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コラム:コントロール


   いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。


鈴木氏写真

有料化する公共圏――安全な世界への立ち入りは禁止されています

鈴木謙介

すずき・けんすけ − 1976年生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。国際大学グローバルコミュニケーションセンター客員研究員。専攻は理論社会学。ネット文化や若者の内面について社会学的な立場から積極的に発言し、注目を集める若手研究者。
著書に『暴走するインターネット ネット社会に何が起きているか』(イーストプレス)、『カーニヴァル化する社会』(講談社)がある。現在、TBSラジオ(954KHz)にて「文化系トークラジオ Life」(土曜日20:00〜21:00、関東のみ)にてパーソナリティを務めている。



誰のセキュリティか

   「体感治安」という言葉が、メディアにも普通に登場します。この言葉を考えた人は、すごいコピーライターだなと思います(もちろん皮肉です)。その理由は二つあります。まず、「治安」という社会現象を「体感」、つまり個人の内面の問題に収束させてしまっていること。個人が不安だと思いさえすればいいのですから、これは反論不可能な概念になります。そしてもうひとつは、内面の問題であるにもかかわらず、「治安」が悪化している以上、その原因となっている犯罪の方をなんとかしなければならない、と思わせる力を持っているということです。
   試みに、この10年に起きた「凶悪犯罪」を挙げてみます。97年、酒鬼薔薇事件。98年、バタフライナイフによる少年犯罪。99年、池袋通り魔事件。2000年、「人を殺してみたかった」という理由で少年が主婦を殺害、また、17歳の少年によるバスジャック事件が発生。01年、いわゆる「レッサーパンダ男」事件、大阪府の池田小学校での児童殺傷事件が発生。03年、長崎で少年による児童殺害事件発生。04年、奈良県少女誘拐殺害事件。05年、広島と栃木で少女の殺害事件が発生。
   どうでしょう。記憶に残る事件ばかりではないでしょうか。こうした事件が私たちの心の中から消えていないことじたい、「体感治安」の悪化を裏付けていそうです。
   体感治安の悪化、犯罪に対する不安の高まりは、実際のところ、犯罪の発生件数よりも、マスメディアなどでどの程度こういった事件が報道されるかという点に影響を受けていると言われています。ただ、近隣で事件が起きてはじめて、地域の安全対策が強化される、といった事例も聞くので、案外「不安だな」と思っていても、特に何か行動を起こすわけではない人も、ある程度いるのではないかと思います。
   ともあれ、「体感治安が悪化しているから、犯罪の防止に努めなければならない」というロジックが成立すると、色々と厄介なことが起こります。その最たるものは、「安全」と「安心」が、一体のものになってしまうということです。実際、「安全・安心」と、ふたつの言葉を繋げて使う場面が、最近は多くなりました。ですが、こうして並べられたふたつの概念は、そもそも内容的にも、それを解消するための手段も、まったく違うもののはずです。
   それが並べられてしまうとどうなるか。「安心できなければ安全でない」という考え方が広がっていくこと、つまり「安全」の意味が、限りなく「安心」に近づいてしまうという結果が、ここから生じます。本当ならば「安全であれば安心だ」という風になってもいいはずなのですが、「今の世の中は安全ではない」というメッセージばかりが流通すると、そういう考え方はできなくなってしまうようです。
   近年のセキュリティを巡る議論の中で注目されている概念に、「ゼロ・トレランス」というものがあります。「寛容なし」という意味ですが、本来の出所は、ニューヨークで採用された、「犯罪の原因になりそうなものも徹底的に検挙し、一掃する」という治安政策にあります。私はこの言葉を、日本においては違う使い方をしてもいいのではないかと思っています。「安心できなければ安全ではない」と人びとが考えるとき、そこには、ほんの少しの不安でも「安全」を脅かすものとして、なんとか解消しなければならない、という偏執的な欲望が生まれます。つまり、私たちは犯罪者予備軍のような、はっきりとした対象がなくても、セキュリティそのものに対してゼロ・トレランスになり得る、ということなのです。
   おそらく「子どもの安全」を巡る様々な対策や親御さんの不安は、ある部分ではまったくの寛容、というか余裕のないものになっているでしょう。当然です。多くの親御さんの関心は、子どもが犯罪の被害に遭う確率が10%だろうと1%だろうと、「その中に我が子が含まれるかどうか」という点に集中します。現代社会は、乳児死亡率の高かった伝統社会のように、「子どもはまた死んだら作ればいい」とか「死んだ子は神様のところに帰ったのだ」という風に考えることのできない社会です。自分の子どもが被害に遭うことに「寛容」であることのできる人などいないでしょう。だから、人びとは危険性が0%になるまで、より強力なセキュリティを要求することになります。もちろん、0%ということは実際にはあり得ませんから、どこまでいっても「安心」は手に入れられないことになります。



