ときどきテレビの生放送番組でコメンテーターをする機会があるのだが、知人によく「ああいう場合って、どれくらい打ち合わせをするんですか? 発言って、かなりコントロールされているんですか?」ときかれる。
実は、どの番組でも打ち合わせはそれほど細かく行われない。ある報道系番組の場合は、開始30分前から簡単にその日の流れの説明を受け、あとはスタジオ入りする10分前まで雑談タイム。どのニュースに誰がコメントするか、といった役割分担さえ行われない。「こういった発言はご遠慮ください」と事前に言われたことも、一度もない。
ところが、それでもスタジオでは、“適当な人が適当なときに適当なことを”うまくコメントして番組は進む。たまに議論が紛糾してしまったり、「ただいま不適切な発言があったことをおわびします」と司会者が謝らなければならなかったりする場面もゼロではないが、事前の打ち合わせの薄さを考えれば、驚くべき少なさと言えるだろう。
これはいったい、どういうことなのか。最初から、まさに“適材適所”と言うべきコメンテーターが選ばれているのだろうか。それは違うと思う。生放送のスタジオにはある種の無言の圧力が働いており、それを敏感に察知したコメンテーターたちは、だれに命ぜられるともなく、自分に期待されている発言を口にしてしまうのである。
私自身も、たとえば私以外のコメンテーターは全員、年配の男性というときなど、知らないうちに“若者の味方”の役を演じていることもある。また、保守派の論客がその人だけ、という場合など、打ち合わせのときには「この政治家、ウラで何を考えているかわからないですよ」と言っていた与党の議員に関して、本番では「クリーンなイメージで国際的な人脈も豊富、おおいに期待できますね」などと真剣な表情でコメントする姿を幾度となく見てきた。おそらく私も彼らも、自分の保身や利益のためにそうしているというよりは、スタジオに漂う何かの力に自らすすんで管理されているのだ。
管理されたい。支配されたい。自我を持った人間なら、自分に被管理欲求、被支配欲求などがある、と言われたら否定したくなるだろう。しかし最近、この欲求は確実に存在し、私たちの社会に無視できない影響を与えているのではないか、と思う場面が増えてきた。
たとえば卑近な例では、大学で講義をしているとしばしば「出席を取ってほしい」と言われる。私は講義では出席を取らない主義なのだが、学生たちに言い分をきくと「出席もしていない人が単位を取るのは許せない」「出席を取ってもらったほうが自分も休まなくなると思う」といった声があがる。それに対して、「休んでいる人が単位を取ろうと落とそうと、あなた自身が取れればいいじゃない。それに、出席を取らなければ出たくないような授業なら、はじめから出ないほうがあなたのためだと思うよ」と答えると、次にはこんな意見が出る。「やっぱり出席をきちんと取ってくれたほうが、授業という感じで安心できる。」
つまり学生たちは、管理されること、支配されることで、自分が何かのシステムに組み込まれている、というとりあえずの安心感を得ることができるのだ。逆に考えれば、ききたい人だけが集まって自由な雰囲気の中でいろいろ意見を交わす、といった授業形式では、自分で自分をどう扱っていいのかわからなくなり、不安を覚えるのだろう。「授業への出席を義務づけられ、授業中はおとなしく教員の話を聞いていなければならない学生」という役割、立場を割り振られることで、はじめて「私はこの大学の学生なのだ」と自分を確認することが可能になるのだろう。もしかすると彼らは、大学案内の表紙などによくある「学生たちが目を輝かせて教員の話に聞き入る授業風景」の中のひとりを演じたがっているのではないか。
考えてみれば、コメンテーターも同じようなものだ。Tシャツなどの自由な服装のときに「さあ、好きなこと言ってみて」と言われたらおそらく何も答えられない人でも、それなりのスーツやジャケットを着せられ、円卓に座らせられて、「この事件、いかがですか? ○○さん」と司会者に声をかけられたら、瞬時に顔を曇らせながら「同じような子を持つ親としてまったく許しがたいことですね」とそれなりのことを答えてしまうに違いない。それは、いつかどこかで見た「情報番組のコメンテーター」を思い出して、その通りに再現しているだけなのである。そして、もはや言うまでもないことだが、本物のコメンテーターさえもやはり、「どこかで見たコメンテーター」になりきり、それらしい振る舞いをして見せているだけなのである。
