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コラム:コントロール


   いろいろなところで「管理」への要請が強くなってきているのが感じられます。しかし一方で「管理」という言葉には、自由を阻害するものとしての否定的な意味合いがあるのも確かです。様々な角度から「管理」をとらえたときに何が見えてくるのか――各界気鋭の研究者の方々にご寄稿いただきます。


金森氏写真
ビッグブラザーの、自由な末裔

金森修

かなもり・おさむ − 1954年北海道生まれ。東京大学教養学部卒業、パリ第一大学哲学博士号取得、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。筑波大学助教授、東京水産大学教授等を経て、現在は東京大学大学院教育学研究科教授。専攻は科学思想史、現代科学論。
著書に『遺伝子改造』『科学的思考の考古学』『自然主義の臨界』『負の生命論』『サイエンス・ウォーズ』ほか、共著に『科学論の現在』『現代科学論』ほか


   オーウェルの『1984年』は、ディストピアの有名な古典であり、いま読んでもいろいろと考えさせられることの多い著作だ。普通、それは、第二次世界大戦後、冷戦構造が開始して間もない頃、共産主義体制への反感から書かれた、という位置づけをされることが多い。ただ、そのテーマの根幹をなす苛烈な監視社会という社会像は、どこか古さを感じさせる。もっともそれは、ソヴィエトが瓦解し、中国や北朝鮮のような国は存在しはするが、共産主義という社会構想がかつてほどには目標でも脅威でもなくなっった現代世界にあっては、共産主義体制批判のために書かれたというその社会的機能をその本は既に果たし終えたからだ、という理由からくる古さなのではない。この種の作品を、そんな単線的な政治的文脈に押し込みすぎるのは土台無理な話だし、そもそも、共産主義云々には関わりなく、監視社会化は住基ネットのような社会制度の面でも、監視カメラの高性能化のような技術の面でも、一層深刻、かつ先鋭になっているではないか、という反論が、ただちに思い浮かぶからだ。
   私が、ビッグブラザー型監視社会に、或る種の古さを感じてしまうというのは、その監視様式をめぐって、である。社会の構成員が誰であっても、またいつどこにいても、何をしているのかをたえず見られている、という監視社会。『1984年』の場合、ウィンストンは、情報操作や感情操作が高度化しているそのディストピアのなかで、資料調査や性行為によって、〈全体性〉に刃向かおうとする。だが、結局は逮捕され、巧みな精神破壊術や洗脳法によって、人格をぼろぼろにされてしまう。ジンに酔いしれながら〈処刑〉を待つ零落した主人公のラストシーンは、印象的な趣をもっている。確かにこれは、オーウェルの想像力が生みだした、しかも単に純粋な絵空事とはいえない、おぞましき監視社会の極北のイメージだ。
   だが、私は、もう少し現実的に考えてしまう。いま、仮に或る社会に30万人の構成員がいるとする。その30万人がいつ、どこで何をしているのかを監視するには、それ相応のカメラや追跡装置が必要だろう。だが、それはあくまでも技術的位相での問題であり、莫大な予算を投下すれば、絶対にできないとはいえない。では、技術的には可能だとして、それでは誰が監視するのだろうか。もちろん、巧みな監視システムを導入し、整備すれば、30万人を監視するのに1万人とか、そんな膨大な監視要員は必要ないだろう。だが、その場合でも監視要員を10人のオーダーにまで減らすのは難しいはずだ。
   ところで、改めて確認するまでもないことながら、パノプティコンの事例を想起すればわかるように、監視システムというのは、本当にたえず監視しているかどうか、よりも、各構成員が、いつも監視されている可能性があると自覚することにこそ要がある、と考えることは正当だ。だから、別に監視要員の多寡などは問題にならない、と人はいうだろうか。
   だが、たとえ最初に高度な監視システムを作り、それを人民に周知徹底させたとしても、実態としては、ほんの数人の監視要員が、ときどき監視をするだけという空洞化したシステムなら、最初はともかく、その内に、そのシステムの実効性のなさは徐々に住民に知れ渡り、カメラや追跡装置はあるにはあるが、事実上は誰も気にしないという事態が来ることは避けがたい。要するに、本当に監視しようと思えば、装置群の高度化だけではなく、それに見合う人員の投資も、覚悟せざるを得ないということだ。
   ところで、仮に十分な監視要員を準備し、実際にそのためだけに配置させたとする。その後は、どうなるか。彼らが監視する大部分のものは、母親が子供をあやし、おじいさんが孫をかわいがり、ビジネスマンがお客さんに商品説明を熱心に行い、学生が大学で授業を聴いている姿だろう。その大部分は、ごくごく普通の平穏な日常生活であり、最初は意気込んで監視を始めた監視専門員も、その内にダレてくるというのは、避けようがない。確かに、ときどきは、若者が喧嘩をし、誰かがスリを働き、ピッキングで不法侵入するなどということはあるだろう。だがそれは、思わず色めき立つほどに、普段の監視行為の単調さから見れば珍しい、突発事故であるにすぎない。要するに、監視国家の監視専門員がたえず心を躍らせていられるほど、犯罪やテロ、重大事故や天変地異ばかりが続く社会などは、想像しがたいということである。しかも、普段あくびをしたり、うたた寝をしたりすることもある人民と比べて、監視要員だけが、一瞬たりとも気を抜かずに、監視カメラを覗き続ける能力がある、などと想像する方がどうかしている。彼らもまた、あくびをし、うたた寝をし、ひょっとすると暇に任せてこっそり昼間から酒盛りをしているかもしれない。カメラがいくら高性能であろうが、それを使うのは、彼ら、結局はわれわれと同じ普通の人間だろうからだ。
