ワールドカップの熱狂は、日本チームが敗退することで一部の人々にとってはもう終わってしまったのかもしれない。だが、すくなくとも私にとっては、ブラジルがプレーしつづけているかぎり、至福の瞬間はまだ未来にある。彼らの「味覚」と「芸術」とが、足のアートとして示される充満した時間を、私は心待ちにする。ブラジルの選手たちが、試合前に美味しいものをたらふく食べ、おおいに飲み、夜明けまで踊り歌うという当然の快楽が、どうして非難の対象になるのか、ロナウドにもカカにもロベルト・カルロスにも永遠に不可解である。
そんな哲学を共有できる日本のジョガドールは中田英寿ただ一人であろう。イタリアのセリエAペルージャに移った当初から、中田にはグルメ的美食家とはちがう異なった「食」への特別の好奇心が感じられた。イタリアでは珍しい内陸のウンブリア州の特産品である獣肉や、フィノッキ(ういきょう)、黒トリュフなどの生の素材を、彼は旺盛な好奇心とともに摂取していった。舌の好奇心は、知の好奇心に直結する。したがって当然のごとく、彼は食べ物への執着を言葉への執着へと移行させ、数年にして見事なイタリア語を自らのものとしてしまった。ウンブリアの地方料理によって開眼した新しい味覚の舌が、新しい言語の舌を覚醒させたのだ。イギリスに移ったあとの中田も、この進化をやめない。新しい言語を媒介につねに新しい語彙=思惟を自らに取りこみ、舌の進化を通じてサッカーというトータルな「技芸」を洗練させてゆく彼の日常哲学は、いまだに崩されてはいないように見える。ブラジルのバイーアの街角で、中田英寿がドナ・フロールの食卓についている姿は、あまりに見事に決まっていてその隣に座っていてもいいはずのロナウジーニョの姿がかすんでしまうほどである。サトウキビ焼酎カシャーサの酒精を舌の上で転がしながらすこしずつ胃の中に流し入れ、おもむろにアカラジェを手にとってにぶりつき、美味の破顔とともにシンシンの濃厚なひと掬いをスプーンでヒラリと口に滑り込ませる。そのあとで、フロールにむけて意味深な愛の囁きの言葉が彼の口からもれだす……。私の夢想は、彼をブラジル人以上にブラジル人の姿に替えてゆく……。
対ブラジル戦終了直後の中田の孤独を、私は直観的に理解した。チームとして横並びになってサポーターに敗戦の挨拶をする情報資本主義の規律と儀式をボイコットしてまで、彼が一人センターサークルに仰向けに倒れ込み、ルシオと交換したカナリア色のユニフォームで顔を隠しながら堪えていた孤独を。沈黙と涙のなかで、中田がつかのま憑依していたのは、チームプレーの実践の抑圧とともに彼が遠ざけていた、意識のブラジル人としての、孤高の美学、すなわち美味と饒舌の美学だった。そのあたりまえの美学が彼にとって孤高であるのは、ただ単純に彼が日本チームでプレーせねばならないという矛盾のなせる技だった。このチームに染みついた抑圧の構造を、ジーコとともに彼は放擲しようと苦闘した。中田のサッカーの魂の源泉は、この美味と饒舌の美学のなかにしかなかったからである。豊穰の舌を繰りながら、Futebol-Arte(フチボール=アルチ)、すなわち技芸としてのサッカーに邁進するブラジル人イレブンの流れるような運動体に、彼は幾度浸透していきたい、と不可能な幻影を見ていたことだろう。
3対1となりもはや試合の形勢は固まっていた後半21分、高原に代わって大黒がピッチに入ろうとするとき、監督ジーコは大黒に、この最後の瞬間に彼が、チームが賭けるべき「フットボールしつづける」ことの意志の強度を、しっかりと大黒に言葉で伝えようとした。だが、テレビキャメラが映しだしていた光景は、熱く語りかけようとするジーコにそっぽを向いて、通訳の口だけを見てはやる大黒のさびしい姿だった。ジーコのポルトガル語の意味が理解できるかどうか、そのことが問題なのではない。だが、ジーコが、自らの舌を奮わせながら、最後の瞬間に伝えようとした言葉と情熱のヴァイブレーションを、大黒は自らの身体にきざみ込むことを忘れ、無視を決め込んだ。その無視が、どれほど無意識のものであり、大黒がすでにピッチのなかにすべての思いを集中していたのだとしても、私はここに日本とブラジルの永遠の距離を見る。コミュニケーションのもっとも本質的な技芸の不在を……。これが中田であれば、イタリア語でジーコとさしで話し合い、時には怒鳴り合い喧嘩し合いながら、そのポルトガル語とイタリア語と英語のはざまで響く一言半句から、野性の舌と舌の壮絶な触れ合いのなかから、フットボールの核心にある哲学をあやまたずつかみだすことができたであろう。そんなことができるのは、残念ながら、中田しかいなった。
大黒よ、ジーコの震える舌を心して凝視せよ! その響きに向き合い、それを自分の体内深く刻み込め! 中澤よ、90分間ガムを噛みつづけるきみの口にフットボールの女神がくちづけすることはありえない。自由な舌を取り戻し、それを自由な空間で遊ばる快楽を思い出せ!……
舌がボールを蹴るわけではない。だが、舌と叡知と身体技芸の豊かな相互浸透を忘れた者に、永遠に「ブラジル」は訪れない。6万人が見守るドルトムント、ウェストファリア・スタジアムのセンターサークルで天を仰いでいた中田の10分間の孤独は、その沈黙は、彼の奪われかけていた「舌」がふたたび覚醒するために必要な儀礼だった。それは苦痛の果ての、透明な真実の顕現の快感でもあった。舌の上で躍動するフチボール=アルチの感触を思い出しながら、中田は敗戦といった「結果」からは永遠に遠い地点で、ただこの遊戯的な舌が再生する幸福感に痺れていた。
<次号につづく> |