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塩の博物誌

塩業資料室の資料紹介

<第24回> 江戸時代の塩 

   


   江戸時代、塩業は海岸沿いの多くの地域で行なわれていた。近世に入浜式塩田が発達してからは生産量が増加し、なかでも自然条件等に恵まれた瀬戸内海地域において盛んであった。大坂や江戸の中央市場が成立すると、船による大量運搬が可能となり、生産地周辺だけでなく各地に運ばれるようになった。それと同時に、塩を運ぶ‘塩の道’も栄えた。塩や塩魚の陸路輸送には、通常、牛を使っていたが、冬期の豪雪で牛による輸送ができないときは、歩荷と呼ばれる人たちが背負梯子に荷をつけてこの道を通った。

   塩は生活必需品であるため、専売制の対象となりやすく、各地で藩による塩の確保が行なわれた。仙台藩や加賀藩では、藩内での塩の自給を目的とした塩専売制を幕末まで実施していた。しかし、これらは数少ない成功例である。多くの藩は、塩問屋などからの統制に対する強い反発にあい、藩が直接独占することは困難であった。
【参照:第18回「江戸時代の塩の専売制」



塩の製造方法

   直接海水を煮詰めると膨大な燃料を必要とするため、日本の塩作りは、古来から、海水から濃い塩水を作り出す工程と、それを煮詰める工程の2段階の工程を経ている。前工程の役割を果たす塩浜は、大きく分けて以下に示す3形態があった。後工程は、どれも主に塩釜とよばれる釜で濃い塩水を煮詰めて塩を結晶化していた。

<揚浜式塩田>
   人力で海水を汲み上げて塩田まで運んで撒き、太陽熱と風の力によって水分が蒸発して塩分が砂に付着するのを待ち、この砂を集めて付着した塩分を海水で溶かして濃い塩水をつくる方法。 この方法は、人力によるところが大きく、大変な重労働であった。

<入浜式塩田>
   遠浅の海岸に塩田面を築き、満潮時に海水を防潮堤防で区切られた塩田の溝に入れ、地表に撒いてある細かな砂に海水を浸透させ(毛細管現象)、太陽熱と風の力によって水分が蒸発して塩分が砂に付着するのを待ち、この砂を集めて付着した塩分を海水で溶かして濃い塩水をつくる方法。これにより海水の5〜6倍の濃厚な塩水を得ることができた。

   この方法は、17世紀前半ごろに成立した。人力ではなく潮の干満差を利用するため、揚浜式塩田と比較して少ない労働力で済み、生産力が高い。そのため、潮の干満差が大きく波の静かな地域に広がっていった。特に瀬戸内海地域は有名である。

   この方法が揚浜式塩田に代わって製塩法の主流となり、揚浜式塩田は、潮の干満差が小さい日本海側と太平洋の外海に面した波の荒い海岸(能登半島など)で見られるにすぎなくなった。

   個々の塩浜面積は一反(約990平方メートル)程度であったが、整備・拡大されて、一町(=10反)から一町五反となった。塩浜を持ち、釜屋なども整備された作業単位を一軒前と称し、塩浜の経営主である浜主が浜子を10人程度雇い入れて塩を製造していた。

<自然浜>
   入浜塩田の先駆的な形態であり、瀬戸内海地域以外の塩浜の多くで行なわれた方法。

   なお、当時の塩は苦汁を多く含んでいたため、苦汁を除去するのに様々な工夫がなされた。一例として、素焼きの土器に粗塩を入れて焼いた焼塩がある。



塩の産地

   いろいろあるが、ここでは瀬戸内と行徳を紹介しよう。

<瀬戸内>
   自然・地理的条件に恵まれた瀬戸内海地域では、潮の干満差を利用する入浜式塩田が成立し、盛んに開発された。元禄ごろに全国の塩生産高のおよそ50%、幕末には85〜90%を生産し、瀬戸内海沿岸10カ国の塩は「十州塩」と呼ばれた。この塩は、江戸・大坂をはじめ、北国・蝦夷地など全国に送られていた。

<行徳>
   潮の干満差が大きい江戸湾岸に位置している。近世前期以来、軍事物資としての塩の確保を目的として、江戸幕府はこの地で保護政策をとった。徳川家康、秀忠、家光の三代にわたり行徳塩浜に対する事蹟を紹介し、この地の重要性が指摘されている。近世を通じて年貢の1/4を現物納として江戸城御舂屋へ納めており、近世中後期以降も、江戸の消費を賄う場として存在した。

   『辞典 しらべる江戸時代』に、<瀬戸内>と<行徳>の塩田比較がのっている。塩田形態、生産性、負担のあり方など比べてみるとなかなか面白い。
東と西の塩田
項目
関東(行徳塩田)
瀬戸内(竹原塩田)
開発時期 近世初期から。上総国五井から伝わる 慶安3年(1650)、赤穂へ行き技術を学ぶ
塩田形態 自然浜 入浜塩田
負担の有りかた 4分の1塩4分の3代金納と、現物納と金納 定額運上(銀納)
生産性 低い(1町歩相当378石) 高い(1町歩相当770石)
販売先 江戸近郊という立地条件を生かし江戸 北前船を利用して新潟など北国
作業単位面積 3反から6反程度 1町から1町5反
塩浜の構成 行徳領塩浜付村々(領を単位に海付けの村々が連合) 竹原塩浜と独自に行政村(塩浜村落)を形成
釜の利用 共同利用 作業単位ごとに釜屋を装備
燃料 萱を中心として薪炭(石炭は近代以降) 薪炭で近世後期には石炭
塩浜の従事者 基本的に家族労働(ただ、近世を通じて半農半塩から専業化していく) 浜子を雇傭

出典:『辞典 しらべる江戸時代』



塩の価値

   「諸色相場付」(天保9・1838年)によると、塩の価格は一升25文であり、白米の一升102文の約1/4である。現在と比較して相対的にやや高価であった事が伺える。 商品取引の帳簿には、品名である‘醤油’や‘砂糖’、‘酒’などが列記される中、塩は、‘斎田’、‘竹原’などの産地名で記載されており、この時代において産地を特定できる数少ない商品であった。江戸では、瀬戸内産の「下り塩」が長く高級品とされていた。



塩の用途

   全国の塩生産量は470万石であり、その用途は、調味用25万石、醤油・味噌など食品加工用約91万石、漬物・塩魚など食品保存用約245万石、農・鉱・窯・皮革などに約10万石、その他(祭祀・角力・医・防腐など)に約5万石、消費段階までの目減り約94万石(約20%)と推算される。食品関係で約77%も占めていた。



調味料としての塩

   塩は、全ての味のベースとして重要な物資であり、調味の加減を表す「塩梅」という言葉からもわかるように、古来、基本的な調味料は塩と梅酢であった。江戸時代にはいって、様々な調味料が普及したため、塩は直接の調味料としてより、漬物、味噌、醤油の原料として大量に生産・消費されるようになった。広山堯道氏の試算によると、江戸時代末期における全国の塩生産量470万石のうち、醤油醸造用約33万4000石、味噌用49万4000石、漬物用125万石となっている。



Webマガジンen編集部



参考文献

『辞典 しらべる江戸時代』
『日本歴史大辞典 2 』
『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』
『ビジュアル百科 江戸事情 第二巻産業編』



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