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コラム:コントロール


   いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。


岡本氏写真
「リベラルな優生学」と「コントロール」の未来

岡本裕一朗

おかもと・ゆういちろう − 1954年生まれ。玉川大学教授。専攻は哲学・倫理学。ヘーゲル以降の近・現代思想を研究し、現在は「モノ化するヒト」をテーマに執筆中。
著書に『ポストモダンの思想的根拠――9・11と管理社会』、『異議あり!生命・環境倫理学』(ともにナカニシヤ出版)、共著に『差異のエチカ』(ナカニシヤ出版)、共訳にネーゲル『哲学ってどんなこと?』(昭和堂)など。


   コントロールという言葉を聞いて、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。もしかしたら、カルト教団の「洗脳(マインドコントロール)」や国民をがんじがらめに束縛する「管理(コントロール)社会」かもしれません。じっさい、「コントロール」が問題になるとき、しばしば支配や抑圧といった否定的文脈で語られています。しかし、そうだとしたら、こんにち「コントロール」について、ことさら論じる必要は感じられません。特殊な宗教団体の手口か、すでに過ぎ去った全体主義の政治のように見えるからです。はたして、こうしたイメージだけで「コントロール(管理)」を考えていいのでしょうか。
   たとえば、何か製品を購入するとき、私たちは材料や製造工程に対して徹底した管理(品質管理)を求めるのではないでしょうか。あるいは、マンションに住む場合、ズサンな管理よりも、しっかりしたセキュリティを選択することでしょう。また、会社や組織では、顧客の個人情報をきびしく管理することが、重要な課題になっています。そもそも、自分の感情をコントロールできない人は、社会生活が困難ではないでしょうか。
   このわずかな例から考えても、管理を最初から否定的に評価することは、慎まなければなりません。管理は必要であるだけでなく、望ましくもあるのです。とすれば、私たちはいま、「コントロール(管理)」をどう理解したらいいのでしょうか。


BT革命の未来

   ここで、現代的な「コントロール」を理解する手がかりとして、20世紀末に進展した「BT(バイオ・テクノロジー)革命」に注目してみましょう。「体細胞クローン技術」、「ヒトES細胞の樹立」、「ヒトゲノム計画の完了」といった遺伝子工学の発展によって、遺伝情報の読みとりや人間に対する遺伝子操作が現実化し始めたことは、ご存知だと思います。
   たとえば、人間の寿命を延ばしたり、生まれつきの遺伝病を治療したりすることも可能になる、と予想されています。他人から臓器を提供してもらわなくとも、自分の体細胞を使って拒絶反応のない臓器がつくりだせるかもしれない、と期待されています。
   それだけにはとどまりません。業界の宣伝によれば、受精卵の段階で、遺伝子を付加したり、改変することによって、生まれてくる子どものスタイルを良くしたり、美人の子どもをつくることも可能になります。あるいは、運動能力や知的能力を高めたり、芸術的才能を生みだすこともできるのです。
   現在は美容整形が流行していますが、そのうち人々は受精卵の段階で遺伝子を組み換え、美容的な治療を施すかもしれません。遺伝子を改変してIQの高い子どもを生めば、苦労して塾に行かせる必要もなくなるでしょう。現在の状況から考えると夢のような話ですが、BT革命はこの方向を明示しているのではないでしょうか。



「リベラルな優生学」の到来
   こうしたBT革命は、ある意味では「優生学の実現」と見なすことができます。すでに導入されている「着床前診断」を考えてみましょう。体外受精によって作製した受精卵を遺伝子検査して、先天的な障害や遺伝病などを見つけるのですが、この方法にしたがえば、ナチスの優生政策よりもっと効率的に、人間の選別が可能になるでしょう。
   しかし、だからといって、いま進行している出来事を「優生学の復活」とか「民族衛生学の再来」と見なすことは、誤解を招くことになります。20世紀前半にブームとなった「優生学」とは、社会的機能がすっかり変わったからです。
   かつての「優生学」は個人とは異なる組織、たとえば国家などが、個人に対して監禁や断種、さらには殺害などを実施したのですが、いまは違います。むしろ、優生学的実践は、個々人が自由な選択にもとづいて遂行するのです。さきほどの着床前診断についていえば、この検査を望むのは親となるカップルですし、彼らの個人的判断によって受精卵の選別・廃棄が選択されるわけです。
   「古い優生学」は集団的なもので、個人を強制する国家政策でしたが、「新しい優生学」は個々人の自由な選択を原理としています。したがって、この「リベラルな優生学」には、「国家的強制」対「個人的自由」といった分かりやすい図式が使えません。いまどきの優生学は、恐るべき強制というよりも、むしろ個人的自由を実現するのです。とすれば、「リベラルな優生学」では、「コントロール」は存在しないと言うべきでしょうか。