精神分析学者のH.ドイチェは、カメレオンのようにその場に自分を合わせて人格構造を作り変えてしまう病理に、「かのような人格(as-if personality)」という名前を与えたが、今や「かのような人格」として振る舞い続けることは、病理ではなくて一種の適応なのかもしれない。そして人は、「かのような人格」であるためにはその場ごとに管理、支配といったルールが必要であると感じ、自らそれを求めているのではないだろうか。
マイクを向けられ、「消費税値上げ? これ以上、生活が苦しくなるのはまっぴらです」と答える主婦や、「軍隊? 必要じゃないんスか? 北朝鮮が攻めてきたら困るし」と答える若者。彼らも、おそらく「専業主婦や右傾化する若者っぽくお願いします」と言われているわけではないのに、自分に期待されている役割をいち早く察知し、すぐに人格ごとその状態になりきって、そしてインタビュアーが望んだとおりの発言をしているのだろう。そしてそうすることで、無言の管理、支配が唯一のルールである「かのような人格ゲーム」をうまく乗り切った、というある種の達成感、満足感を味わっているのだと思う。
とはいえ、いくら「かのような人格」であろうとしても、そのモデルが頭になければ演じることもできない。そのモデルを人々に供給し続けているのは、テレビであることは間違いない。「『金八先生』に出てくる生徒」「『白い巨塔』に出てくる医者」「『結婚できない男』に出てくる都会のシングル男性」など、そのときどきのステレオタイプが私たちの頭にすり込まれ、似たような設定が与えられるとプロデューサーもいないのにすぐにその役になりきってしまう。それが「かのような人格」であるという自覚があればまだよいが、ほとんどのケースで自分は“それっぽく”しているだけだという意識すらなく、「これが私らしさなのだ」と思い込んでいる人さえ少なくない。
それにしても、一般の場合、管理、支配にはそれなりの目的があるはずだが、誰もが「かのような人格」として振る舞うように管理、支配している“何か”の目的は、いったい何なのか。いや、この場合、その“何か”が何であるかもはっきりしないので、その目的をつきとめることは不可能だ。とはいえ、人々が誰にもそう言われていないのに、自発的にそれぞれが役割分担し、“それっぽい人”として演技を続ける劇場社会は、リーダーたちにとってもコントロールしやすい社会であることは間違いないだろう。「犯罪者人格」や「反体制人格」などを演じる人が出てこないかぎり、常識を著しく逸脱する人は出てこない。また、管理、支配になれている彼らは、リーダーたちが何か仕組んだときにも従順にそれを受け入れることを苦にしない。
どこにもないはずの脚本を必死に演じ、「それ通りにできた」と無邪気に喜ぶ私たち。自らすすんで「ルールがほしい。管理、支配されたい」と願う私たち。「かのような人格」を持った人たちは、早晩、自分の空虚さに気づき、精神的破綻を起こすことをこの概念の創始者であるドイチェは指摘した。現代の「かのような人々」は、どうなのだろう。私自身は、番組のコメンテーターとしてつい期待されている意見を無難に言ってしまった後は、かなりの空虚感に襲われる。
とはいえ、まだ精神的クラッシュまでは起こすことなく、スタジオという管理された世界に居座り続けている。そろそろ、「本当に言いたいこと」を言うべきときがやって来ているのかもしれないが、そうしたらもう次はなくなるだろう、というジレンマがある。たとえそれ一回きりになっても「かのような人格」を脱ぎ捨て、管理や支配とは関係のないところで発言を試みるべきか。それともこのままの「かのような」を続けながら、少しずつ管理から解放されるすべを探すべきか。社会同様、私自身も分岐点に立たされている。
(了) |