市場化する公共圏

   ところで、私が問題だと考えているのは、そうしたセキュリティの強化によって、罪のない人までもが「犯罪者予備軍」扱いされる、といったことだけではありません。私の関心はどちらかというと、そうやってゼロ・トレランスなセキュリティ意識が拡大する一方で、そうしたものへの対処が、かなりの程度「自己責任」に基づいて行われるものになるという方向に向かっているのではないか、というところにあります。前者の問題も重要であり、後者の話にも関連してくることなのですが、スペースの関係上、今回は後者の話に絞って話を進めます。
   セキュリティの自己責任化とは、どういうことでしょうか。それは、セキュリティの強化を、「守られる」側の個人や集団が、自前で購入し、管理するということを、さしあたりは意味しています。防犯設備協会の調べでは、わが国の防犯設備機器の年間総売上額は、2000年代に入る頃から急増し、1兆円を突破します。その一部には、商店街や地域などが警察と連携して監視カメラを導入した、などの例がありますが、多くは、個人で契約するセキュリティシステムや、防犯グッズなどの製造業が占めるようです。
   防犯グッズというと、興味深いのは、携帯電話と連動した防犯機能でしょう。複数の事業者が、子ども向けのセキュリティを売り物にした携帯端末を発売しています。多くの場合、電源管理機能や位置情報機能などを利用して、携帯の電源が予期せず切られた場合、あらかじめ登録されていた先にメールが送信される、などの仕組みで、「万一の事態」を把握できるといったものになっています。
   ここですぐに疑問として浮かぶのは、そもそも携帯の電源が切られた時点で、事態は既に取り返しの付かないことになっているのではないか、とか、メールを受け取った人が親御さんであるとして、そこに急行できるのだろうか、といったことです。オプションとして、警備会社と連動したサービスを「購入」することも可能ですが、本来的にこの仕組みは、「安全」の確保にどの程度役に立っているのか、分からないところが多いと思います。
   そうした疑問を、通信事業者の方にぶつけてみたことがあります。返ってきたのは、次のような返答でした。「苦しい言い方になるのだが、そもそも通信事業者は、利用者の通信の秘密を守る義務がある。よって、セキュリティサービスの通信内容が、どのように用いられ、誰にメールが送信され、どのように安全が確保されるかといった問題については、事業者は責任を負うことができない。そこは利用者に任せるしかない。」
   要するに、セキュリティ携帯も、基本的には防犯ベルなどと同じ、「自衛の手段」の一環でしかないということです。そうした手段は、お金によって購入されるサービスですから、この場合のセキュリティは、自己責任化(つまり公共セクターが責任を負わないということです)されていると同時に、市場化されてもいます。アメリカでは、市場化されたセキュリティの究極の形として、異質な存在を排除した「ゲイテッド・コミュニティ」が注目されましたが、門を閉ざす土地的な余裕のないわが国では、市場化されたセキュリティは、そのまま公共空間に浸み出していくことになります。言ってみれば、同じ空間の中で、警察のような公的サービスにのみ守られる人と、追加のオプションで警備会社や防犯グッズなどで身を固め、より強固なセキュリティを確保する人が共存する状態になるわけです。



