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リングア・フランカへの旅――〈自由な舌〉を求めて


   食べることと話すことは、舌という器官を媒介として直接結びついています。そして、食の舌と言語の舌は、時に反発し時に癒着しながら、人類の感覚と思惟を巡る歴史を生み出してきました。この歴史の消息を読みとく旅――人類学者の今福龍太氏による連載です。


今福龍太氏写真

第5回 瞬間の光、瞬間の舌

今福龍太
いまふく・りゅうた − 1955年東京生まれ。東京外国語大学大学院教授。文化批評家、人類学者。
東京大学法学部卒業後、テキサス大学大学院博士課程を経て、メキシコ国立自治大学・中部大学・慶応大学SFC・カリフォルニア大学サンタクルーズ校・札幌大学などで教鞭をとり、2005年4月から現職。サンパウロ・カトリック大学コミュニケーション・記号学部客員教授を兼任。同時に、キャンパスの外に新たな遊動的な学びの場の創造を求め、2002年より巡礼型の野外学舎である「奄美自由大学」を主宰。著書に『クレオール主義』『移り住む魂たち』『移動溶液』『ここではない場所―イマージュの回廊へ』他多数。


黄昏に目覚める舌
   暑い日が少しずつ衰えて傾く夕暮れ時には、細かい泡を1.5センチほど頂いたペールエールのグラス一杯があればよい。すこし脂の乗ったノルウェーサーモンの、やや生に近いスモークフィレが数枚、そこに山盛りのさらしタマネギを乗せてライム半分を絞りかけるか、あるいは、鮮烈な緑色の乾燥ディルをたっぷり振りかけたあとに、細かく砕いたパルメジアーノ・レジアーノの粉末を合わせてもよい。仕上げはシチリア産の陽気なオリーブから搾られたエキストラヴァージンオイルを惜しみなく。そして傍らに絵か写真でも配した書物を一冊・・・。
   これだけで、琥珀色のエールは日々かならず訪れる黄昏を祝福する日常の祝い酒となる。舌には古い記憶をどこかに孕んだ新鮮な血液が流れ込み、気取った虚飾の言葉は鎮まって、野性の舌(=味覚)が飾らない舌(=ことば)とむすばれる。日々の雑事も、あたりの風景も、メディアをにぎわせるゴシップも政治も、その表向きの大げさな葛藤や事大性の衣服を脱ぎ捨てて、あからさまな裸の真実の姿を垣間見せるようになる。
   「頭突き、だって? 誰のこと? えっ、ジダン?」
   私はそのあまりに自明で、機知を欠いた、その行為がなされた文脈に最低限の配慮すらないメディア的言説の席巻に、あらためて首を振り、エールのグラスを高く掲げて強い異議を表明する。
   「誰があれを〈頭突き〉と呼ぶんだろう? ほんとうに喧嘩で頭突きをしたことが、あるんだろうか? 頭突きっていうのはね、自分の頭で相手の頭をまっすぐにゴツンと痛打すること。ジダンのあれはヘディング以外のなにものでもなかった。それも、サッカー史上最高に美しい、正真正銘のヘディングだね!」
   エールが私の舌を真実に馴染ませ、言葉は自然に向かって心地よく拓いてゆく。ジダンが、手を使わないというゲームのルールに忠実にのっとって行った、言語的暴力に対する最後のサッカー的抵抗として、私はあのヘディングを全面的に支持する。決勝戦でもっとも戦慄的で美しいシーンであり、ヘディングのシルエットとしても最高だった。あのシーンは、おそらくマラドーナの「神の手」による偽ヘディングとならぶ、あるいはそれを凌駕する伝説になるだろう。会見で、シダンは子供たちに謝っていたけれど(謝らされていたけれど)、そんな謝罪の必要はまったくない。ジダンほどの選手が、最後に身をもって主張したあの強烈なメッセージを、子供たちはむしろ本能的に理解し、その真実の苛烈な強度を自分の肉体にきざむはずだからだ。それこそが、真の教育というものである。暴力シーンを子供の目から隔離しておけばよいという正論的なヒューマニズムこそが、深みを失ったコミュニケーションのいまを象徴している。「頭突き」なんて言葉もまた、そうした表層のメディア空間で飼いならされ、棘を抜かれて浮遊するだけだ。投獄数十年の、韓国の抵抗詩人高銀(コウン)と東京の座談会で同席し、やがて酒宴で酔いが回るうちに、高銀は親しい友人たちにつぎつぎと強烈な頭突きをして廻っていた。最後には私にも。一つの意味に収斂しようのない、記憶と歓喜と陶酔の一瞬を伝える流儀として、この原初的な「頭突き」の仕草ほど見事なものはほかになかった・・・。
   言語の暴力、言語の専制にたいする、無言の、しかし本質的な抵抗として、ピッチのうえで、腕を縛られたようにしてヘディングで応えたジダンの無意識の教えに私はあらためて戦慄し、言語の舌の日常的な横滑りがもたらす醜悪と無惨とを再認識して襟を正す。詩人高銀の〈真の〉頭突きもまた、同じ流儀の、言葉が消え去る臨界の地点を意識した、最後の瞬間の魂の高揚を伝える手段だった。そのような、言葉の舌を介さない覚醒の一撃に、私たちの眠っていた別の「舌」が起き上がる。その瞬間を、とらえねばならない。


