ありあまるほどの情報に囲まれて、われわれの想像力や判断力はか細く貧しくなってはいないか。そもそも話題や興味が一元化し、あれかこれか、好きか嫌いか、いいか悪いかといった結果だけに関心をもつような気分が蔓延している。しかも、対極にあるはずの二項間をたいした思慮もなく往来すらするのだ。
思えば、ライブドア事件がそうだった。ついほんの前までTV、ラジオ、新聞、雑誌といったメディアがホリエモンを取り上げもてはやした。ところが急転直下、バッシングに転じフクロ叩きにする。村上ファンドにしろ、中田の現役引退にしろ、その異常ともいえる加熱報道それ自体がニュースのリソースになる。そして、突如巻き起こる嵐のような攻撃や蔑み。メディアが多様化し多重化したのとまったく反対に、人びとの関心の持ち方は画一化し単純化の方向へ向かっていく。極端な短絡思考に陥っていると言える。しかもこの傾向は、とりわけ今日の日本に顕著なように思われる。それこそが現代のメディア社会の実相だとしたら、われわれはこの事態をどう受け止め向き合えばいいのだろうか。
過剰な情報がかえってわれわれの精神を貧窮に追いやっているのではないか、そう述べたうえで現代社会を「象徴の貧困」という概念から捉え、解読、分析しようとしているのがフランスの哲学者ベルナール・スティグレールである。本書は、スティグレール思想の核心となる「象徴の貧困」について語り下ろされた著者の単著としては初の邦訳である。「象徴の貧困」をキーコンセプトに、現代社会を覆い始めた新たなる精神の貧窮の元凶を告発し、そこからの離脱の道を模索する。
現代をポストモダンと称したリオタールに対して、「われわれは近代(ルビは“モダン”/筆者注)と訣別してはおらず」むしろ「あらゆるものがインダストリアル化していく」「ハイパーインダストリアル時代」を生きているとスティグレールは言う。ハイパーインダストリアル時代においては、「支配力を持つのはもはや起業家−生産者ではなく、日常生活を機械化することで意識と身体の時間をコントロールするものとしてのマーケティング」であり、われわれはそのマーケティングの下で、皆等しく消費者にさせられてしまう。
「象徴の貧困」とは、「シンボル(象徴)の生産に参加できなくなったことに由来する個体化の衰退ということである。ここでのシンボルとは知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。そして個体化の衰退が広まった現状は、象徴的なものの瓦解、すなわち欲望の瓦解を引き起こすにちがいなく、言い換えればそれは、厳密な意味での社会的なものの崩壊、つまり全面的な戦争状態へと至る」のである。「われわれに今日あらゆる恥じる心を失わせている戦争とは経済の戦争」であり、「この経済は欲望と情緒を失わせ、そこで動員される武器はマーケティングによって操作されている。〈マーケティングは今や社会のコントロールの道具である(ドゥルーズ/筆者注)〉」。
スティグレールの言い回しはいささか難渋すぎる。重要な指摘をしているのだが、彼自身の言葉をいくら読み返してみても、その核心部分はなかなか見えにくい。それにひきかえ、翻訳者があとがきに綴った解説は大変にわかりすい。「象徴の貧困」の説明をそのあとがきから引用しよう。
「〈物があふれているのに心が満たされない〉と皆が口にしながら、そこから一歩も進めないのはなぜなのか。それは現在の資本主義が、まさにその不満、その惨めさを搾取するからである。〈本当の自分〉〈私らしさ〉を求めようとする人に、市場はすかさず〈あなただけの〉〈特別な〉〈限定の〉商品を差し出してくる。その際、映像や音響という、意識の時間にごく自然に滑り込んでくるメディアによって、〈この製品を使えばなれる未来の自分〉の像が、消費者の中に投影されるのである。このようなかたちで駆り立てられる消費活動は、実は欲望の規格化であり、それを繰り返すうちに消費者は徐々に、予定通りのものを望み、予定通りの行動をするようになっていき、結局ますます自分らしさを失っていく」。「現在の消費社会は、私らしくありたい、人とつながりたいという欲望を〈ニーズ〉にすり換え、それに対していとも短絡的に答え(商品)を与え続けることで、その欲望を殺し、その結果、象徴的活動――〈個〉となるための実践の可能性を奪っていくのだ」。
「象徴の貧困」が何をもたらすのか。精神という資源を枯渇させるのである。そして、「象徴的なものが欠けた社会は、自分になり損ねた者の生きづらさが充満し、欲望になり損ねた欲動(欲望とは欲動の社会化である)がいつ誰のもとで破裂するかもわからない、きわめて危険な社会になっていくであろう」。
今われわれがしなければならないことは、「持続可能な欲望を生み出せるような、技術・産業・経済・政治の在り方を模索することである」。
スティグレールは、1952年生まれ。INA(国立視聴覚研究所)副所長、IRCAM(音響・音楽研究所)所長を歴任、現在はポンピドゥー・センター文化開発ディレクター。過去に政治的理由によって決行された銀行強盗に加わり、78年から83年にかけて投獄を経験する。スティグレールが哲学と出会い哲学者を志そうと決めたのは、この投獄期間中だったという。獄舎は、ある意味で情報が極端に貧しい空間だ。その貧しい空間ゆえに豊穣な思考が醸成されたとしたら、なんという皮肉だろうか。情報量が多いということが情報の質の高さを意味しない。「象徴の貧困」という逆説。スティグレールはおそらくそれを、獄中で身をもって体験したのだろう。まさに、アルテポーベラ(貧しい芸術)が生んだ成果である。
|