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コラム:コントロール


   いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。


鈴木氏写真
五感のコントロールについて

鈴木隆

すずき・たかし − 1961年生まれ。1985年早稲田大学第一文学部卒業、同年香料会社に入社し、フランス、アメリカにて調香師としての実務経験を積む。著書に『匂いの身体論』(八坂書房)、『匂いのエロティシズム』(集英社新書)など。現在、十九世紀に発展した合成香料産業と近代社会の欲望との関連につき研究中。


   隔離タンクというものがある。ケン・ラッセル監督の映画「アルタード・ステーツ」の中で登場したことでも有名だが、要するに外的な刺激から感覚を遮断して、羊水の中に浮かぶ胎児のような状態を作り出す装置のことである。真っ暗な貯水タンクの中、全身をラバー製のボディスーツに包まれ、水にじかに接する感触もないまま脱力して水の中に浮かばされるわけだ。それにより、視覚、聴覚、触覚への感覚刺激の入力が奪われる。酸素は送られて来るが、匂いも遮断されているから結果として嗅覚、味覚への刺激も限りなくゼロに近づく。

   感覚からの入力を奪われると同時に、体を動かす自由も失うので身体感覚が消滅するとも言われている。この状態に置かれると多くの人が幻覚や幻聴を覚えるという。極端な場合は精神に異常を来たすこともあるらしい。
   感覚のコントロールというものを考えるとき、この隔離タンクは究極のコントロール、すなわち入力ゼロの状態を作りだすことになるが、この状態では人間がある意味人間でなくなるわけだし、感覚への刺激をゼロにしてしまうことはそもそもコントロールではないのかも知れない。だとすると、ゼロではなく、感覚器官が受容できる最小限の強度である閾値(いきち)から限界値より低い値の間に感覚の入力を制御することが、感覚へのコントロールということになるだろう。

   隔離タンクの実験が教えてくれたことは、われわれは常に感覚を通じて外部環境からの刺激を受け、あるいはその変化を感じとることで、自分の身体とその存在とを定位・定立しているということだろう。それがなくなると、自分の置き場を失って無意識が暴走してしまうのだ。
   すなわち、感覚という世界とのつながりの基盤がなければ、そもそも理性などというものも存在しようがないのである。感覚的なものと理性的なものを対立することのように捉える図式自体が本来成り立たないということを、隔離タンクは教えてくれるのである。対立ではなく、むしろ相互に包摂しあっているような関係が、感覚と理性にはあるはずだ。ところが、一般的には感覚への刺激の入力をコントロールするのは理性であるように考えられているのも事実である。

   われわれの日常生活を考えてみよう。感覚遮断とは対極的に、われわれの感覚は目覚めている限り常にオンになってはいる。しかし、同時にわれわれは感覚器官の限界を越えるような激烈な刺激に出会うことはほとんどないというある種の安心感も覚えているはずである。限界以上のまぶしい光を見てしまったら網膜は変成してしまうだろうし、極大の音響を聞いてしまったら鼓膜は破れる。そんなことに遭遇することはまずないと思って生きているわけだが、こうした事態は自然にそうなったのではなく、社会や制度といったものが長い年月かけて感覚への刺激量を規制―すなわちコントロールしてきた結果なのではないだろうか。

   騒音規制法は聴覚に対する刺激量コントロールの端的な例だが、音響機器などもJIS規格であるとか様々な工業規格によって制約を受けているだろうから、結果的には音刺激のコントロールにはなっているはずである。
   一方、食品衛生法などが食べ物の原料や製造方法、衛生管理などに一定の規制を加えることは味覚への入力コントロールと言えるだろうし、悪臭防止法は特定の物質のある濃度以上の排出を「違法」とすることによる嗅覚への直接的なコントロールだ。これらは、社会がさまざまな試行錯誤を経て到達した感覚刺激の量的および質的なコントロールであり、公害問題や環境問題という時代の問題意識の中から法制化されて来たものだが、その背後には制度や法律という「理性」の産物が「感覚」をコントロールするという図式がある。とは言え、最も複雑で大掛かりでありながら、それが感覚のコントロールとして意識されることの一番少ないのは何と言っても視覚に対するコントロールだろう。

   数年前暗い部屋でテレビを見ていた子供たちが「ポケモン」の画面の明滅によって気分を悪くするというような事件があった。たしかその後しばらくその人気番組は放送を自粛させられたはずだ。これなど比較的わかりやすい視覚入力コントロールの例だが、夜間の街灯の明るさから野球場のナイター照明、あるいは職場の明るさに至るまで、特に光や明るさについてはコントロールされていない視覚刺激はないのではないかと思うほどである。
   視覚への入力刺激の規制、コントロールという見方をすると、ある意味法規制のほとんどがこの範疇に入るのかも知れない。猥褻な画像を見ることを奪うポルノ関連の規制にしても、ある特定の刺激の入力を禁止するという形での視覚コントロールに他ならないし、映倫や放送コードなども同様である。そして、権力はそれに刃向かう者に対し、その罰として「見る」ことを奪うことがよくある。監獄とは行動の自由を奪うというより見えるものを限定させることで「見る」=知覚する権利を奪う装置だと言えなくもない。

