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知の最先端


私たちは日々何かを「信じて」暮らしていますが、なぜ「信ずる」のでしょうか。あるいはなぜ「信じ」たがるのでしょうか。マスメディア、統計、常識、安全、健康、科学・・・・さまざまなレベルの〈信ずる〉を、各界気鋭の研究者に語っていただきます。


瀬名氏写真
社会を信ずるロボット、科学を信ずるヒト

瀬名秀明

せな・ひであき − 1968年静岡県生まれ。東北大学薬学部卒業、同大学院薬学研究科博士課程修了。薬学博士。東北大学大学院在学中の95年に『パラサイト・イヴ』で作家デビュー。小説、科学ノンフィクション、文芸評論など多彩な活動を繰り広げている。
著書に『パラサイト・イヴ』『BRAIN VALLEY』『虹の天象儀』『あしたのロボット』『ハートのタイムマシン!』ほか、共著に『「神」に迫るサイエンス』『ミトコンドリアと生きる』『科学の最前線で研究者は何を見ているのか』『知能の謎』ほか


   12歳から13歳にかけての一年間、父の仕事の都合で家族揃ってアメリカのフィラデルフィアに暮らした。私が通ったのはカトリック系の中学校だ。洗礼は受けていないので真似事に過ぎないが、クラスメイトと一緒にミサにも参列した。クラス担当のシスターは英語があまり話せない私を案じてくれたのだろう、宗教の授業のときは別室で英語でエッセイを書くようにと私にいった。どうやってアメリカに来たのか、好きなスポーツは何か、日本の家屋はどうなっているのか、毎回シスターから与えられるテーマを受けて、私は懸命に英語を綴った。シスターがいつも真摯に読んでくれて、ときには笑顔を見せてくれることがとても嬉しかったのだ。たぶんこのときの経験が、いまの自分に繋がっているのだろう。
   シスターは私が図画工作を好きなことも知っていた。クリスマスが近づいたある日、シスターは私を呼んで地下室に連れて行った。そこには小さな木馬があった。親戚の子にプレゼントをするから、ヒデアキ、あなたにペンキで着色してほしいといわれ、私はその作業に熱中した。フィラデルフィアはトム・ハンクス主演の映画でも描かれたように、アメリカ人にとっては古風で頑固な街の象徴であるらしい。だが私の中には温かな想い出だけが残っている。私は父と同じく科学者の道を目指し、その途上で物語を書く仕事に転向した。
   このところ翻訳刊行される進化学の一般解説書が、こぞって科学と宗教の対立を取り上げている。90年代にベストセラーとなって黒人差別だと社会問題化した“The Bell Curve”への反動だろうが、それだけでなく創造論や非科学的な宗教観に人々が傾倒してゆく社会の中で、目に見えない圧力のようなものを筆者たちが切実に感じ取り、何とかそれを押し留めたいと願い発するその声が、ページの向こうからはっきりと伝わってくる。私も最近は「もっとサイエンスコミュニケーションを」とスローガンを掲げる会合に呼ばれることも多いのだが、単なる科学離れといったレベルを超えて、海の向こうではもっと切迫した状況になっていたのだ。「信ずる」という人間の心の小さな働きが、いま巨大な怪物と化して社会を軋ませ、科学者たちを酷く怯えさせているように思える。
   例えば心理学者ニコラス・ハンフリーが著書『喪失と獲得』の中に、「子供に何を語ればいいのか?」という有名なエッセイを載せている。これは1997年度のオクスフォード・アムネスティ講演を文字に起こしたもので、当時はかなりの議論を呼んだに違いない。
   ハンフリーがアムネスティの人々を前にして述べたのは次のようなことだ。すなわち、子供には他の人間の誤った考えに晒されることで心がいびつになるのを拒む権利がある。そして私たち大人は、聖書が文字通り真実であるといったナンセンスな教えによって子供が惑わされるのをこれ以上許すべきではない。
   当然、幾つかの反論が想定される。科学の世界観だけが絶対的に真実であるとする理由はどこにあるのか。総体的価値観や文化的多様性を認めてもよいではないか。仮に科学の世界観が真実であったとしても、なぜそれがよりよいものだといえるのか。なぜ子供の権利ばかりを重視するのか。親が子を思う権利もあるではないか。ハンフリーは予想されるそれらの問いを一蹴する。これを心ではなく肉体の問題に置き換えてみよ。女性の割礼の文化を多様性のひとつとして認めてもよいではないか、割礼させてあげたいという親の権利もあるではないか……といい換えてみれば問題は明らかだ。子供の肉体を傷つける行為を正当化することはできない、なぜなら子供自身が判断できる立場に置かれたとき、無傷の肉体を選ぶだろうから、というわけである。ハンフリーは1960年代にアーミッシュ共同体を離れて徴兵された若者たちが共同体に戻ろうとしなかった事実を挙げていう。子供が自ら信念体系を選択できる機会を得たとき、とても選びそうにない体系を押しつけることは道徳的に間違っていると。
   しかしこの世のすべての子供を、間違った信念体系によって傷つけられることから守るにはどうすればよいのか。普遍的な科学的教育が必要だとハンフリーはいう。だが、それではなぜ科学だけが道徳的に正しく、他の信念体系ではだめなのか。それは「科学を学ぶことで、私たちは、なぜ私たちがあれやこれやを信じるべきなのかを学ぶ」からなのだとハンフリーは答える。科学とは、子供を自分自身で物事を考えるように誘う唯一の体系だというのである。科学を教えるということは、「誰かほかの人間の信念を教えることではなく、子供に、自分自身の信念に到達するための理解力を鍛えるよう後押しするものなのだ」と。
   凛とした主張で心を打たれる。もちろん講演の場を考えてみてもわかるように、ハンフリーの態度は挑発的だ。しかしそういったことを措いたとき、私は自然と頭を垂れたい気持ちになる。私もいつか自分の子ができたら、「迷ったときは科学を頼りにしてごらん」と自然に教えられるような親になりたいと思う。
   だがおそらく科学の現場ではもっと絶望的な溝が広がっており、宗教との対立を余儀なくされているのかもしれない。そのことは、ハンフリーが賞賛を寄せる進化学者リチャード・ドーキンスの著書『悪魔に仕える牧師』を読むと強く感じる。
   ドーキンスはこの著著の中で「信ずる」ことについて繰り返し述べている。例えば表題作となったエッセイでは、ダーウィン主義が政治を含め人間界の諸問題に敷衍されてきた歴史を強く憂い、自分は科学者としてはダーウィン主義を熱烈に支持するが人間としては反対すると宣言している。自然界の進化に人間的な意図など存在しないことを示す「悪魔に仕える牧師」の勧めは危険だとドーキンスはいう。だから進化に対する無知は人間に安全と幸福をもたらすだろう。しかし一方で、人間には他の動物にはない天賦の才がある。それは自然界の無慈悲な過程を理解できる才であり、それが持つ意味合いに反逆できる才だとドーキンスはいうのである。その才をもって危険に立ち向かうことで、人間は安全と幸福の代わりに成長と幸福を獲得できるのだ、と。
   それだけならいい。だが同著の巻末に収載されている一文、彼が10才の愛娘に宛てた手紙「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」の内容はどうか。ドーキンスは世の中に宗教を信じている人が多く存在することを述べた上で、しかし彼らには証拠がないことを娘に諭す。彼らは権威とお告げによって、あるいは単なる伝統を踏襲することによって、証拠もなしに無批判に宗教を受け継いでしまった。それはよくないことであり、だからこそわが娘よ、誰かがあることを真実だと告げたときには証拠があるのかと科学的に自分の頭で考えてみなさいと説く。子供は伝統的な情報の吸い取り紙だから、それを信じてしまうのを防ぐ手だてはない。なぜ多くの人が宗教を信じているのか。「たぶんきっと、人々が何でも信じてしまう幼いときに、信じるように教えられたからなのでしょう」とドーキンスは決めつける。
   しかし、そうだろうか。
   私の母は父と同じく薬学部を卒業したが、クリスチャンでもある。母は充分に分別のつく年齢になってから、カトリックの知人の気高さに共感し、自らの意思で洗礼を受けたのだという。私もその影響でカトリック系の幼稚園に通っていた。
   母はハンフリーが批判した人々と同類だろうか。母は道徳的に間違った信念体系を私に押しつけたのだろうか。母は神の証拠もなしにただの伝統から宗教を受け継いだのだろうか。ドーキンスの娘に批判されるべき人間だろうか。
   私はそうは思わない。
   信ずるとはいったいどういうことなのだろうか。

