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コラム<危ない>


   様々な分野で「安全」や「安心」が語られることが多くなっています。それは、わたしたちがいろいろなモノやコトを「危ない」と感じているということでしょう。自由、メディア、少子化、科学・・・・さまざまな「危ない」について、各界気鋭の研究者にご寄稿いただきます。


赤川氏写真
子どもが減るのは、「危ない」のか

赤川学

あかがわ・まなぶ − 1967年石川県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。岡山大学助教授等を経て、現在は信州大学人文学部助教授。専攻は社会学、ジェンダー/セクシュアリティ論。
著書に『性への自由/性からの自由』『セクシュアリティの歴史社会学』『子どもが減って何が悪いか!』など、共著に『子どもというレトリック』『性の商品化』など


   今年もやがて、厚生労働省から合計特殊出生率が発表される。昨年は、年金改革論議のまっただ中で公表を遅らせた嫌疑がもちあがったのが記憶に新しい。合計特殊出生率とは、女性が一生に産む子ども数の平均を表す数字だが、2003年は1.29。またも過去最低を更新した。この数字が約2.07を下回り続けると、人口はやがて減少していく。日本でも、ここ1、2年のうちに人口減少社会が到来する。
   1990年に「1.57ショック」という言葉が流行して以降、少子化は、重大な社会問題として提起されてきた。そして1994年のエンゼルプラン、2003年の少子化社会対策基本法、次世代育成支援関連法など、さまざまな少子化対策が講じられてきた。だが出生率はいっこうに回復しない。2005年からは5年計画の、通称・新新エンゼルプランが施行される。男女の働き方の見直しや、若者の自立支援などを盛り込んだのが目新しいが、これとて多くを期待できないように思われる。
   ここ10年間、企画・実行されてきた少子化対策を列挙してみると、以下のようなものがある。低年齢保育や延長保育など保育サービスの充実、仕事と子育てが両立可能な職場環境整備、男性の家事・育児分担の推奨、ファミリー・サポート事業、育児休暇・休業制度の充実(取得目標値の設定)、待機児童ゼロ作戦、不妊治療への支援、児童手当の増額、出産一時金、お見合いパーティ支援などである。さまざまな政策がバラバラに行われている観がぬぐえないが、それでもここには共有される理屈がある。つまり少子化が進むのは、女性が「産みたくても産めない」環境があるからであり、男女、特に女性が仕事と子育てを両立できる環境が整備されれば出生率は増える、という論理である。換言すれば、「男も女も、仕事も家事・育児も」という男女共同参画社会が実現すれば、子どもは増えるというのである。
   しかしこれは、実証的には疑わしい。昨年末、私は『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)という本を上梓したが、このなかで、「男女共同参画社会が実現すれば出生率は回復する」ことを立証するために使われる統計的データのほとんどが、根拠薄弱だとの結論に至った。私がみるかぎり、男女共同参画は出生率回復とほとんど無関係である。逆に「男も女も、仕事も育児も」という、男女共同参画型の家族を増やせば、かえって少子化が進行する可能性も、なくはない。
   だからといって、男女共同参画が不要になるわけでもない。仮に男女共同参画が少子化をさらに進めることになろうとも、男女共同参画はそれ自体として必要である。男女共同参画を、出生率回復にとっての有効性という観点から強調する戦略は、理念的にも欺瞞だし、かなり「危うい」。なぜなら、いったん出生率回復に有効という理由づけを容認してしまえば、仮に男女共同参画が出生率回復に無効であることが判明したときには、男女共同参画は不必要となりかねないからだ。しかも、いったん出生率回復に有効という基準を容認している以上、たとえば避妊・中絶の禁止、女性の社会進出阻止、子を産まない男女への制裁など、もっと「有効な」少子化対策が必要という主張が登場したときには、少子化対策としての男女共同参画を推進してきた人たちは、その主張に反論する資格がない。政治的な都合であれ何であれ、彼らを黙認してきた人たちも同罪である。
