ポスト・イデオロギー社会という言葉があります。この言葉には一定の正しさがあります。たしかに、「イデオロギー社会は終わりつつある」、といっても、それは、よくいわれるような東西冷戦が終わったとか、社会主義の理念が失効したという意味ではありません。すでにイデオロギーの終焉ということは、「歴史の終わり」がかまびすしくいわれる以前、つまり東西体制の生きていたころから、工業化の進展は資本主義体制/社会主義体制の二つの体制の差異をならしていくと論じていた収斂理論、あるいはポスト工業化の文脈でいわれていました。
しかし、イデオロギーはいまだに強力です。そもそも現代最大のイデオロギーは、「旧来の左右の対立は失効した」「イデオロギーの時代は終わった」という言表そのものだ、とスラヴォイ・ジジェクなどは指摘しています。とはいえ、表象を介して人々を誘導するといったイデオロギーの作用よりも現在、きわだってあらわれてきたのは、情動のダイレクトなコントロールです。この権力による情動のダイレクトなコントロールという側面が、規律というパラダイムに対して優位に立ち、あるいはより厳密に言うならば、規律という長い歴史をもつ権力のパラダイムに変容をもたらしているのです。
ネオリベラリズムは国家政策たりうるのか、と問いかけたのはアントニオ・ネグリです。昨年10月のフランス暴動について、ネグリは次のようにいいました。この反乱は、ネオリベラリズムが国家政策になりえないことのあらわれであり、統制をおこなう国家の能力、運動と恒久的に接触をもちうる力が欠落している。フォーディズムの国家には欠陥は多かったがまだこの能力をもっていた、と言っています。ネグリからすれば、この能力の欠落にもとづく代表制の危機が反乱となって爆発したのだ、ということになります。
ネオリベラリズムが政策として浸透していくと同時に、このような国家の能力の欠落に由来する危機は、恒常的に埋め込まれます。国家はここでネグリのいう運動、すなわち、自律的な動きと接触することができません。だから国家は、それと出会うと解体しようとするのです。
しかし解体するだけではきわめて危ういものです。解体することは、同時に構成する動きをともなっています。その技術は、一見したところはべつのところからあたえられます。とりわけメディアが供給しているものであり、それは、情動の次元の直接的コントロールというべき事態です。権力はますます情動的次元を操作することで作動しているのです。
政治的権力や国家権力の正当化は、もはや国家の理性といったものや統治的判断の妥当性といったものを介しておこなわれるのではありません。それは情動的な回路を通しておこなわれるのです。たしか、姜尚中さんは、近著である『政治学入門』のなかで、最近の日本の政治が、理想主義はもちろん、国家理性も、政治的リアリズムも、なにも機能しないままに、ただ「憂さ晴らし」、「溜飲を下げる」といった次元で動いている、と危機感を表明されています。なるほど、たしかに現在の日本は、アジアとの関係ひとつをとってみても、「理性的」には信じがたい、あるいは国家的な「利害」といった次元の欲求の水準を考慮しても、不条理で理解に苦しむことは少なくありません。また指導者たちの発言も、指導者としては途方もなく常軌を逸したものが目立ちます。
もし、イデオロギーというものが、ある種の象徴的一貫性のみかけをもたねばならないとすれば、その条件が崩れつつあるということはいえます。ただし、権力を考えるときにかつて以上にイデオロギーの位置が低下しているというとき、いまやこの一貫性のみかけが必要とされないというところにその理由があります。権力は、もっともらしい表象を構成することを介して、言い方をかえれば、一貫性のみせかけのある世界に想像的に縫合することで、ある程度、安定性のあるアイデンティティを与えることで、人に働きかけること―――従来のイデオロギーの主要な機能である―――をあまり重視しません。むしろ問題なのは、いまここでダイレクトに人々の情動に働きかけることです。「溜飲を下げる」という出来事は、まさに情動の次元で生じることであり、それが政治の原理になるという事態は、必ずしも特殊な一時的混乱ではないかもしれない。あたらしい権力の姿がそこに一端をみせていると考えるべきかもしれないのです。
