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コラム<危ない>


   様々な分野で「安全」や「安心」が語られることが多くなっています。それは、わたしたちがいろいろなモノやコトを「危ない」と感じているということでしょう。自由、メディア、少子化、科学・・・・さまざまな「危ない」について、各界気鋭の研究者にご寄稿いただきます。


仲正氏写真
「大学病院」のインフォームド・コンセントは危ない

仲正昌樹

なかまさ・まさき − 1963年広島県生まれ。東京大学教育学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程修了。現在は金沢大学法学部教授。学術博士。専攻は社会思想史、比較文学。
著書に『デリダの遺言』『ポスト近代の公共空間』『共同体と正義』『「不自由」論』ほか、共著に『日常・共同体・アイロニー』『「人体実験」と患者の人格権』ほか


   私はあるきっかけで数年前から、自分の勤務する金沢大学の医学部附属病院産婦人科で卵巣癌の患者に対して無断で行なわれた抗癌剤の「比較臨床試験」をめぐる訴訟に多少の関わりを持っている。この裁判は現在最高裁で係属中であるが、2003年2月に金沢地裁で一審の判決が出された少し後に、産婦人科の講師で患者側に立って抗癌剤の臨床試験の実態について内部告発している打出喜義医師の視点からこの事件を取り上げた報道番組が日本テレビ系で放映された。ちょうど『白い巨塔』のリメーク版(フジテレビ系)の放送が完結して、医局という特殊な制度の下での教授による一元支配体制の問題がクローズアップされた時期であったので、産婦人科の直接の上司である教授と真っ向から対立してまで患者の権利を守ろうとする打出医師の姿勢に共感した人は少なくないと思う。そのためこの事件は、患者の人権を無視して研究中心で医局を運営しようとする横暴な教授と、自分の職を賭してまで患者の権利を守ろうとする真面目な講師という二項対立図式で見られがちだが、その背後に「臨床試験」を規制すべき国の法制度の構造的問題があることを看過すべきではない。私は打出医師とこの件で頻繁に連絡を取り合っているが、彼自身も「どちらが大学病院に勤務する医師のあるべき姿か」というところにだけ焦点が当たってしまうのは望ましくないと考えている。
   裁判で争点になったのは、元患者の女性(故人)に対して行なわれた、CPとCAPという二種類の抗癌剤の内の一方を無作為抽出(籤)によって選んで投与するという“療法”が「臨床試験」に当たるかどうかであった。「臨床試験」であるとすれば、抗癌剤を投与する治療の是非についてのインフォームド・コンセント(IC)だけでは不十分であり、「臨床試験」の可否についてのICが患者と医師の間で成立している必要がある。病院側(実質的には産婦人科トップの井上正樹教授)は、CPもCAPも保険適用の標準治療であり、その治療成績にはほとんど有意味な違いが認められないことが知られているので、たとえ籤で選択が行なわれても実質的な影響はなく、「臨床試験」には当たらない、と主張する。原告側は、この“比較臨床試験”は、通常よりも高用量で行なわれており、その点で既に医師の裁量の範囲を越えているうえ、もう一つ別の薬の臨床試験とペアになっているので、臨床試験性が高いと主張する。
   もう一つの別の薬というのは、高用量の抗癌剤の副作用によって減少した白血球の回復を促進するノイトロジン(中外製薬)という薬である。当該の治療が行なわれた1998年当時、この薬は、薬事法の規制を受ける「市販後臨床試験」の段階にあり、一定数のサンプルを集めて効果を証明しないと認可取り消しになる可能性もあった。井上教授の研究室は、高用量のCP/CAPの比較研究と同時にその“被験者”に対するノイトロジンの市販後臨床試験を進めており、このペアの研究に対して中外製薬から奨学金を受けていた。被験者を登録する事務局も中外製薬の中に置かれていた。原告側にしてみれば、たとえCPとCAPの比較自体が臨床試験に当たらないとしても、その後にサンプルを集めることが急務になっていたノイトロジンの試験が控えている以上、本来の目的は、治療よりもむしろ「臨床試験」にあったのではないかと主張する。ただし、元患者の女性は高用量のCPの副作用があまりにも強すぎて、途中で別の抗癌剤に切り替えられたため、ノイトロジンの投与には至っていない。そのため判断がやや難しくなっている。
   原告側は、打出医師が入手していたCP/CAPの被験者の登録票に元患者の女性の名前があったことなどから、すぐに決着がつくものと考えていたが、保険適用薬同士の無作為比較が、特別のICを必要とする“臨床試験”であると言えるのかをめぐる議論になかなか決着が付かないまま一審の判決まで4年もかかってしまった。その判決でも、当該の“治療”が、治療それ自体の「他事目的」を含んでいる場合、医師の側にはその他事目的についても説明し、ICを取得する必要があると判示したものの、既に末期癌の段階にあった女性が、高用量の抗癌剤の投与によって不必要な身体的苦痛を受けたという原告側の主張は認容せず、もっぱら精神的苦痛に対する慰謝料として165万円の支払いを病院に命じた。実質的な被害が認められていないことに、原告側の不満は残った。