新しい舌を授かる日

   言語を授かる日と、味覚を授かる日のどちらが先にやってくるのか? その偶然も含んだ顛末こそが、人類を大きく二つの部族に分けることになる、決定的な宿命であったにちがいない・・・。そう私が直観したのは、フランスの哲学者ミシェル・セールの著書『五感』(原著1985,邦訳は法政大学出版局1991)が与えてくれた洞察によるところが大きかった。そこでは、1947年もののシャトー・ディケムを愛でるある女性が、極上のワインによって彼女の舌が味覚に向けて目覚めた日のことを、彼女の二度目の聖体拝領になぞらえている。いうまでもなく、彼女を含めた一般のフランス人にとって、最初の聖体拝領とは神の言葉がやって来て、最初の舌=口を彼女に授けた日のことである。フランスの幼い子供たちは、味覚という舌を文化的獲得物として与えられる前に、すでにカトリックの儀礼を通じて、神の言葉として結晶化された言語意識の種子を、彼らの舌に蒔かれるのだ。舌はまず、言語の舌として震えはじめる。セールは書いていた。

   ことばは、女王然として、そのパレ(=宮殿=口蓋)に君臨しており、言語(ラング)は唇と舌(ラング)の上に全面的に君臨している。尊大に、排他的に君臨している。・・・堂々たる雄弁、もっとも響きのよい詩、もっとも呪術的な歌、もっとも活発な対話は、青銅もしくは鋼のような口蓋をもたらし、セロのような共鳴箱を授けるが、しかしこうした弦や金属は、かぐわしい花や、樹皮や土の芳香、じゃこうや皮膚の強い香気に無感覚であり、さらに悪いことには、それらを追い払う。ことばは、・・・ことば以外のものに対する舌の目覚めを阻害する。

   西欧人の場合、これはほぼ普遍的な真実であろう。そしていまや、現代の文明社会を生きるほとんどの人間も。つまり、まず言語を自明のものとして授かり、つぎにあるとき、味覚を授かることによって、舌のもう一つのあり方を発見する、という宿命である。その第二の舌の出現は瑞々しい喜びにあふれてはいるが、すでにその味覚の経験が、言語意識によって完璧に統率されていることもまた、私たちはどこかで知っている。第二の聖体拝領とは、その意味で、言語の舌への抵抗ではなく、その呪縛からの束の間の逃避の謂でもあったことになる。
   だが、言語を意識的なものとして授かるまえに、肉体器官としての舌の渾沌とした感触を知ってしまう人々もいる。神が、聖書のような言葉の結晶体としてではなく、まさにじゃこうやかぐわしい花の香気のなかに棲んでいると信じるような社会に生まれた、一群の人々である。日々の常食のトウモロコシや鹿肉のなかに精霊が潜んでいると教えられるような子供たち。彼らは、おそらく、味覚という神秘を舌の先にまず感じとり、そのうえで、抽象化されることのない日常言語の舌がゆっくりとその精霊の舌に重なってゆくようなかたちで生きてきた。そんな場所では、言葉は暴力的な力を持つことがない。いや、言葉が暴力として機能するまえに、言葉を渾沌の舌へと、精霊の世界へと、突き返してやるメカニズムが、集団的に働いているといったらいいだろうか。だがこうした鳥たちや昆虫たちと共有された声調言語の世界は、いま地球上から消え去ろうとしている。
   セールの結論はこうなる。

   なぜこれほど明確に、与件は言語によって言語のなかでしか与えられないと、私が言うことができるのか。それは、口のなかで言語が味覚を抹殺してしまうからなのだ。

   西欧的な言語認識論の限界において、これは真実にはちがいない。だが、そうであれば、ワインのコクを愛でる舌の陶酔は、束の間の飼いならされた抵抗でしかなく、自由な舌の叛乱は永遠に封殺されてしまう。第二の舌、美しき味覚の舌の出現を押さえてでも、人間が守り通すべき矜恃というものが、倫理というものがあるのではないか。そのとき、それは、無言の、一見凶暴な仕草のなかで開示されるような、一瞬の舌の反逆であるのかも知れない。野性の舌の背後に隠れた、瞬時の、苛烈な頭突きのような、究極のヘディングのようななにものかの飛翔・・・。

   黄昏のペールエールの傍らで、私が先ほどからページを繰っていたのが、新刊の、ロシアの映像作家アンドレイ・タルコフスキーのポラロイド写真を60葉ほど集めた写真+テクスト集『瞬間の光』(Instant Light: Tarkovsky Polaroids. London: Thames & Hudson, 2006)である。70年代終りから80年代初めにかけて、タルコフスキーが熱中したポラロイド写真の淡い陰翳ある真四角のイメージ群が、私の目を、時の無慈悲な流れから救い出し、この「瞬間」の驚くべき充満へと釘付けにする。瞬間の光が、消えかけながら、だがたしかにそこにはフェルメールの影のようにして、生き残り、生まれ直している・・・。エールの泡に酔いかけた私の舌もまた、そのとき、瞬間の舌として、新しい未発の言葉を呼び出すことができないだろうか・・・。
   思索の時が去り、語り合う友や家族も柔らかな酔いで舌にかすかな痺れを感じとってふと沈黙する。そんな瞬間が数回訪れたら、舌の渇望は去って、腹が鳴りだすはずだ。そんなときには贅沢な食事など少しも要らない。舌はもう充分に熟れて快い疲労のなかで眠りを欲しているからだ。昨日のあまった御飯を冷蔵庫からとりだし、タコの切れ端をきざんで塩とパプリカとで焼き飯を作ればいい。色がほしければ、レタスを細かくきざんで入れてみる。中華鍋を強火にして米をパラパラに炒めさえすれば、これほどのご馳走もない。
   タルコフスキーのポラロイド写真の青白い残像だけが、いつまでも私の舌の先にこびりついてはなれない・・・。

<次号につづく>



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