的に操作されていることは、現代の消費社会ではむしろ当たり前の状況であろう。
   だが、ここで言いたいのは、マネジメントされた快楽自体を否定することではない。そうではなく、楽しさが一元化されることによって自由の多元性が見失われ、その結果、自己と他者との関係=社会性が貧困なものになっていく。近年の管理強化は、一方でそうした傾向に拍車を掛けながら、他方でそれを益々感じさせにくくする。「楽しさ」と「管理」のそうした共謀関係に、異を唱えたいのである。



「他者への自由」

   では、楽しさが一元化されるとは、いったいどのようなことなのだろうか。多元的な自由が見失われるとは、具体的にどのような事態を指すのだろうか。
   消費社会において「好きなことを好きなように」する楽しさは、自己選択と自己決定のうえに成り立っている。消費者たちはモノとして溢れる商品のなかから好きなものを選び出し、どれを購入するかを決定する。選択と決定における自由が、豊かなモノが与える楽しさを保証しているのだ。個人を選択と決定の主体として絶対視したうえで、その結果生じる責任の主体をも各人に全面的に帰属させるのは、ネオ・リベラリズムのお家芸である。だとすれば、「自己決定」と「自己責任」をセットで語る風潮のもとで、人々にとっての楽しさが「好きなことを好きなように」する自由へと先細りしてくことは、当然の成り行きであろう。
   しかし、ネオ・リベラリズムが後押しする「楽しさ」のあり方は、きわめて一面的である。なるほど、個々人に対して選択と決定の自由は与えられている。だがそこには、「他者への自由」が絶望的なまでに欠けている。「他者への自由」は、相手との関わりあいのなかで偶有的に生じる楽しさを自己にもたらす。自己選択・決定に基づく楽しさが「選び取る」ものであるのに対して、「他者への自由」が担保するのは、いわば「訪れる」楽しさであろう。
   「好きなことを好きなように」することのみが楽しさとして享受されがちな社会では、他人との間で生じる思わぬ出会いや予期せぬ出来事は、徹底した管理と監視のもとで排除されざるをえない。なぜなら、自分の意のままにならない「他者」は、自らが選択し決定する自由を脅かす存在であるからだ。そうした「他者」への怖れを背景に、個人の選択と決定の自由(他者からの自由)を保証するものとして管理強化が歓迎される。他方で、未知なるものとの邂逅がもたらすはずの自由(他者への自由)は、「好きなことを好きなように」することへの脅威として圧殺される。



テーマパーク化する社会のおぞましさ

   このように見てくると、私たちが生きる社会それ自体が、巨大なテーマパークであるかのように思えてくる。テーマパークとは、快適に楽しく過ごせる場所にほかならない。お目当てのアトラクションであれイベントであれ、私たちは自分が見たいように、楽しみたいように体験することを求めて、テーマパークへと足を運ぶ。期待を裏切るような「予期せぬ出来事=ハプニング」は、テーマパークではタブーだ。思い通りに、予定された通りに物事が進まないことは、テーマパークではノイズでしかない。もしも人気キャラタクターがその日の気分で無愛想になったり、理由もなく演し物が中止になったりしようものなら、それまでにこやかな笑みを浮かべていた観客たちは一転して、剥き出しの怒りをぶつけてくるに違いない。
   だが、貪欲なまでに追い求められる「好きなことを好きなように」する楽しさと、その裏返しである「思い通りにならない」ことへの忌避や嫌悪は、なにもテーマパークのなかだけの話ではない。外部世界から明確に遮断され、徹底した管理のもとに成り立つ「夢の世界」。日に日に管理の度合いを強めながら、奇妙にもそこに暮らす人々に自由を感じさせる「現実の世界」。今では二つの世界は、ますます似通ったものになりつつある。
   テーマパークでは、自ら望んだモノが必ず手に入る。だが、思わぬ事態に遭遇することは皆無だ。快適なテーマパークでは完膚なきまでに掻き消されてしまう「他者への自由」は、現実世界において矛盾や軋轢を生み出すと同時に、新たな可能性の予兆でもある。「他者からの自由」に安住するのではなく、「他者への自由」に身を曝すこと。そこからきっと、現在の「管理」と「自由」の微妙で奇妙な関係に潜む無気味さが見えてくるに違いない。

(了)



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