このことはアメリカをみると確信に近づいていきます。2001年9月11日以降のアフガン戦争、そしてとりわけイラク戦争は、象徴的な「筋」のようなもの、すなわち、一貫性をまったく欠落させていました。戦争前も戦争中でも、その一貫性を覆す証拠が次から次へとあがっていきました。しかし私たちを驚かせたのは、そのようなドタバタの示す稚拙なもろもろの虚偽があのような大きな戦争をもたらす口実となりえたということと、そして、それがいくら明らかになっても、ほとんどブッシュの政策の失墜の大きな原因とはならなかったことです。そこからみえてきたのは、イラクへの侵略が、まさに「溜飲を下げるため」、というか、あるいは、よくわからないけどアメリカが強いということで安心になった気にさせるためにおこなわれたことであり、さらには、それのみでほかの手段による正当化は不要であったということです。つまりここでアメリカ大統領は武力行使に理を尽くした正当化を提示する能力、つまりイデオロギーを提示する能力を問われなかったのです。要するに、「事実」がどうであれ、「気分」よくさせるならば、それで十分なのだ、というわけです。
実際、ブッシュは2000年の大統領選のさいに、対抗馬であるアル・ゴアを「へらず口」と呼んでいたらしいです。ゴアは文章をはっきりとしゃべるし、読書もする、そして慎重な判断が信条だ。こうした態度はブッシュも共有しているはずの、大統領たるものにとって、自明の事柄のように思われます。しかし、ブッシュ・ジュニアにとって、このことは賢明さではなく弱腰であることのあらわれでしかありませんでした。ブッシュは、「事実にもとづかないことはしゃべらないというゴアの事実依存的あり方」は敗北を呼ぶだろうとみていました。ホワイト・ハウス用語では、政治的決断に際して「事実」を重視する人間たちを軽蔑をもって指す用語があるらしいです。それは、「リアリティ・ベイスド・コミュニティ」というものです。現在、ブッシュ政権は、イラク戦争にかかわった軍人たちから、その戦争政策について多大な批判を受けています。アメリカでは軍人が政治をこのように表だって批判することはそれほど多くはないことらしいですが、この背景には、ブッシュ政権が、戦争遂行にあたって、イラクと戦争をすることのメリットといった最重要事項についても、軍部閣僚とほとんど議論がもたれなかったといわれる意志決定過程の問題があるのではないでしょうか。
このような、ほころびのあきらかだった戦争にさいして、マスメディアも新たな機能をはっきりと示しました。それをもはやなにも媒介しません、つまりたとえば「事実」のようなものをメディエイトすることはありません。なにをやっているのかというと、情動的次元を操作する、あるいはドゥルーズの用語を用いれば、情動的次元を「モジュレート」する能力によってダイレクトにコントロールを及ぼすことです。このことはマスメディア、とりわけテレビは、その情動へのダイレクトなコントロールの能力によって、あらためてその存在の意義を高めています。ワイドショーでは、分析や解説は極力排除されるか、あるいは、「コメンテーター」という名を与えられたタレントたちが、専門外のことについても、憶測や空想で、出された素材をさまざまに叩きます。どれほどそれが事実に反していても、あるいは、論証の欠落を示していても、そうしたことについての逡巡や配慮はますます乏しくなっているように思われます。情動的次元に働きかけうるかどうか、それのみがそこでは問われているかのようなのです。
しかしこうした傾向のうちに、たんにいかなる論理や事実も存在しないというのではありません。あらわれつつあるもの、それは「情動的事実」です。こうした捉え方を教えられたのは、アメリカの哲学者ブライアン・マッスミを介してです。マッスミの議論では、論理言説的論証の依拠する経験的事実と、情動的事実は、確実性を求めているという点で、共通であり、競合しています。しかし情動的事実は、その同語反復的性格によって、経験的事実よりも容易に確実性を確保する傾向にある。情動的事実は、経験的事実と論理言説的論証が不可避にはらむ不確定なモメントを一切、斥けてくだされる純粋な、まるで「雷のような」決断に対応しています。その揺るぎない決断のためには、分析や検討、議論のような、不透明な現在の時間は可能なかぎり排除されねばならないのです。こうした知的な過程そのものである不透明な現在こそが、未来へと不確実性をもたらし、誤謬へと行き着いてしまうのだ、というわけです。ごちゃごちゃと考えたり迷ったり議論したり、そうした時間は排除されねばならず、すばやく、逡巡なく、断言しなければならない。まさに「小泉劇場」といわれるものの背後にある仕掛けもこのようなものでしょう。小泉首相のまさにしばしば根拠のとぼしい「ワンフレーズ」や、しばしば露呈されるバカバカしい「暴言」ですが、それを指摘されてもびくともしないのは、それがうまく人々を「だましている」というのではなく、情動的事実をのみ狙っているからであり、それに成功しているからです。そしてそれは、現在、情動にかかわるきわだった権力装置として君臨しているテレビを介してのみ可能なのです。
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