   私のこうした主張が、結果的に男女共同参画への反動(バックラッシュ)に加担しかねないという懸念も、あるかもしれない。むろん私は、特定のライフスタイルを優遇しない男女共同参画政策には、まったく反対していない。「男女共同参画は少子化対策として有効でないから、必要ない」とする主張に対しては、「男女共同参画が仮に少子化を進めようとも、それ自体として必要である」という私の主張を用いて、堂々と反論なさればよいと思う。
   もっとも男女共同参画政策が奏功して出生率が回復する可能性は、ゼロではない(可能性は、つねにゼロではない)。しかもおそらく彼らは、何年後かに出生率が回復しなかったとしても、今と同じように「まだ男女共同参画の実現が不十分だからだ」と屁理屈をこねるであろう。しかしそのような屁理屈は反証不能であり、まともな学者や政治家ならば採るべきでない論法である。それは、「ゴドーを待ちながら」よろしく、永遠に来るはずのないものを待ち続ける態度にすぎず、国民に対する一種の詐欺である(男女共同参画を推進するという戦略的観点からは、それでもよいのかもしれないが……)。
   しかし、それでは遅すぎる。そういう焦燥感が、このところ強い。なぜなら、あてにならない出生率回復に神頼みしている今この瞬間にも、少子化がもたらす最大の「危なさ」が、着々と進行しているからだ。
   子どもの数が減ると、何が危ないのか。しばしば指摘されるのは、以下の三点である。第一に、若年人口が減ると、教育、玩具、ブライダル産業など、若者や子ども向け産業が衰退する。第二に、将来の働き手(労働力人口)が減ると、高い経済成長を期待できなくなる。経済成長を測る指標のGDP(国内総生産)は、長期的には「労働人口×1人あたり労働生産性」で表すことができるので、労働力人口が減るとそれだけでGDPは減る。これに伴い国債の償還など、国家財政が不安定化しかねない。第三に、若年人口が減ると、人口が高齢化する。税金と年金の担い手が減り、年金や介護保険の受取り手が増えるために、現行の年金制度は不安定化する。というより、すでに破綻しかけている。
   本当のところ、私にも、「子どもが減っても、危なくない」と主張したい気持ちがなくはない。人口が減少すれば、日本人が地球環境に与えてきた負荷が軽減されるかもしれない。都市への人口集中や交通渋滞が緩和されるかもしれない。少し広い家に住めるようになるかもしれない。一人ひとりの子どもに、十分な手間暇とお金をかけて育てられるようになるかもしれない。若年労働力が減っても、若者の失業率は減るはずだし、女性や高齢者の雇用環境も改善されるかもしれない。外国人労働者を積極的に受けいれれば、労働力不足に対応できるかもしれない。仮にGDPが減少したとしても、1人あたりGDPが減りさえしなければ、現在の豊かさが奪われるわけでもない。
   しかしそれらは、かなり楽観的な予想である。前提を変えれば、あっという間に結論も変わる。たとえば仮に日本人が減ったとしても、他国、特に発展途上国の人口が劇的に増えれば、地球環境への負荷は大きくなる。人口が減っても、利用国土面積がその分減るのであれば、過疎地域は見捨てられ、都市部の人口過密や交通渋滞は解消されない。広い家にも住めない。一人ひとりの子どもは丁寧に育てられても、競争原理が働かず、学力崩壊が起きたり、グローバルな技術進歩についていけなくなるかもしれない。失業率は、全体としては減るかもしれないが、女性や高齢者や外国人労働者に働いてもらったとしても、現在の労働生産性が維持されるとはかぎらない。しかも外国人労働者に長期的に在住してもらうなら、彼らの年金権も当然認めなければならず、年金問題の解決にはならない。さらに1人あたりGDPが減らなくても、全体のGDPが増えなければ、財政収支の均衡は維持しがたくなる。
   だからといって、子どもを増やすことで問題を解決しようとするのは、かなり危うい。それはおそらく無理である。むしろ、子どもが減ることを前提としながら、少子化の弊害を、これからの日本が否応なく甘受せざるをえない負担・痛みとして、公平に分配するほうが、よほど重要ではないか。しかも現在の少子化対策は、「男女が、結婚して、子どもを産み、ともに仕事しながら子育てする」という、画一的なライフスタイルを前提とし、推奨しているが、子どもを産もうと産むまいと、結婚しようとしまいと、褒められることもけなされることもない、選択の自由が保障された社会こそ、私たちが目指すべき社会ではないだろうか。「子どもが減っても、危なくない」と大見栄を切るのではなく、子どもが減る「危なさ」を素直に認め、子どもが減っても危なくならない制度を、構想すべきなのである。出生率回復に神頼みするあらゆる政策は、こうした認識の浸透を滞らせ、隠蔽し、頓挫させかねないがゆえに、「反動」に与しかねない。