市民化=社会化するセキュリティ

   しかし考えてみれば、倫理的な部分を差し引いても、これはどうにも非効率な事態であるように思われます。たとえばある地域で、子どもを狙った犯罪が起きるとする。その地域には、警備会社と契約している子どもがいて、警備員が巡回しています。さて、その警備員が、「契約のない」子どもが、犯罪者に襲われそうになっているのを見つける。彼は契約がないことを理由に子どもを助けるのを拒否するでしょうか。もちろん道義的には助ける義務があるでしょうが、彼の業務にとっても、ここでその子を助けることは、ひいては自分の契約している子どもの危険を減らすことに繋がります。よって「助ける」ことが必要になるかもしれない。
   むろんそこは費用とのかねあいなのですが、このことは、論理的には、市場化されたセキュリティが、ゲイテッド・コミュニティのような形態を採らない場合、契約のあるなしにかかわらず、地域レベルでの防犯活動を余儀なくされることを意味します。これは警備会社にとっては、端的に言って損です。またその地域にとっても、地域全体で防犯に取り組んだ方が、費用的にも心理的にも「得」な部分が多いように思われます。
   そこで今度は、セキュリティの確保を、個人がバラバラに警備会社と契約するのではなく、地域の単位でまとまって契約するとか、あるいは地域で自警団のようなものを作って子どもを守る、といった取り組みが出てきます。というより、相次ぐ子どもが犠牲になる犯罪の報道を受けて、全国で行われている集団下校などは、親御さんもそこに参加しているわけですから、立派な地域活動だと言えます。ここに警備会社との契約が入ってくる可能性は、ないわけではない。
   地域で犯罪に対処するということは、コスト的なメリット以外にも、地域の連帯を強化するという側面を持っています。実は、冒頭に紹介したニューヨークの治安改善政策も、本来はコミュニティ活性化運動という側面を持っていました。ここにあるのは「地域の安全は地域で守る」という原則、言い換えれば、セキュリティの「市民化=社会化」です。「自己責任」のように、個人がバラバラにセキュリティの責任を持つのではなく、社会の中で、市民活動がセキュリティを担っていこうというものです。
   それは別の角度から見れば、警察がこれまで行っていた公的活動が、市民の側にどんどんアウトソーシングされていくことを意味しています。結果として生じるのは、誰がこの社会にとって問題のある存在か、誰が「公共の敵(パブリック・エナミー)」なのかを、法によって管理された公的主体ではなく、市民が自分たちで決めるようになる、ということです。おそらくわが国のような国土の狭い条件下では、そうして市民によって「敵」と見なされた人びとは、単純に社会のあらゆるところから排除されていく、つまりその存在を認められなくなるのではないでしょうか。
   実は、ここまで述べてきたような、セキュリティの「市場化から社会化へ」というプロセスは、かつてロバート・ノージックが述べた、アナーキーな社会における最小国家を導く論理展開と、形式上非常によく似ています。それについて詳しく述べる余裕がないので、私の話はここで終わりですが、注目しておく必要があるのは、セキュリティの責任が社会のものになる一方で、その力を行使する主体が市場の側に移り、両者が手を結びながら安全が管理されるような社会を、ここから想像することができるということです。
   セキュリティが市民化される一方で市場化されている社会は、ある意味では、セキュリティに関する責任の公共化が進んだ、自由で民主主義的な社会だと見ることができます。ですがそうした社会は同時に、これまでとは異なった治安のあり方、管理のスタイルが要求される社会でもあります。つまり、治安活動の内側にいるためには、共同体の規範を遵守する市民であることと、サービスを購入するに足る消費者であることを要求される、ということなのです。ここでは、端的に言って公共圏が有料化されているわけです。
   管理社会というと、国家などが個人の生活を圧殺する悪いものだ、というイメージが強いのですが、私たちが私たちの安全を、自分の手で守る社会においても、それとは別の種類の「管理」が生じうることは、頭に留めておくべきでしょう。

(了)



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