何年か前に、知り合いの若いサラリーマンが会社を辞めて大学院に進学したいけれどどうしたらよいのか相談に来たことがあった。
理由を訊いたら、何年か勤めて、だんだん仕事ができるようになってきたら、上司から「キミが中心になってグループをまとめてくれないか」という昇進の内示があったので辞めることにしたのだそうである。
上司の勤務考課が低すぎて納得がゆかないから辞めるというのなら話はわかる。昇進させられそうなので会社を辞めたいというのは意味がよくわからない。
重ねて理由を訊ねると、彼はきょとんとした顔をした。
「だって、責任持たされたら、会社辞めにくくなるじゃないですか」と答えた。
なるほど。
プロジェクトのリーダーなどにさせられてしまうと、「今日はコンサートがありますから、早退します」とか「ハワイに行きますから明日から有給とります」などということはたしかに言い出しにくいであろう。
「会社をいつでも休める権利・辞める権利」を手元に留保することは、彼にとってはとりあえずは昇進よりも優先順位の高いことだったわけである。
似たような話は会社を経営している兄からも聞いたことがある。
兄の会社では数十人のアルバイトを雇用している。その中には長く勤めて、なかなかよく仕事のできる若者がいる。そういう若者たちに「正社員にならないか」と申し出ても、ほとんど断られるそうである。
アルバイトの方が「自由」でいいらしい。
「アルバイトなら、いつでも辞められますから」と彼らは答えるそうである。
兄にはその言い分がわからないと言う。
正社員は給料が倍になり、社会保険もつく。もちろん、辞めたければいつだって辞められる。
どうして正社員じゃダメなんだろう・・・と兄は片づかない表情をしていた。
彼らの選択を「利己的」と言うことはできない。彼らはどうみても自分にとって「より利益が少ない」オプションを選択しているからである。
ここにあるのは、賃金や労働条件という具体的でハードなレベルの問題ではなく、もっと曖昧で心理的な問題である。
どうやらこの方々は「フリーハンド」を維持することにたいへん高い価値を賦与しているように思われる。なぜならば、彼らはいつかどこかで彼らを待っている「チャンス」にめぐりあったときにそれを逃さないためには自由であることが必要だと考えているからである。
というようなことを書くと、「いや、そんなことはない」とすぐに反論してくる人がいる。
最近の統計によれば、フリーターたちの八割近くは「正社員になること」を希望している。彼らは「正社員になりたいのになれない」という他律的状況に置かれているのである。正社員になれないでいるのは、彼らがそう望んでいるからではない。
たしかに、アンケート結果はそう告げている。
けれども、この調査には一つ条件が抜けているのではないかと思う。
彼らは「正社員になってもいいような(やりがいのある)仕事であれば」という条件をつけた上で「正社員になりたい」と言っているのではあるまいか?
コンビニやガソリンスタンドやビデオ屋で不正規労働に従事しているフリーター諸君が、そこのオーナーから「正社員にならないか?」と言われて欣喜雀躍する情景を私はうまく想像できない。
フリーターたちがフリーターをしているのは、彼らに労働意欲が足りないからではなく、就業機会が提供されていないからだという議論をよく聞く。就業したくないのではなく、就業したくてもできないのだと説明される。現に、2003年の政府統計では、フリーターの88%は「やりがいのある仕事」がしたいと考え、半数以上が技術や技能を身につけたいと考えている。
たしかにその通りなのであろう。
問題は、「やりがいのある仕事」とはどのような仕事であり、彼らが身につけたいと望んでいるのはどのような技術や技能か、ということである。
もし、IT企業の経営者とか、外資系金融のディーラーとか、俳優とか、ロックミュージシャンとか、映画監督とか、小説家とか、「そういうもの」になりたいのだとしたら、ほとんどのフリーター諸君には一生待っても「やりがいのある仕事」に就くチャンスは訪れないだろう。
以前、TV局のレポーターをやっていた若い女性が今は全然違う事務職で派遣社員になって働いている。
どうしてTVのレポーターのような人気のある職業を辞めてしまったのか、理由を訊いてみた。訊けばもっとも。
労働条件がめちゃめちゃ悪いからである。
「だって、『やりたい』という人がいくらでもいるんですから・・・」
なるほど。そうだろう。
「どんな安い給料でもいいからTVで働きたい」という人が後から後から押し寄せるのだから、雇う側は笑いが止まらない。労働条件の改善要求は、レポーターの「替え」なんかいくらでもいるんだということで簡単に蹴飛ばされてしまう。
労働市場では、ふつうの商品の場合と同じく、かなりの程度まで「需給関係」で労働力の交換価値は決まる。
労働力に対する需要に比べて供給の少ない職種は就業機会が多い。需要に比べて供給の多い職種は就業機会が少ない。
当然のことである。
そして、フリーター諸君が「やりがいのある仕事」というときに、そのほとんどは「需要に比べて供給が圧倒的に過剰な職種」なのである。
彼らが「需要はあるが、供給の少ない業種」を就職希望に挙げる例を私はほとんど知らない。
それも当然で、そのような職種であれば、とっくにそれを生業としていて、フリーターなんか今頃やっているはずがないからである。
日本の産業のうち、伝統的な形態のものは今ほとんどが危機的状態にあるが、それは希少な技術や技能を後継しようと望む若者が現れないからである。
第一次産業は(農業も漁業も林業も)後継者がいないために業種そのものが消滅しようとしている。
伝統的な工芸や芸能でも事情は似たようなものである。
もし、「やりがいのある仕事」がしたいということばが本当なら、フリーター諸君の中から、「後継者がいないために、誰かがそれを引き継ぐことを切望されているような職業」のうちに就業機会を求める人たちが多少はいてもよいはずである。
しかし、現実には、非正規就業者たちは「いくらでも替えがいる」仕事を求めることにはたいへん熱心であるにもかかわらず、「余人をもっては替えがたい」仕事としてどのようなものがあるかという問いにはあまり真剣な関心を示そうとしない。
その点で、彼らは私たちの「大衆社会」のもっとも典型的なメンタリティを体現していると言ってよいと思う。
「大衆社会」とは、その成員たちが「他の人たちが欲望するもの」を欲望する社会のことである。
彼らは「他の人が欲しがるもの」(権力、財貨、威信、情報、文化資本などなど)を手に入れることによってしか満足を得ることができないのであるが、まさに他の人たちも同じものを望んでいるという当の事実が、彼らがそれを獲得することを構造的に阻止しているのである。
「やりがいのある仕事の正社員」になりたいと語っているフリーター諸君はゴールデンウィークにディズニーランドに行って、「どうして、こんなに人出が多いんだ」と毒づいている観光客に似ている。
彼らが「やりがいのある仕事」として列挙するような職種は、まさに彼らがそれを欲望しており、かつ就業できていないという当の事実が示すとおり、特殊な技能を要求するものでも、きわだった個性を要求するものでもなく、「あんな仕事なら自分にもできる」と思っている人が多すぎる職業のことなのである。 |
|