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塩の博物誌

塩業資料室の資料紹介

第21回 岩塩を追いかけた男たち ― 黒部銑次郎物語

   


   日本には岩塩はないといわれている。事実、日本で岩塩が産出したという史料は見当たらない。塩井については、前回このコーナーで南東北地域の史料を紹介したが、今回は岩塩掘削に一生をかけた旧藩士の物語を紹介しよう。


   まずは「白い鉱山師(やまし)」から。阿波徳島藩士黒部銑次郎が主人公である。徳島といえば江戸時代から斉田塩で有名な塩の産地。斉田塩は大阪をはじめ東海から関東まで販路をひろげ、阿波の特産品のひとつで、藍(あい)とともに藩の重要財源であった。その塩浜を見て育った銑次郎が藩の英学校の授業中に地理書のなかで「Salt Mine」という単語を発見する。銑次郎の疑問はここから始まる。


黒部銑次郎氏

   (これらの諸外国では、食料に供する塩を『ソウルト・マイン』から採る…)休憩時間銑次郎は教授に聞く、「ソウルト・マインとは如何なるものでございますか。」教授は答える、「ソウルトは塩、マインは鉱山じゃ。よって、塩の鉱山とでも解釈すべきかな。」「塩の鉱山と申しますか。」「うむ、その通りじゃ、この地理書には、そのようにしか書いていないが。」「塩の鉱山が、この世の中にあるものでございましょうか。先生!」「難しい質問じゃ。世のたとえに、木に依って魚を求むという言葉があるが、これは真実であろう。彼の国には山を掘って塩を造っている地方があるのであろうな。」…(まことに、山間から塩が採れるものであろうか、まさか…)

   時代は幕末、江戸から帰国した藩士たちから西欧の話を聞きながら、銑次郎も江戸に出て広い世界の情報を直接聞き勉強がしたくなり、早速父親に相談し江戸に向かうこととする。江戸では福沢諭吉の塾(後の慶応義塾)に入門する。ここの塾生の紹介で信州高遠藩の旧藩士に会い、伊那の山中に塩水が湧き出ていることを聞く。明治5年文明開化の大変革時のなかで銑次郎は慶応義塾を終了し、6年に藩用で国に帰ることになったが、ひそかに心に決めていた製塩事業をおこす夢を実現するために国許から暇願いを送り信州に向かった。

   むかし弘法大師の教えにしたがって里人が岩脈を掘ったという大鹿村の塩泉は、塩河の流れのそばにあり、深さ6尺ほどの小さい洞窟であった。たまり水は2石あまり。ひやりとする液体を両手にすくって、祈るように口にふくむと強い鹹味が舌から喉に広がった。「からい!」部落の世話人は銑次郎らの驚くさまに満足そうにうなずいた。「どうです。その塩水は遠い昔から汲んでも汲んでも尽きないのですから、また不思議です。」

   明治8年12月に長野県庁に鹿塩塩泉の利用および岩塩掘削の願書を提出する。翌9年2月いよいよ岩塩坑掘削の開始である。まずは横坑の試験的掘削。「あの岩山を切って塩を採るんだっとのう」「ふうん。あの固い岩盤をなあ・・・」「まるで弘法大師さまの再来じゃの」鹿塩の村人は素朴な畏敬や、疑惑をこめた眼差しをして銑次郎の行う起工の式を見ようと集まってきた。・・・(銑次郎は)右手の槌に力をこめて鏨(たがね)の柄頭に打ち込む・・・。岩肌から固い手応えがあった。

   起工から半年たったとき、かねて依頼してあった塩水分析報告書が東京から届けられた。工部省御雇イギリス人ゴット・フレーからのものであった。訳書も付いていた。「信濃国伊奈郡大鹿村塩河耕地塩坑ヨリ湧出スル塩水分析之報告」と題して「この塩水の残留物は1,000分の13、塩化曹達 92.57%・・・」と付記されている。銑次郎は海水の濃度と見比べ、この岩塩掘削事業に自信をえる。このとき横坑は3間ほど掘り進み鋼鉄のような岩盤に突き当たっているところであった。「伊那山系・・・鹿塩には塩井がある、その源を掘りすすめると岩塩鉱がある」これが銑次郎の不変の信念であった。「しかし、地下鉱脈を求めることに気がとられすぎたかなあ」彼の心の中には葛藤があった。「とりあえず、地下塩水から試製塩を製造し、いささかでも利益をあげながら事業を広げていこう」早速煮詰釜の準備に入った。



