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リングア・フランカへの旅――〈自由な舌〉を求めて


   食べることと話すことは、舌という器官を媒介として直接結びついています。そして、食の舌と言語の舌は、時に反発し時に癒着しながら、人類の感覚と思惟を巡る歴史を生み出してきました。この歴史の消息を読みとく旅――人類学者の今福龍太氏による連載です。


今福龍太氏写真

第1回 皿の上の舌

今福龍太
いまふく・りゅうた − 1955年東京生まれ。東京外国語大学大学院教授。文化批評家、人類学者。
東京大学法学部卒業後、テキサス大学大学院博士課程を経て、メキシコ国立自治大学・中部大学・慶応大学SFC・カリフォルニア大学サンタクルーズ校・札幌大学などで教鞭をとり、2005年4月から現職。サンパウロ・カトリック大学コミュニケーション・記号学部客員教授を兼任。同時に、キャンパスの外に新たな遊動的な学びの場の創造を求め、2002年より巡礼型の野外学舎である「奄美自由大学」を主宰。著書に『クレオール主義』『移り住む魂たち』『移動溶液』『ここではない場所―イマージュの回廊へ』他多数。


言語と食
   未知の〈リングア・フランカ〉をめざす旅に出よう。合言葉は〈自由な舌〉である。そして〈自由な舌〉とは〈リングア・フランカ〉の一つの新しい訳語の提案でもある。いうまでもなく、舌はここで、「言語」と「食」とに、同時に深くかかわっている。
   リングア・フランカ“Lingua franca”というラテン語の意味を解析するだけで、私たちの想像力はいたく刺戟される。通常この言葉は、「共通語」などと解されていて、通商等のために異なる言語同士が接触し、互いの要素を取り入れて一時的に使用されるようになった橋渡し言語のことを指している。言語学的にみると、それは語彙が少なく文法が単純であるという特徴を持ち、いわゆる「ピジン語」を意味する。しかし歴史的にいえば、リングア・フランカは西ヨーロッパ、フランク族によって地中海世界で固有に生まれた、橋渡しのための混成言語であった。
   フランク族は、現在の北フランス、ガリア地方を中心に5世紀末頃からフランク王国を築いたゲルマン系の混成部族である。異分子・異部族出身者を多く含んでいたため、共通の髪形や武器によって部族の結束を確認したといわれる。その部族に共通した武器であった投槍をfrankaと呼んだことから、部族の呼称が生まれたというのが定説だ。これはいうまでもなく、いまの「フランス」という国名の起源ともなった。フランク族の貴族は、ローマ帝国への租税を免除され、自由身分であったとされているが、こうした理由によってか、中世ラテン語においてはfranco(フランク人の)という形容詞に「無関税の」「解放された」「自由な」という意味が生まれた。ここから、現代的な用法である「フランク」(すなわち「率直な」「ざっくばらんな」「気前のいい」)という意味まではほんの一歩である。いずれにせよ、混成部族としてのフランク人の言語世界は、そうした異言語の要素を含むピジン的なものをかかえており、同時に諸部族の行き来の盛んであった地中海沿岸に生じた交易の必要性によって、イタリア語、フランス語、スペイン語、ギリシア語、アラビア語、トルコ語などが混成する橋渡し言語が、次第に広く使用されるようになっていったと考えられる。
   フランク人の言語、という固有の意味から生まれたリングア・フランカは、しかし、やがて日用の「共通語」を意味する一般語彙へと移行していった。言語接触によって生まれるその場しのぎの混成語。とりわけ、古代から中世期の地中海世界の奴隷の言葉などが〈リングア・フランカ〉の意味論をフランク族の専有物から解放した。奴隷という、もっとも不自由な身分の者たちが、言葉の単一言語的(モノリンガル)なくびきを断ち切って、舌をあらたに結び合わせる別種の原理を生み出す自由を持つ──。このパラドクスに、私は大いなる刺戟を感ずる。強固な文法によって統率され限定づけられていると思われた〈言語〉というものの、衝突と融合のダイナミズム、そしてその自由な変容の力を、いまの空しく痩せ細った同語反復の時代思潮に向けて、宣揚してみたいのだ。
   〈リングア・フランカ〉を、あらたに「自由の舌」と意訳することで一つの未知のヴィジョンを探求しようという私の機知は、このようにして生まれた。そしていうまでもなく、言語の舌は、食の舌と、分かちがたくむすびついている。面白いことに、ときに現代社会の〈食の舌〉をまず考えることで、社会に潜在していた〈言語の舌〉をめぐるイデオロギーが可視化されるということすら起こる。日常生活における言語という理念やその用法に批判的に切り込もうとしたとき、同じ舌を使って行われる行為としての〈食〉をめぐる制度や神話、そのイデオロギー分析が、思いがけないヒントを与えてくれるのだ。