親の自由、子どもの管理
   いままで「管理社会」をイメージするとき、「古い優生学」が一つのモデルと見なされてきました。国民の遺伝情報を家系にさかのぼって調べ上げ、劣等だと見なされる人々を執拗に追跡して、社会から徹底的に排除していくわけです。
   ちょっと刺激的に、商品とのアナロジーで言ってみれば、「国民の品質を管理するために、厳格な検査体制を構築し、欠陥者を見つけ出して除去する」とでも表現できるでしょうか。ぞっとする言い回しですが、優生学的管理の基本的発想だと言えるでしょう。ところが、「リベラルな優生学」は国家的強制を認めないのですから、同様に考えることはできません。
   着床前診断であれ、受精卵の遺伝子治療であれ、それを選択するのは当事者である個人やカップルです。目や髪の毛の色、スタイルなどの身体的特徴、運動能力や知的能力、性格のような心理的特質――こうしたことが受精卵の遺伝子操作で選択可能になった場合、選択する主体はあくまで親となる個人であり、国家など第三者の権力が個人に強制するわけではありません。とすれば、「リベラルな優生学」に対して、「コントロール」を語ることはできないのでしょうか。
   注意したいのは、個々人の「自由な選択」というとき、自由であるのは選択する親の方であって、選択される受精卵(可能な子ども)ではない点です。たとえば、いま手軽に実施されている「男女生みわけ」を考えれば、一目瞭然ではないでしょうか。親が子どもの可能な質を決定するのですが、これは構造的には「国家が国民の遺伝的質を決定する」のと同じです。簡単にいえば、親が子どもの品質を管理するわけです。
   決定する主体と決定される客体は非対称的関係であり、国家の役割が親へ移ったにすぎません。選択される「可能な子ども」にとっては、同じ穴のムジナかもしれません。もちろん、国家の強制か親の意思かでは手法も違いますし、生身の人間を抹殺するのと受精卵を廃棄するのでは残酷さも異なります。それでも、生存の可否を、国家や親という第三者が決定するという意味では、まったく別物だと考えることはできません。


親の管理、国民の管理
   もっとも、コントロールされているのは、(可能な)子どもだけではありません。親の「自由な選択」について再考してみましょう。おそらく、フロイトの「超自我」の理論をわざわざ持ち出さなくとも、親の意向が社会的な価値基準としばしば一致することは、承認されるのではないでしょうか。
   親の「自由な選択」といっても、「社会的要請」と対立するわけではありません。学歴社会であれば、親は子どもに高い知的能力を求めるでしょう。社会的に蔑まれたものを、わざわざ選択する親はいないはずです。そうだとすれば、親は国家の出先機関のように考えることもできます。つまり、親の自由な決定そのものが、すでにコントロールされているのです。
   さらにいえば、コントロールされるのは、親の意向だけではありません。個人やカップルが優生学的選択をする場合、自分たちの遺伝情報を登録する必要があるからです。そのため、BT革命の進展とともに、膨大な遺伝情報が収集されることになるでしょう。やがては、遺伝情報に関する国民全体のデータベースが構築されるのではないでしょうか。じっさい、アイスランドなどでは国家的プロジェクトとして、この方向が進められています。
   国民全体の遺伝情報の管理が、はたしてどこまで実現するかは分かりませんが、BT革命が発展するためには必須のことでしょう。なぜなら、DNAの塩基配列が解読されたあと、今後の発展のためには遺伝子を特定し、病気や容姿、運動能力や知的能力などとの対応関係を解明すべきですが、そのためには多くの人々の遺伝情報や生活情報が必要になるからです。
   そうだとすれば、「リベラルな優生学」はコントロールを必要不可欠にしている、と考えなければなりません。個々人の自由な選択によって、多様な管理が形成されていくのは間違いありません。


管理の欲望

   しかし、「コントロール」が広範に構築されていくからといって、即座に悪いことだと決めつけることはできません。親が自分の子どもにより高い能力を期待するのは、ごく普通のことでしょう。遺伝子の改変によって安全かつ確実に可能であれば、たくさんの人々が欲望するのではないでしょうか。
   また、BT革命は企業にとっては、利益獲得のまたとないチャンスでしょう。バイオ産業は巨大化し、研究競争は熾烈をきわめています。この流れに乗り遅れた国は、政治的にも衰退するのではないでしょうか。だからこそ、着床前診断を禁止し、BTにあれほど禁欲的だったドイツでさえも、方向転換を余儀なくされているのです。経済的にも、政治的にも、BTは中心的な役割を演じ始めています。
   とすれば、生命に対する管理が、個々人の欲望をつき動かしながら、今後ますます強大化していくことは間違いありません。それにもかかわらず、このコントロールのどこが問題なのか、明確ではないのです。「コントロールを拒否すれば問題が解決する」というほど簡単ではないと思います。
   ナチスに荷担し、戦後のテクノロジーの時代を生きたハイデガーの言葉(『シュピーゲル対談』)は、このコラムの問いでもあります。

   今日私にとって決定的な問いは、この技術の時代にいかにして一つの――そしていかなる政治組織が伴いうるかという問いです。この問いへの答えを私は知りません。

(了)



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