   CP/CAPのクリニカル・トライアル(臨床試験)のプロトコール(手順書)には、患者の状態が一定の条件を満たしていない場合は、被験者として登録することができないと銘記されているにもかかわらず、担当医がそれを無視して、かなり腎機能が低下していた女性を登録したことが裁判の過程で明らかになった。にもかかわらず、裁判所は、高用量にしたこと自体は医師の裁量の範囲内であり、高用量であったがゆえに予想以上の副作用に苦しんだとは言えない、としている。二審の判決でも、他事目的についてのICの必要性については認められたものの、患者の女性が受けた被害についての認識は更に後退し、慰謝料は75万円まで減額された。病院側はこの二審判決を受け入れて上告はしておらず、遺族側だけが上告を申し立てている形になっているが、病院側から遺族に対する謝罪はなく、井上教授や担当医は何ら処分を受けることのないまま業務を続けており、打出医師は不利な扱いを受け続けている。
   こうした曖昧な状態が続いているのは、日本では、「患者を本人に無断で臨床試験あるいは実験的治療の被験者にしてはならない」という世界医師会のヘルシンキ宣言(1964年)で確認された原則が法令化されておらず、事実上無法状態になっているからである。臨床試験・実験的治療に関するICについての唯一の法規制と言えるのは、新薬の「治験」及び「市販後臨床試験」に関する薬事法に基づく規定だけである。治験及び市販後臨床試験については、薬の認可を申請する企業が、試験を実施する医師に対して被験者との間でICを成立させるよう依頼することが義務付けられているが、その依頼を医師が果たさなかった場合の罰則は定められていない。患者を無断で実験材料にしても、それだけで刑事責任を問われることはないのである。
   実験的治療の“結果”として、患者の容体が急変して死亡したり、意識不明の重体になるなど、素人目にも分かるようなはっきりとした因果関係でもない限り、刑事責任はおろか、民法上の不法行為責任も問われないのが現状だ。患者・遺族側には、打出医師のような内部告発者の協力とか、当該療法の根本的欠陥に関わる問題が表面化するといった特殊な要因がない限り、実験的治療であることを知りようがないので、そもそも訴訟が起こらないのである。金沢大学の事例は、そうした現状にほんの少しだけ風穴を開けたと言えるが、国はまだ「臨床研究」全般の法規制に本腰を入れて取り組んでいない。2003年7月になって、厚生労働省は、大学病院などでの患者を被経者とした臨床研究全般についてのルールのモデルとして「臨床研究に関する倫理指針」を出したが、法令ではないので直接的な法的拘束力はない。
   臨床研究に際してのICには、研究の対象にされる患者の人格権の問題や、当該の療法自体の危険性についての情報などの他、金沢大学の事例で浮上してきたように、製薬会社や医薬機器メーカーと、依頼を受ける医局、特にそのトップである教授の間の利害関係という問題もある。企業は、自分たちの製品の試験を迅速に通してくれそうな教授に当たりをつけ、依頼しようとする。教授としては、自分の研究実績になるうえ、奨学寄付金も得られるので、なるべく多くの患者を被験者にしようと無理しがちになる。患者本人にはあまり多くの情報を与えたくない。加えて2003年秋に表面化した慈恵医大青戸病院事件に象徴されるように、ある程度確立されている療法や薬でも、その領域での治療経験が少ない医師が実施すれば、実験的な性質を帯びたものとなり、危険性が高まるということがある。どういう療法は、どういう経験のある医師しか許されないということが、法律で決まっているわけではないので、医局の都合で恣意的な運営になりがちだ。
   あまりにも当然のことだが、大学病院は、先端医療による治療が必要な患者を受入れて治療するという目的の他に、医学研究と医師の養成という二つの目的を合わせ持っている。常に他事目的と隣合せで、治療が行なわれているわけである。かなり先端的な治療を除いて、治療目的と、他の二つの目的の間の線引きははっきりしていない。例えば、手術の光景を医学部生や手術に直接関係のない他の医学研究者に見学させることについてICが必要であるかといった問題について明確なガイドラインはない。
   『白い巨塔』の原作が書かれた1960年代頃の医療水準であれば、大学病院に入院するような症状の患者は、“人体実験”の材料にされるのを覚悟しなければならない、というような漠然とした了解が、病院と患者の間にあった。確立された療法というのがなくて、医師の側もどれがどの程度リスクが高いのか客観的に把握できておらず、全て手探りであれば、ICにはあまり意味はない。19世紀であれば、西欧医学全てが手探り状態であったので、「十分な説明に基づいた合意」など机上の空論であったろう。しかし、現在のように医学が進歩して、どの程度の効果があるのかはっきりしている標準的療法と、副作用によるリスクは大きいが難病に効果があるかもしれない先端的療法の区別が生じ、素人である患者もそういう情報にある程度アクセスできるようになってくると、臨床研究に当たっての厳密なICが求められるようになる。
   問題は、大学病院と患者の関わりの変化を、当事者たちが必ずしも十分に自覚していないことにある。打出医師も、井上教授の無断臨床試験は現在の基準では明らかに不当であるが、もっと前に起こっていたら、私も不当性を感じたかどうか分からない、と述べている。大学病院という特殊な場で患者の身体を利用しての臨床研究・教育を行なうに際してのICを軸とするルールが法的に確立されると共に、それを担保する公的監視システムが導入されない限り、「法律によって禁止されているわけではない」ことを理由に、無断で人体実験を行なおうとする医局は後を絶たないだろう。



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