第15回 〜「移動」をともなわない塩適応(その2)〜
高梨浩樹 たばこと塩の博物館 学芸員
【1】福島県南会津郡伊北村<福島県南会津郡只見町>
【2】会津の西方十八里の塩沢村<福島県南会津郡只見町塩沢か>
【3】伊北郡大塩<福島県大沼郡金山町大塩か>
【4】福島県熱塩加納村<福島県耶麻郡熱塩加納村>
【5】大塩村<福島県耶麻郡北塩原村大塩>
【6】塩川<福島県耶麻郡塩川町>
【7】小野川<山形県米沢市小野川温泉>
【8】小玉川<山形県西置賜郡小国町小玉川>
【9】栃木県塩谷郡栗山村
【10】新潟県越後三島郡、魚沼郡の山中
以上、手近な文献から抜き出してみると、思っていたよりも塩泉製塩の記録が多い。ところが、大塩や塩沢という同じ地名が至る所にあって、文献によっては記述が入れ違っていたりもする。私も今回、文書類などをはじめ、直接の原典に当たれたわけではないからなんともいえないのだが、入れ違ってしまっても仕方がないと思うほどややこしいのである。特に、北会津の猪苗代湖周辺にある「大塩」と南西会津の奥只見の方にある「大塩」、福島県南西会津の奥只見にある「塩沢」と山を越えた新潟県にある「塩沢」は、文献を読みながら、いま読んでいるのがどちらの話なのか、しばしば分らなくなる。また、山形県の「小野川」と「小玉川」もややこしい(註1では「小野川」のこととして書かれている内容が、註2では「小玉川」のことになっている。これはどうやら、註2の記述が正しいようだ)。タイムマシンに乗って、当時の現地調査をすることができたなら、よく似た地名だからという理由だけで混乱することはないと思うのだが、文献だけを手がかりにするというのは難しいものである。 さて、今回は、塩泉製塩そのものの詳細を知ることが主たる目的ではなかった。前回までの話の流れの中で、「農産物や木材が得られる内陸で、製塩もできたならば、大きな移動や交易をしなくとも、環境適応できるのではないか」という文脈で、内陸製塩の可能性を考えることが主目的であった。 そこで、今回挙げた例の中で特に注目したいのは、北会津地方【5】の大塩村である。藩政期の製塩は、藩の指示によるものではあったが、藩内の需用を満たすほどで、村民の需要も全て賄えていたようであり、「移動をともなわない塩適応」ができていた希有な例だと言えると思う。とくに、価格の面で見ても、瀬戸内塩などの移入塩より格段に割安だったというのは、他に例がないのではないだろうか。塩以外の部分では、江戸時代のことであり、商品経済的な品々については無論、他地域からの移入に頼る部分はあったと思う。また、山間部で米などが不足しがちだった可能性もあり、情報がなく確かなことはいえないが、最低限の衣食住に限っていえば、「移動をともなわない環境適応」ができていた可能性が高い。江戸以前の古い時代に製塩されていた頃には、その傾向はより強かったのではないだろうか。そのような背景もあって、明治初頭の製塩廃止後も、塩湯を樽で持ち帰るといった形で脈々と塩泉利用が続いたのではないかと思うのである。 塩湯そのままでの利用という点では、製塩の明確な記録はないが塩泉そのものを調理に使っていた【9】栗山村も同様である。液体のまま持ち帰るという利用形態は一見、不便そうに見えるが、それこそが「移動をともなわない塩適応」の真骨頂ではないだろうか。長い距離を移動しなくてすむからこそ、塩湯という液体のままでも用が足りるのであり、塩利用の原初的な姿を想像させて興味深い。逆に、長い距離を移動する必要が生じたからこそ、水分を飛ばし、塩というエッセンスのみを持ち運ぶようになったと考えれば、製塩のはじまりに関しても大いに示唆的である。南西諸島や伊豆諸島でも、かつては海水そのものを調理に利用していたことが知られており、いずれ、合わせて考察してみたいテーマである。 これら以外の例では、南西会津地方【2】の塩沢村(場合によっては「大塩11か村」とも)が、北会津地方【5】の大塩村に近い姿だった可能性がある。