   この視点から見る限り、権力だとか制度というものは、感覚をもった生身の人間への感覚刺激の入力をコントロールすることにその本質があることにもなる。いや、権力だけではない。道徳や儀礼やマナーといったものも、煎じ詰めれば感覚への入力刺激のコントロールに行き着くのだ。携帯電話のマナーモードなど聴覚刺激に対するコントロールに他ならないし、礼儀や作法も同様で、コントロールされていない刺激が不意に入力される―すなわち不調法な振る舞いを目撃すると、われわれは不快感を覚えるのである。無礼、礼儀知らず、不調法という感じ方が起こるのは、人の特定の言動という概念そのものではなく、コントロールされていない人の言動を実際に見聞きするという感覚刺激によるのである。

   ところで、今までわれわれ人間を専ら感覚刺激の入力先、言い換えれば感覚を受け取る主体として扱ってきた。だからこそ、コントロールされているのはわれわれの感覚器の外にある刺激であるとして話を進めてきたのである。しかし、われわれ自身もまた、他者の感覚器官にとっての刺激にもなりうるはずのものではないか。
   そこにいるだけで、他者の目に私は入るであろう。視覚への入力刺激になりうるのである。喋ったり歌ったりすれば聴こえ、手に触れれば触覚を刺激する。他者に食べられるというのは想像しにくいから味覚は置くとして、では嗅覚はどうか。もちろん、われわれも匂う。有機体として生命活動をしている限り、われわれもまたさまざまな匂い物質を体から発散させており、人は嗅覚刺激の客体になりうる。体臭、口臭に限らず、われわれは匂うのである。

   では、自分という感覚刺激の中で、最もコントロールの難しいものは何だろうか。明らかに、それは「匂い」だろう。視覚的には、身を隠す、マスクを被る、化粧をする、衣裳をつける等によって外観を変えられるし、聴覚的には黙ればすむ。ところが、われわれのからだから発散される匂いというのは何らかの手段でコントロールしにくいものなのである。たとえば、入社試験の面接のような場面で緊張して乾ききった口からもれ出る口臭など、気にすればするほど強くなるような気がしてさらに緊張が増すことがある。体臭も同様に気づいたからといって引っ込めることができないのである。
   もちろん、香水をつけたり、制汗剤やデオドラント製品を使うことによりある程度コントロールは出来るし、普通の生活をしていて入浴も通常の頻度であれば、それほど匂いは強くならない。それでも、日用品や化粧品の世界では体臭の抑制、すなわちボディ・オーダー・コントロールということが重要な課題になっていて、そのためのテクノロジー開発競争にもあるのだが、そのことはまさに、体からいったん匂い始めたら自分の意志でそれを止めることのできない匂いのコントロールの難しさを物語っているのかも知れない。

   どのような手段でもいいからコントロールすることが求められており、それがうまくできないと面目を失うことにもなりかねない。先ほど礼儀やマナーも実際には入力刺激のコントロールだと書いたが、日本の社会では特に「匂ってはいけない」というプレッシャーが強かった。匂いはとりわけコントロールしなければならないものだったのである。体臭や腋臭であれ、いや香水であっても、匂いによって集団の中で目立ってしまうと、それこそ「鼻つまみ者」として村八分にされかねなかった。
   こうした傾向が行き過ぎると、「無臭」が最も望ましい状態であるかのような錯覚、甚だしくは嗅覚そのものを何か余計で不必要な感覚であるかのように思いなす風潮さえ生まれかねない。感覚のコントロールのためには、人間の感覚への刺激量を制御できるという前提があるのだが、匂いが制御できないならゼロにしてしまえというわけである。常に脱臭剤がばら撒かれ、活性炭により無臭化され、かつ無菌化された酸素の中で暮らすことを理想とするような、SFチックな究極の姿さえ悪夢のように思い浮かべることができる。みずから望んで嗅覚限定の「隔離タンク入り」を志願しているようなものであろう。つまり、無臭化を目指すというのは、隔離タンクがそうであったようにある意味で感覚コントロールの放棄であり、それはまさに人間であることの放棄に他ならないのである。

   以上、社会の制度や法律、果ては慣習や心性といったものが、具体的には感覚への刺激の入力をコントロールする形で働いているのではないかということを見てきた。ただし、私は感覚へのコントロールが悪いと言っているわけではない。それのない社会というのはもはや考えられないだろうし、コントロールを放棄して無臭化という極論に走るよりはコントロールのあるべき姿をこそ探し求めていくべきではないかと思っている。その一方で、感覚への入力コントロールという視点から、われわれの身の回りの法律や制度といったものの成り立ちや意図を見直してみる必要があるのではないかとは思うのである。中には、何故この感覚刺激をコントロールしているのか、本来の意味が失われているのにそのまま残っているようなことがあるような気がするのだ。そして、嗅覚や匂いの問題が垣間見させてくれたように、コントロールできない感覚刺激もあるという前提に立たないと、さまざまな問題が起こりうるということはきちんと認識しておくべきことのように思えるのである。

   隔離タンクに入って生きていくこと、すなわち入力をゼロにすることはできないが、いやだからこそ、われわれは実際には何か別の力で自分の意志と関わりなく入力をコントロールされているということに意識的になるべきだろう。目に見えないコントロールの結果としての括弧に入った「刺激」の入力の結果としてしか我々の感覚がありえないということであり、野生の感性だとか動物的な感性などといったものは通常の社会に暮らす人間にもはやありえないのである。少なくとも、単に五感の復権や五感の活性化を叫ぶだけでは解決できないより深い問題があることに気づく必要はあると思うのである。

(了)



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