ゴットフレー氏の塩水分析表とその翻訳


   明治12年3月銑次郎は鹿塩村の旅館に資金援助の協力者を集め、新しい製塩施設建設の説明を行った。その内容は、枝条架を利用した立体的塩水濃縮装置の建設とスイス製の大型鉄製結晶釜の設置工事であった。協力者には地元有力者が加わった。流れ者の他国旧藩士のイカサマ山師とみられがちな銑次郎たちには絶好のチャンスであった。しかし濃縮装置にしても外国製の結晶釜にしても地元の人たちには初めて聞く言葉ばかりであった。「そのう・・・立体的塩水濃縮装置というのは如何なる機械ですかのう」「これは枝条架製塩装置と申しまして、私たちが考案設計しましたのは、・・・」「なるほど・・・」聞く人にとってはあまりにも斬新過ぎて、説明というよりも解説であった。

   明治15年4月旅館の大広間には、給金の支払日に大勢の現場の職人が集まっている。鹿塩の坑道掘削は2ヶ所あり深さは20間あまりになっていたが、岩塩層はまだ発見されなかった。しかし岩の割れ目から滴下する地下水には塩気の濃いものもあった。枝条架の設備はすでに完成し塩水濃縮装置の到着を待つばかりであった。「今年の重陽の節句までにはみごとな白塩を焚きだしたいものだね」銑次郎たちは経営者としての夢をふくらまして話をしていた。「ただいまから過月分の給銀が下される・・・」職人たちはかしこまって頭を低くした。小半時をかけて給銀は職人たちに逐次渡される。・・・葵二郎の「白い鉱山師」は事業が一番盛況のなか、岩塩発見の夢を残したまま終わっている。

   物語の後半は「赤石嶽より」から紹介しよう。縦坑からの塩泉を原料に製塩をおこなう一方で、横坑も掘り進め37間にも達していたが、「塩の鉱山」には突き当たらなかった。ついに資金は底をついてくる。そのうち見切りをつけた同士は徐々に脱退し、最後は工藤欣八と2人になる。掘削はタガネとゲンノウに大鉄鎚を使った完全な手作業、一日にわずか5分ぐらいしか進まなかったときもあった。・・・ふたりの苦労もついに報われることはなかった。昭和31年の塩河の大水ですべての施設は跡形もなく流されてしまった。

   地元の平瀬理太郎氏の協力で事業は小規模ながら継続されたが、明治38年塩専売制施行により政府に買収される。2人は飯田塩務支局の製造担当をまかせられ生産を続けるが、明治43年製塩地整理により鹿塩の製塩事業は廃止される。岩塩の存在については神保博士他の学者から否定されるが、黒部銑次郎は「塩がすべて海水から出来ると決めつけるのはおかしい。掘削した坑道の周辺数十箇所からは昔と変わらず塩水が出つづけている、この塩水は海水と含有物質が違う」と反論し、ボーリング調査を行うことを主張したが、その機会もなく銑次郎は明治45年5月持病が悪化し他界する。

   鹿塩温泉街はいまでも登山客や湯治客でにぎわっているそうである。銑次郎に協力をした平瀬理太郎氏のひ孫にあたる貞雄氏に問い合わせたところ、彼らが掘った坑道の一部はいまでも残っており、塩泉もいまだに絶えることなく湧き出しているとのことで、平瀬家が経営する旅館山塩館には銑次郎の肖像画やゴットフレーの塩泉分析表が保存されているとのことであった。神保博士発表以来岩塩はないと結論が出ているが、湧き出る塩水のもとは地中奥深くどのように溜まっているのであろうか。

   安原正也氏(産業技術総合研究所)から最近「塩井−その分布・利用・起源について−」という論文発表の概要書が塩業資料室に送られてきた。日本における塩井の分布から分析して、塩水の起源としては油田・ガス田付随水、古海水起源の停滞水、深部起源水などが考えられるとのことで、今後各地の試料分析を行い塩水の起源の解明、淡水に比べ比重の重い塩水がどのように地表に出てくるかなど、水文地質学的に検討していくとのことであった。



塩業資料室 河井義行



塩業資料室所蔵文献

『白い鉱山師(やまし)』葵二郎著。日本専売新聞に連載小説として昭和44年5月25日から昭和49年12月25日まで64回掲載
『赤石嶽より』抄写。前澤淵月著。昭和8年西澤書店飯田支店発行
『岩塩を求めて−黒部銑次郎物語』「せんばい第41号」昭和50年専売事業協会
『維新期士族による製塩業の歴史過程(一)−長野県鹿塩の場合』武田安弘著「信濃第47巻第7号」1995年信濃史学会発行


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