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以前、この連載でジョイスのことを書き、カネッティのことを書いた。どちらも「舌」にまつわる深い経験の持ち主であり、どちらも「舌」について刺激的な思索を展開した作家だった。どちらも20世紀スイスの中立都市チューリヒと特別に縁のある生涯を送った。二人の墓所もまたチューリヒの同じフルンテルン墓地の隣同士である。
このチューリヒにいま滞在している。隣町ヴィンタートゥーアの写真美術館で開催されている「東松照明−国民の皮膚」展に合わせて講演を依頼されたためであるが、不思議な偶然というべきだろうか。
街の中心をゆったりと流れるリマト河の漣に浮かぶ白鳥を眺め、グロスミュンスター大聖堂の壮麗なロマネスクの二本の鐘楼に目を奪われているかぎり、この中世都市が20世紀の一時期に、無数の亡命者たちでにぎわった渾沌たる自由都市であったことなど思いもおよばないかもしれない。私は、週末の「スイスのシャンゼリゼ」=バンホーフシュトラッセを行き交う着飾った市民やツーリストを尻目に、誰にも理解されないであろうさびれた街角の彷徨をしばらく続けていた。ラインハルト通り7番地、クロイツ通り19番地、ゼーフェルト通り54番地、ゼーフェルト通り73番地・・・。忙しくこの街のなかで住所を変えたジョイスの軌跡である。あるいは、ショイヒツァー通り68番地。エリアス・カネッティが11歳の時に親とともにウィーンから移り住んだ場所である。さらにチューリヒ・ダダの立役者、ルーマニアからの亡命者トリスタン・ツァラ、ウィーンから一時スイスに逃れていたユダヤ系作家シュテファン・ツヴァイク・・・。これらの作家・詩人たちの足跡を求めてあてどなく彷徨ううちに、私の舌も敏感になってくる。なにより、彼らの背後には、見事に混淆する言語的経験があり、チューリヒは彼らの舌=言語をさまざまに作りかえ、ことばの記憶を多様に甦らせる多言語使用の土地だったからである。
こころみに、これらの作家たちがチューリヒに滞在した時期を書きだしてみよう。
1915〜19 ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)
1917〜19 シュテファン・ツヴァイク(1888-1942)
1915〜19 トリスタン・ツァラ(1896-1963)
1916〜19 エリアス・カネッティ(1905-1994)
見事に、第一次大戦勃発直後の戦争忌避者たち、亡命者たちが、このスイスの中立都市に流れ込み、戦争終結までのあいだ、ここに突如として驚くべき知的精神の遭遇と撹拌が行われていったことがよく解る。ツヴァイクは自伝『昨日の世界』(原田義人訳、みすず書房)のなかで、この時期のチューリヒの様子をこう回想している。
スイスという国が交戦諸国のあいだで平和に眠っているために、チューリヒはその静寂から脱して、一夜にしてヨーロッパの最も重要な都市となった。すなわち、あらゆる精神的運動の遭遇の場となり、あらゆる考えうるかぎりの商売人や投機家やスパイや宣伝家たちの出会う場となったのである。レストランやカフェや電車や街路では、あらゆる言葉が聞かれた。いたるところで、好ましいのと好ましからざるのとを含めて、あらゆる知人に出会った。そして欲すると欲せざるとにかかわらず、興奮した議論の瀑布におちこむのであった。あらゆる意見が、最も非常識なものも最も道理にかなったものも、聞かれ、憤らされたり、感激されたりしたし、雑誌が創刊され、論戦が交わされ、対立関係がたがいに接触し合い、高め合い、さまざまなグループが結ばれたり分裂したりした。これらのチューリヒの日々、あるいはむしろ夜々ほどに、意見や人間の多彩で熱情的な混淆ぶりが、これほど集中した、いわば湯気を立てるような形式で行われるのに、私は出会ったことがなかった。何びともこの魔法にかかった世界においては、もはや風光も山々も湖もその穏やかな平和も、見てはいなかった。