不意に飛び出す舌
   なによりも、食をめぐる批評的言説が、あまりにも好事家的・グルメ的視点によって横滑りしたままであることが、私をずっといたたまれない思いにさせてきた。食べるときの舌の野性的な感覚をどこか置き去りにして、味や食感を形容する「言葉」だけを研ぎ澄ませ、あるいは濫用=浪費する体の批評から、私は舌の処女的な感覚を刺戟されることがまったくなかった。そこには、現代社会の中で通念化された、言語と意味と感覚をめぐる矮小化した自動回路の存在だけが、際だって見えるだけである。いわば現代人は、目の前に出された料理をああでもないこうでもないと言葉によって批評しながら、じつは見事なまでに、自分の言語の舌が縮こまったままであることを、暴露してしまっているのだともいえる。比喩的にいえば、私たちの皿の上に乗っているのは、自らの舌そのもの、自分の舌のタン料理に過ぎない。しかもそのタンはひどく痩せているのだ。
   この構図はあまり気持ちの良いものではないかもしれない。だが、自分の舌をまじまじと見つめてみることも、思考の手掛かりとしては面白い。そもそも、舌という器官を、私たちが実際目にする機会は考えてみるとそれほど多くはない。口蓋のなかに隠れているばかりか、自分の視野にはほとんど入らないということもある。では、他人の舌ならば頻繁に目にするのかといえば、わざわざ他人の口の中を覗くことは医者でもなければしないし、他人が自分に向かって舌を出して見せてくれる機会も少ない。モノを味わい食べ、言語を話す私たちは、舌の存在を日々感じとっているにもかかわらず、舌という器官を目の前においてしげしげながめるような機会は、ほとんどないといっていいのだ。
   だが、露出した有名な舌もある。舌を出した人物の写真といえば、誰よりもまず、アルバート・アインシュタインの有名な写真が思い浮かぶ。1951年、彼が72歳の誕生日にロバート・サスによって撮影されたこの写真は、そもそもはアメリカのプリンストンでの誕生パーティのあと、車に乗って帰宅しようとするアインシュタインが、カメラマンの「笑ってください」という一言に応じて、細長い舌をべろりと出して見せたときのものだといわれてきた。結果としてこの写真は特ダネとなり、世界中に配信されて一挙に有名な映像となった。高度で晦渋な彼の理論と、戯けた通俗的な表情とのあいだのギャップに、人々は驚き、快哉を叫んだのであろう。
   世紀に一人というような天才理論物理学者の、脳ではなく舌に、私はむしろ惹かれる。舌を出すというのは、近代西欧世界の慣習からいって、ほとんど二つの機会に限られるからだ。道化の身振りと拒絶の身振り。そしてその両者は、じつは裏腹の関係にある。アインシュタインの写真の場合、それは道化的な所作として解釈されるのだろうが、この舌にはさまざまな意味で、通俗世界への拒絶と侮蔑が背後から滲み出してもいる。このすこし赤みがかっているであろう72歳の熟練の舌を、脳の切片を観察するようにして切り分けてみたら、いったいなにが見えてくるのだろう。この菜食主義者の天才の舌は、どの程度自由で、どの程度束縛されていたのだろうか。
   舌を出した女性、と訊かれれば、私にとっては、ルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの共同制作によるシュルレアリスム映画の最高傑作『アンダルシアの犬』(1928)に登場するシモーヌ・マルイユ演じる若い女のアッカンベー以上に衝撃的な映像はない。若い細身の男に性的な欲望をまるだしにして迫られ、自らの腋毛を奪われてそれが相手の男の口ひげに瞬間移行してしまったのを見た女が、男に向かってこれ以上ないという侮蔑の表情でアッカンベーをして、扉の向こうへと軽やかに去ってゆくシーンである。だが、いうまでもなく『アンダルシアの犬』という作品には人間の日常的感情によって説明できるシーンなどなく、その意味では、荒唐無稽なシークエンスのなかで女が舌を出す瞬間の感情的意味は、限りなくゼロ度に近い。まさに、意味と意味の陥穽のなかから、この(無‐意味の)〈舌〉が不意に飛び出してくるのである。道化と侮蔑とが、じつはそうした言語的「無‐意味」と紙一重の状況であることを、それは語っている。つまりそんなとき、人は言葉ではなく舌を出すしかないのである。


タン料理の謎
   私は、『アンダルシアの犬』冒頭の、眼球を横一文字に切り裂く映画史上最高のシーンといわれるあの一瞬よりも、このアッカンベーのシーンになぜかより深い謎を感じて幾たびも立ちどまる。マルイユの突然の狼狽と激昂の彼方に広がる、人間意識の深層の闇に吸い込まれるように惹かれる。女優シモーヌ・マルイユの悲劇的な生涯を記憶している人は少ない。1903年にフランスで生まれ、1953年にフランスで焼身自殺した。生涯で18本ほどのフランス映画に出演しているが、『アンダルシアの犬』という突出した作品を除けば、いずれも映画史からはまったく忘れ去られたフランスのB級コメディーばかりである。焼身自殺という、自らの命に結末をつける尋常でないやり方を見ても、彼女の人生にいかなる苦渋と悲痛が蓄積されていったのか、想像してみることはできる。マルイユの口から突き出したあの攻撃的に痙攣する舌が、目の前の皿に置かれて出てきたならば、どうするだろうか? 私は言葉を失い、押し黙り、言語の消失点に立ち戻ったのちに、ふたたび〈リングア・フランカ〉のかすかな可能性に向けて、自らの舌の雄弁と贅沢とを羞じることから始めるだろう。
   タン料理は、私たちの言語意識の試練のスタートに並ぶ皿である。こんな、謎のような料理に合うワインなどおそらくこの世にありはしないだろう。だが、もし訊ねられれば、ドイツのフランケンの辛口の白、と注文してみようか。いうまでもなく、フランク族の領土にちなむ、バイエルン州北部のフランケン地方は、珍しいシルヴァーナ種のブドウを使った独特の辛口ワインで知られている。ずんぐりした丸型のボックスボイテルと呼ばれる独特の瓶に入ったこの清冽な白ワインに漬け込んで、できればお目当てのタンを一晩寝かせてみようか。ちょうど韓国のサムギョプサル(豚の三枚肉)のようにワインの味に馴染んで香り立つタンを調理し、同じフランケンのキュヴェ・フランコニアあたりをグラスに注いで、あくまで慎ましく食す。もう今後、こんな美食的なメニューはけっしてない、と覚悟を決めながら・・・。
   あらたな〈リングア・フランカ〉を求める冒険の旅にふさわしい食事のはじまりかも知れない。



<次号につづく>



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