言語を授かる日と、味覚を授かる日のどちらが先にやってくるのか? その偶然も含んだ顛末こそが、人類を大きく二つの部族に分けることになる、決定的な宿命であったにちがいない・・・。そう私が直観したのは、フランスの哲学者ミシェル・セールの著書『五感』(原著1985,邦訳は法政大学出版局1991)が与えてくれた洞察によるところが大きかった。そこでは、1947年もののシャトー・ディケムを愛でるある女性が、極上のワインによって彼女の舌が味覚に向けて目覚めた日のことを、彼女の二度目の聖体拝領になぞらえている。いうまでもなく、彼女を含めた一般のフランス人にとって、最初の聖体拝領とは神の言葉がやって来て、最初の舌=口を彼女に授けた日のことである。フランスの幼い子供たちは、味覚という舌を文化的獲得物として与えられる前に、すでにカトリックの儀礼を通じて、神の言葉として結晶化された言語意識の種子を、彼らの舌に蒔かれるのだ。舌はまず、言語の舌として震えはじめる。セールは書いていた。
ことばは、女王然として、そのパレ(=宮殿=口蓋)に君臨しており、言語(ラング)は唇と舌(ラング)の上に全面的に君臨している。尊大に、排他的に君臨している。・・・堂々たる雄弁、もっとも響きのよい詩、もっとも呪術的な歌、もっとも活発な対話は、青銅もしくは鋼のような口蓋をもたらし、セロのような共鳴箱を授けるが、しかしこうした弦や金属は、かぐわしい花や、樹皮や土の芳香、じゃこうや皮膚の強い香気に無感覚であり、さらに悪いことには、それらを追い払う。ことばは、・・・ことば以外のものに対する舌の目覚めを阻害する。
西欧人の場合、これはほぼ普遍的な真実であろう。そしていまや、現代の文明社会を生きるほとんどの人間も。つまり、まず言語を自明のものとして授かり、つぎにあるとき、味覚を授かることによって、舌のもう一つのあり方を発見する、という宿命である。その第二の舌の出現は瑞々しい喜びにあふれてはいるが、すでにその味覚の経験が、言語意識によって完璧に統率されていることもまた、私たちはどこかで知っている。第二の聖体拝領とは、その意味で、言語の舌への抵抗ではなく、その呪縛からの束の間の逃避の謂でもあったことになる。
だが、言語を意識的なものとして授かるまえに、肉体器官としての舌の渾沌とした感触を知ってしまう人々もいる。神が、聖書のような言葉の結晶体としてではなく、まさにじゃこうやかぐわしい花の香気のなかに棲んでいると信じるような社会に生まれた、一群の人々である。日々の常食のトウモロコシや鹿肉のなかに精霊が潜んでいると教えられるような子供たち。彼らは、おそらく、味覚という神秘を舌の先にまず感じとり、そのうえで、抽象化されることのない日常言語の舌がゆっくりとその精霊の舌に重なってゆくようなかたちで生きてきた。そんな場所では、言葉は暴力的な力を持つことがない。いや、言葉が暴力として機能するまえに、言葉を渾沌の舌へと、精霊の世界へと、突き返してやるメカニズムが、集団的に働いているといったらいいだろうか。だがこうした鳥たちや昆虫たちと共有された声調言語の世界は、いま地球上から消え去ろうとしている。
セールの結論はこうなる。
なぜこれほど明確に、与件は言語によって言語のなかでしか与えられないと、私が言うことができるのか。それは、口のなかで言語が味覚を抹殺してしまうからなのだ。
西欧的な言語認識論の限界において、これは真実にはちがいない。だが、そうであれば、ワインのコクを愛でる舌の陶酔は、束の間の飼いならされた抵抗でしかなく、自由な舌の叛乱は永遠に封殺されてしまう。第二の舌、美しき味覚の舌の出現を押さえてでも、人間が守り通すべき矜恃というものが、倫理というものがあるのではないか。そのとき、それは、無言の、一見凶暴な仕草のなかで開示されるような、一瞬の舌の反逆であるのかも知れない。野性の舌の背後に隠れた、瞬時の、苛烈な頭突きのような、究極のヘディングのようななにものかの飛翔・・・。
黄昏のペールエールの傍らで、私が先ほどからページを繰っていたのが、新刊の、ロシアの映像作家アンドレイ・タルコフスキーのポラロイド写真を60葉ほど集めた写真+テクスト集『瞬間の光』(Instant Light: Tarkovsky Polaroids. London: Thames & Hudson, 2006)である。70年代終りから80年代初めにかけて、タルコフスキーが熱中したポラロイド写真の淡い陰翳ある真四角のイメージ群が、私の目を、時の無慈悲な流れから救い出し、この「瞬間」の驚くべき充満へと釘付けにする。瞬間の光が、消えかけながら、だがたしかにそこにはフェルメールの影のようにして、生き残り、生まれ直している・・・。エールの泡に酔いかけた私の舌もまた、そのとき、瞬間の舌として、新しい未発の言葉を呼び出すことができないだろうか・・・。
思索の時が去り、語り合う友や家族も柔らかな酔いで舌にかすかな痺れを感じとってふと沈黙する。そんな瞬間が数回訪れたら、舌の渇望は去って、腹が鳴りだすはずだ。そんなときには贅沢な食事など少しも要らない。舌はもう充分に熟れて快い疲労のなかで眠りを欲しているからだ。昨日のあまった御飯を冷蔵庫からとりだし、タコの切れ端をきざんで塩とパプリカとで焼き飯を作ればいい。色がほしければ、レタスを細かくきざんで入れてみる。中華鍋を強火にして米をパラパラに炒めさえすれば、これほどのご馳走もない。
タルコフスキーのポラロイド写真の青白い残像だけが、いつまでも私の舌の先にこびりついてはなれない・・・。
<次号につづく> |