同じ時期、レーニンもチューリヒのシュピーゲル小路(ガッセ)に住み、ダダイストの夕べに顔を出していたし、ベルン郊外に生まれた画家パウル・クレーもまた、ミュンヘンから戦乱を逃れて1919年頃一時チューリヒに滞在し、ツァラらと親交を持っていた。ジョイスは、トリエステ方言のイタリア語をこの都市に持ち込み、未曾有の多言語小説のはじまりとなる『ユリシーズ』の素材をこの都市の空気から貪欲にくみ取っていた。
私の数日間の耳の経験からしても、現在のチューリヒも充分な多言語都市である。ドイツ語、ドイツ語のスイス方言、フランス語は、混ざり合いながらごく日常的に耳にとび込んでくるし、レストランに行けばシェフやウェイターたちの活気あるイタリア語が飛び交い、若いセルビア語を話す若者が駅にたむろし、どこかからトルコ語も響き、ヴェトナム人やタイ人の移民も意外に目についた。
こうした言語的綾織り状態は、いわばチューリヒの20世紀の「伝統」であるともいえた。舌はここで、新たな生命を与えられ、舌じたいが幾つもの異なった組成を持つ混淆の産物であることを人々に教えたのである。
エリアス・カネッティは、父親に幼い時に死に別れ、母親の権威の下で言語的な自己形成を行った。そのカネッティが、戦乱のウィーンを逃れてスイスに移り住み、チューリヒの不思議に変形したドイツ語を聴いた時の興奮は、つぎのような自伝の文章に生き生きと語られている。
私は、チューリヒ訛りのドイツ語を自分ひとりで、母の意に反して練習し、その進歩のほどを彼女には秘しておいた。それは、言語に関する限り、私の実証した最初の彼女からの独立であったし、私はあらゆる意見や感化においてはなお彼女に付き従っていたけれども、この唯一の件では自分を〈男子〉(マン)のように感じはじめたのである。
(エリアス・カネッティ『救われた舌 ある青春の物語』
岩田行一訳、法政大学出版局)
カネッティは、チューリヒではじめて、彼の「男」としての自立に目覚めた。それが、母親の言語的規律からの離脱であり、とりもなおさず、チューリヒ訛りのドイツ語がそうした飛躍を促したことは特筆されてよい。新しい土地は、新しい食べ物によって、自然にひとりの人間の舌を目覚めさせる。そうして目覚めた舌が、新しい土地言葉をそれまでの舌に結び合わせるようにして喋りだすとき、言語は新たな感覚と思想を懐胎しはじめる。創造的な「リングア・フランカ」の誕生とはまさにその瞬間である。ジョイスがこの時期のチューリヒに滞在したことは、文学の歴史にとって恩寵のような出来事にちがいなかった。
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ジョイスの詳細な伝記作者リチャード・エルマン(『ジェイムズ・ジョイス伝』宮田恭子訳、みすず書房)は、チューリヒ時代のジョイスが何を食べていたか、ほとんど語らない。パリに行く前の三〇代のジョイスは、チューリヒのカフェや酒場で仲間や友人たちとかなり放逸な夜を日々過ごしていたはずで、『ユリシーズ』の執筆に心血を注いでいたジョイスの舌の上をどんな食物が通りすぎていったのか興味をそそるところなのだが。エルマンの伝記では、レストランにいるジョイスはたえずスイスの安葉巻ブリッサゴを口にくわえているか、せいぜい、行商人から買ったトマトにかぶりついているかで、どこにもグルメ的な描写はない。チューリヒにおける私のジョイス探索も、「食」の舌に関する限り、謎めいた空白のまえに立ち尽くすしかない。