   それは、つまり、そんな監視社会などを膨大な経済的投資や、技術開発と人員整備の果てに創り上げたとしても、そもそもいったい何の役に立つのか、という話になる。少なくともいえるのは、それはとてもコストパフォーマンスに見合うような話ではなかろう、ということである。
   以上のような理由で、私には、ビッグブラザー型監視社会、ないしは管理社会というのは、どこか〈馬鹿らしさ〉を抱えた社会像に思えるのだ。
   もちろん、監視や管理をするのには、ビッグブラザー型を採用しなければならない、というわけではない。監視や管理の中枢を小規模分散型にし、国ではなく、市が、ひいては、「*町*丁目連合会」が担うということも、当然考えられるからだ。最後の場合には、既にコミュニティ単位の監視・管理体制、つまり相互監視と密告のシステムが整備されるという事態になるだろう。その種の、いわばスモールブラザー型監視社会の方が実効性も、恐ろしさも、高いものなのかもしれない。
   とはいえ、である。たとえそんなスモールブラザー型監視が完備されているような社会であったとしても、「何のために?」という問いかけは依然として有効だと思えるし、そもそも、完全なる実効性をもつことは、無理なような気がするのだ。人間というものは、社会的な権力者に対して、その気になればいつでも面従腹背の態度を取ることができる。個人個人の〈本心〉など、とても知り尽くせない。ましてや、監視社会や管理社会などというものは、自由や自発性を尊ぶ文化の規範からは外れているので、まず間違いなく、一種の敵意や違和感をもって受け止められるはずだ。個別的監視や密告は、醜い行為として受け止められるはずだし、密告を何度も繰り返すような人間は、そのコミュニティからはじき出されてしまうだろう。
   さらにいうなら、人間は、自分の真心に対してさえ、時には「舌を出してみせる」ことができる。自分の本心を自分に対してさえ韜晦できるくらいの精神の繊細な政治性を、実はたいていの人は身につけている。技術的洗練や制度的整備、さらには政治的威嚇や宣伝をたとえどれだけ繰り返そうが、最終的には、個人個人の生の軌跡を完全制御や完全管理することなど、できるわけはない。
   やれるものなら、やってみろ、とまで啖呵を切る気はないが、逆に言うなら、「管理されること」に対する或る種の過剰反応が見られるのが、私には、少し気になる。まあ、自由を尊ぶ市民の健全な反応なのだ、と、それ自体を軽く受け止めても大過ないといえば、その通りなのだが……。
   例えば住基ネット導入時でのいくつもの異議申し立てや政治運動、それに、健康増進法が施行されたときの反応などを見ても、あたかも、それらが個人個人の重大なプライバシーや生命の根幹を侵害するとでもいうかのような反応には、むしろ若干の懸念を覚えた。個人情報保護法が逆に、不気味な匿名社会を生みだしつつあるというような最近の論調は、それと重なるとはいえ、いくぶんずれた主題なのかもしれない。ともあれ、公共性をなんらかの形で担保しようと思うことに対して、すぐに「プライバシーの侵害だ」とか、「管理社会だ」とか、「バイオパワーの発現だ」とか、その手の声を上げるというのは、いくぶん行き過ぎなのではなかろうか。何も、折に触れて立ち上げられるその種の警世の念を、なくもがなの余計なものだとまで形容するつもりはない。だが、私の耳には、それらの警句は、もっと根底にある重要な事実を若干軽視しなければ出てこないような言葉に聞こえてしまう。
   私が論じた根本的な直観、つまり、「個人の完全管理など、不可能だ」という判断が、絶対に正しいとまで断言することはできない。だが、ここで簡単に論じてきたような意味で、私は、この直観は概略的に正しいと思っている。それをベースに考えるなら、「公共との連接」は、自由な個人を基盤とした上での付帯的な努力として、つかず離れずの〈大人の反応〉をしていけば、それで十分なのではなかろうか。
   管理社会が問題になりうるのは、管理社会が実際にわれわれを管理し尽くすという危険性があるから、というよりは、個人が、その管理傾性を内面化し、あたかも管理者の側に自ら迎合するかのような萎縮をしてしまうから、またはその逆に、あまりに強い反感をもつために、公共性との繋がりを一切遮断し、一種矮小な私小説的生活に沈潜してしまうから、である。
   確かに、社会制度や経済活動で、そう簡単に〈自由な個人〉を想定しにくい場面が生来しつつあるということは、私なりに承知しているつもりだ。グローバリゼーションが驀進する世界のなかでは、個人の力など、ごくごく小さなものに見えてしまうかもしれない。とはいえ、われわれは社会的存在ではあるが、完全に社会的存在のみであったことはなく、完璧に社会的存在になりきろうという願望が構成員全体に行き渡るというのも、特殊な教育環境や政治環境が演出する特殊な逸話であるにすぎない。最終的には、一人ひとりの嗜好、判断、決断などに関わる場面は必ず残る。われわれ人間が、善悪、美醜、聖俗などの多様な対立軸の間を時に激しく往復することができるのは、われわれが根源的、根本的、かつ本性的に、自由な存在だからなのである。



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