「体感治安」という言葉が、メディアにも普通に登場します。この言葉を考えた人は、すごいコピーライターだなと思います(もちろん皮肉です)。その理由は二つあります。まず、「治安」という社会現象を「体感」、つまり個人の内面の問題に収束させてしまっていること。個人が不安だと思いさえすればいいのですから、これは反論不可能な概念になります。そしてもうひとつは、内面の問題であるにもかかわらず、「治安」が悪化している以上、その原因となっている犯罪の方をなんとかしなければならない、と思わせる力を持っているということです。
試みに、この10年に起きた「凶悪犯罪」を挙げてみます。97年、酒鬼薔薇事件。98年、バタフライナイフによる少年犯罪。99年、池袋通り魔事件。2000年、「人を殺してみたかった」という理由で少年が主婦を殺害、また、17歳の少年によるバスジャック事件が発生。01年、いわゆる「レッサーパンダ男」事件、大阪府の池田小学校での児童殺傷事件が発生。03年、長崎で少年による児童殺害事件発生。04年、奈良県少女誘拐殺害事件。05年、広島と栃木で少女の殺害事件が発生。
どうでしょう。記憶に残る事件ばかりではないでしょうか。こうした事件が私たちの心の中から消えていないことじたい、「体感治安」の悪化を裏付けていそうです。
体感治安の悪化、犯罪に対する不安の高まりは、実際のところ、犯罪の発生件数よりも、マスメディアなどでどの程度こういった事件が報道されるかという点に影響を受けていると言われています。ただ、近隣で事件が起きてはじめて、地域の安全対策が強化される、といった事例も聞くので、案外「不安だな」と思っていても、特に何か行動を起こすわけではない人も、ある程度いるのではないかと思います。
ともあれ、「体感治安が悪化しているから、犯罪の防止に努めなければならない」というロジックが成立すると、色々と厄介なことが起こります。その最たるものは、「安全」と「安心」が、一体のものになってしまうということです。実際、「安全・安心」と、ふたつの言葉を繋げて使う場面が、最近は多くなりました。ですが、こうして並べられたふたつの概念は、そもそも内容的にも、それを解消するための手段も、まったく違うもののはずです。
それが並べられてしまうとどうなるか。「安心できなければ安全でない」という考え方が広がっていくこと、つまり「安全」の意味が、限りなく「安心」に近づいてしまうという結果が、ここから生じます。本当ならば「安全であれば安心だ」という風になってもいいはずなのですが、「今の世の中は安全ではない」というメッセージばかりが流通すると、そういう考え方はできなくなってしまうようです。
近年のセキュリティを巡る議論の中で注目されている概念に、「ゼロ・トレランス」というものがあります。「寛容なし」という意味ですが、本来の出所は、ニューヨークで採用された、「犯罪の原因になりそうなものも徹底的に検挙し、一掃する」という治安政策にあります。私はこの言葉を、日本においては違う使い方をしてもいいのではないかと思っています。「安心できなければ安全ではない」と人びとが考えるとき、そこには、ほんの少しの不安でも「安全」を脅かすものとして、なんとか解消しなければならない、という偏執的な欲望が生まれます。つまり、私たちは犯罪者予備軍のような、はっきりとした対象がなくても、セキュリティそのものに対してゼロ・トレランスになり得る、ということなのです。
おそらく「子どもの安全」を巡る様々な対策や親御さんの不安は、ある部分ではまったくの寛容、というか余裕のないものになっているでしょう。当然です。多くの親御さんの関心は、子どもが犯罪の被害に遭う確率が10%だろうと1%だろうと、「その中に我が子が含まれるかどうか」という点に集中します。現代社会は、乳児死亡率の高かった伝統社会のように、「子どもはまた死んだら作ればいい」とか「死んだ子は神様のところに帰ったのだ」という風に考えることのできない社会です。自分の子どもが被害に遭うことに「寛容」であることのできる人などいないでしょう。だから、人びとは危険性が0%になるまで、より強力なセキュリティを要求することになります。もちろん、0%ということは実際にはあり得ませんから、どこまでいっても「安心」は手に入れられないことになります。 |