   選択の自由が保障された社会において発生する痛みと負担は、国民全体で公平に分配するしかない。とりわけ重大なのは、現在の年金制度における、巨大な世代間不公平である。少子化の「危なさ」の本質は、ほぼこの問題に集約される。昨年の年金改革を経てもなお、現役のときに納める額と引退してから受けとる額の比率(給付負担率)には、世代間で格差がある。また引退した高齢世代が、標準的な現役世帯の何%給付されるかを示す所得代替率も、今後徐々に下がっていく。どちらにしても若い世代、特にこれから産まれてくる世代は、圧倒的に不公平な状態に置かれることは間違いない。
   現在の年金制度は、勤労世代の所得を引退した高齢世代に再配分する賦課方式をとっている。1970年代初めに年金制度が確立した頃には、現役時代に積立てた額を退職してから取り崩す積立方式だったはずなのだが、この方式では制度発足当初には十分な年金額を受け取れない人が大量に発生する。ゆえに、現役世代からの拠出を当時の高齢世代に再配分することで、なし崩し的に賦課方式へと移行したのである。
   それが可能だったのは、高度経済成長のおかげである。1950年代から70年代までほぼ30年間、実質8%成長が続いたのである。しかし、そうした時代はすでに終わった。もう来ない。とすれば現在のように手厚い年金給付が、いつまでも維持可能なはずはない。高齢世代は、「自分たちは現役時代にきちんと年金を納めてきたのだから、高い年金を当然受け取る権利がある。年金は財産権である」と主張するかもしれない。しかしこれは積立方式の発想であり、賦課方式のもとでは通用しない。そもそも本当に積立方式を採用し続けてきたなら、現状ほど高い年金給付はありえなかったはずである。
   この点に関して原田泰は、「日本の年金を実質価値でスウェーデンなみにすれば、年金負担を引き上げる必要はない」と指摘している。「スウェーデンなみ」の高福祉を実現するのではない。その逆だ。日本の年金給付は、為替レートでみても購買力平価でみても、世界一高水準なのである。購買力平価では、日本はスウェーデンの約1.4倍(スウェーデン17.1万円、日本24.2万円)。よって年金給付を「スウェーデンなみ」の水準にカットすれば、新たな負担は必要ないのである(原田泰「人口減少と年金」『別冊 環9 脱=「年金依存」社会』藤原書店、2005)。またカットした年金を、少子化対策としてでなく、子どもが健康で文化的な生活を営む権利を保障するという観点から、「子ども手当」のような形で再配分するのも、世代間不公平を是正するうえでは有効な方法である。
   むろんこれは、政策的にはきわめて難しい選択となる。給付が減ることを喜ぶ人は、どこにもいないからである。だが現状では、どのように制度設計しても、給付は減り、負担は増える。個々人の損得勘定のみに基づいて判断するなら、いかなる改革案も頓挫せざるをえない。むしろ、選択の自由と負担の公平という理念に基づいて制度設計の是々非々を判断するよう、すべての世代に倫理的な判断を求めるべきなのである。
   この観点からすると、スウェーデンが導入した「みなし掛金建て」の年金制度は、有望なオプションである。この制度は、基本的には賦課方式で運営されているものの、所得比例に一元化されているため(最低保証年金はある)、負担と給付の関係が明確である。また受給年齢を61歳以降自由に決められることにすれば、選択の自由を阻害しない。また、少子化と低成長による運用利回りの低下を自動的に補正する仕組みを取り入れているので、低成長の痛みを、国民全体で公平に分担することになる。与野党による年金一元化を含めた協議が再開されるようだが、将来的には、この制度に移行することが望ましい。それは、非効率で不公正な少子化対策にすがりつくより、はるかに重要なことである。
   それができないなら、世代間の不公平はいつになっても解消されない。ひょっとしたら、未来の若年世代からの革命が起きないともかぎらない。それがもっとも「危ない」結末である。


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