とくに、村民が農業の合間に製塩し、他の村にも供給していたというのは、「自給を満たした上で」供給していたと考えるのが自然であり、かつては「移動をともなわない環境適応」と呼べる姿だったのではないだろうか。藩政期には、越後から山越えで入って来る瀬戸内塩と合わせて消費圏を形成していたというから、【5】の大塩村のように全量賄えるほどではなかったわけだが、これは、消費圏の規模の問題なのかも知れない。地図で見る限り、【1】の伊北村、【2】の塩沢村、【3】伊北郡大塩(大塩11か村はこちらか)が合わさってひとつの消費圏のようであり、【5】の大塩村よりかなり広そうである。また、新潟側からの移入塩を考えた場合、【5】の大塩村より、【1】【2】【3】の奥只見地区の方が新潟から近く、移入塩の影響力に差があったのかも知れない。 米沢地方の【7】小野川と【8】小玉川は、文献で見る限りは藩の主導によるところが大きく、自給的ではないように思える。これは、上杉鷹山の高名によるものであるのかもしれないが、環境適応というよりも、殖産・興業としての意味の方が大きく目立つ。つまり、「生きるための適応」というより、「よりよく生きるための経済」に見えるのである。とはいえ、単に、文献上、自給的な話が出てこないだけなのかも知れない。 今回紹介した塩泉製塩の地域はほとんどが豪雪地帯で、越冬のための塩蔵用、春先の一時に採れる山菜等の保存用など、塩の需用は平野部よりもかえって多かったろう。自前の製塩で本当に全てを賄えていたとすれば、【5】の大塩村は驚異的である。豪雪地帯といえば、「陸の孤島」「僻地」といったマイナスイメージで捉えられがちであるが、本当に需用を満たすほど塩生産もできていたのであれば、「農産物、木材のみならず、塩も自給できる理想郷」というプラスイメージを押し出した解釈もできるのではないかと思うのだが、言い過ぎだろうか。いずれにしても、「くらしぶり」までを含めた当時の詳しい状況が分からないので、明確な答えは出ないのであるが、第13回(前々回)まで「塩をめぐる移動」について書いてきた身としては、【5】の大塩村の内陸製塩には、そのような可能性を感じてしまうのである。 蛇足ながら、よく考えてみると私は、今回紹介した地域のうち、【9】栃木県塩谷郡栗山村、【4】福島県耶麻郡熱塩加納村、【5】福島県耶麻郡北塩原村大塩の3ケ所を、旅行で訪れたことがあった。 熱塩加納村だけは「塩泉製塩」の記憶があって、別の訪問地から足を伸ばして行ったのだが、着いたのは夜であり、辛うじて温泉に入れただけだった。現在は製塩できるような泉質ではなかったように思う。 栗山村は何回か訪れているのだが、面積がかなり広いうえに道が悪く、自動車で走っても広いと感じるような大きな村であった。山道を歩かなければ行けない温泉も多いうえに、源泉によって泉質が違う。私が1時間ほどの山歩きで訪れた温泉は製塩ができるような泉質ではなかった。さらに奥に山道を歩いて行けばいくつか別の泉質の温泉もあるので、記録にあるのはもっと奥のものなのか、あるいは別の谷筋なのかも知れない。かなり山深いところではあるが、蕎麦と山の幸は素晴らしいところだった。これで本当に塩も生産できたら、かなりのところまで自給でくらせそうなところだったように思う。 北塩原村の大塩は、厳冬期に通りかかって、非常に気にはなったのだが時間がなく、入湯もできなかった。このような原稿を書くことになるなら、なんとしても足をとめればよかったと、悔やまれる。現在ではそれなりに開けた場所であるので、今も製塩可能な泉質ならば、観光資源としても活用できそうなところである。 いずれも明確に「塩泉製塩」を意識して訪れたわけではなく、これ以上ご紹介できるような情報もないのが残念だ。それぞれの地域のかつての塩泉製塩を調べてみたい気持ちはあるが、時代的にも前のことであり、現時点で新たな情報を得るのはかなり困難だろうと思う。今後は、他の地域も含めて、もう少し「塩泉製塩」を意識しながら、当時の「くらしぶり」にも注目して訪れてみたいと思っている。そんな中で、「塩泉製塩」を調べる手がかりになるようなものに出会えればと考えている。
※編集部注 : 次回は2005年9月号に掲載予定です。