『ユリシーズ』の「太陽神の牛」の挿話は、ジョイスが執筆に一千時間を費やしたとされる章で、彼がそのテーマに心奪われ、もっとも熱中した部分であるが、あまりにも熱が入りすぎ、しまいには毎日牛を食べ続けて自分の周りの至るところに牛がいるような気分になり、吐き気を催さずに食卓に向かうことができなくなった、とエルマンは書いている。実際、ジョイスは赤ワインを「ビーフステーキ」の味がするといって飲まなかったようで、もっぱら白ワインを好んでいたというから、牛肉の濃厚な肉汁が彼の舌の上をゆっくりと浸していったことは、あまりなかったかもしれない。
たしかにチューリヒでは牛肉はあまり似合わない。そもそもチーズとハムやサラミなどの冷製肉のバラエティに抜きんでた土地であるし、庶民的なメニューであるシュニッツェル(カツレツ)もウィーンとちがって豚肉のものが主流だ。しかもいまの時季、牛肉など忘れてしまうほどの季節の僥倖が私を待ち受けていた。チューリヒ近郊の落ち着いた町、ヴィンタートゥーアの、陽気なイタリア人シェフの経営するとあるレストランで、前菜にいまの時季の特別メニューとして鹿肉のカルパッチョが登場したのだ。ドイツ語ではヴィルト(Wild)と呼ばれる、いわゆる狩猟による野生の鳥獣肉は、まさに秋の今ごろが旬で、とりわけスイス人の友人たちは柔らかい鹿肉の出現を心待ちにしていた。濃い深紅の肉は、カルパッチョにしては大胆に厚く切られていて、思ったほどクセのある臭いもなく、見事にとろけるほど柔らかかった。付け合わせの生の無花果との相性がまた絶品で、わずかにスモークされた鹿肉はいくらでも私の口に滑り込んでいった。
このとき飲んでいたワインが、スイスのヴァレー産の白「エルミタージュ」であったが、このフランスのマルサン・ブランシュ種を原種とする葡萄から作られたスイスのごく普通のテーブルワインは、なめらかかつフルボディの深みを持った良質の白で、鹿肉の味わいを消すことなく舌を歓喜で潤わせてくれる。エルミタージュとは、サンクト・ペテルブルグの宮廷美術館としてもよく知られた名前だが、そもそもは「隠者の隠れ家」「隠遁所」といった意味で使われる普通名詞である。
鹿肉を食した翌日、ベルンに昨年ついに開館した「ツェントルム・パウル・クレー」(パウル・クレー・センター)を訪ね、レンゾ・ピアーノの見事なガラスと鋼鉄の空間に驚嘆し、広く落ち着いた展示空間に配されたクレーの未知の作品の多くに興奮しながら歩いていると、「エルミタージュ」(原題:Einsiedelei)なる作品にぶつかった。まさに「隠者の隠れ家」と呼ぶに相応しい潅木の林のただなかにある一軒の小さな小屋。周囲には幾何学的に様式化された鳥や蛇の影も見え、青い鮮やかな背景色と、赤い木々や小屋が、絶妙な色彩的コントラストを見せている。そしてそのすぐ脇にあった絵には「匂いを嗅ぐ動物」とあり、狐であろうか、極端に簡略化された線ながら、細長い四肢をした精悍な四つ足獣が、どこかから漂ってくる匂いに向けて頭をもたげていた。クレー特有の、認識の深淵をのぞき込むような、謎めいた作品である。鹿狩りとならんでスイスの山地で人気の高い狐狩り。あるいはこの絵は、人間の臭いに逸早く感応して、肉となる難を逃れる狡猾な狐の姿なのかもしれない。そのとき、狐は、彼の舌をもって、何を食べるのだろうか。何を語るのだろうか・・・。
チューリヒに戻ってのその日の夕食は、タイ人移民の経営する中華料理屋での、狐ならぬアヒルであった。焼き飯の上に美しく並べられたアヒルの肉は、遠くアジアの香料で味付けられながらも、どこかで混淆都市チューリヒの陰翳ある味のカオスを体現していて私には嬉しかった。
<次号につづく>
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