   「信ずる」という言葉を広辞苑第五版で調べてみると、次の三つの意味が記されている。
(1)まことと思う。正しいとして疑わない。「身の潔白を信ずる」
(2)まちがいないものとして認め、たよりにする。信頼する。信用する。「部下を信じて仕事をまかせる」
(3)信仰する。帰依する。「仏法を信ずる」
   同じ「信ずる」でもこの三つの感覚はずいぶん異なっているように思える。「科学を信ずる」といったとき、どの立場で発言しているのかによって、文意は大いに変わってくるはずだ。たぶん多くのリベラルな科学者の立場は(2)だろうと思う。(1)の意味で科学を信ずるというのは論争の火種になる。(1)の意味を用いるなら「科学の方法論を信ずる」とでもいい直すべきで、科学そのものをまことだと思い、疑わないという態度はおかしい気がする。(1)の立場をさらに強くすると、今度は(3)に近づいてくる。
   なぜ(1)や(3)がおかしいのか。その理由はすでにハンフリーやドーキンスの文章の中に記されている。科学には第三者がいつでも自由に結果を検証できるという優れた方法論が備わっており、科学者は自分自身が導き出した結果ですら他者と同様に再検証することができる。この特長を持つからこそ、ハンフリーは科学を唯一の道徳的な信念体系だと認めているのだ。となればこの科学の特長は、科学自身にも当て嵌まるだろう。科学者は自分自身を、あるいは自分が信じている科学という体系そのものを、同様に科学の方法論で検証しなければならない。自分自身で物事を考えるとはそういうことであるはずだ。このメタレベルでの検証なくして、科学そのものをまことと思い、正しいとして疑わず、信仰・帰依してしまうのであれば、私たちはその人の科学的態度を疑わなければならないのである。
   ドーキンスが『悪魔に仕える牧師』で指摘している「人間の天賦の才」とは、実はこういったメタレベルにおける自己検証能力、つまり自分自身を参照し、検証し、自分に働きかけることのできる能力、いわば「メタ認識」の能力なのだろうと思う。ドーキンスはそのことを知っていながら、宗教を信ずる者を科学の立場から批判している。だから居心地が悪くなるのだ。分子人類学者のジョナサン・マークスが著書『98%チンパンジー』の中でドーキンスの主張を「科学の自民族中心主義的プレゼンテーション」だと述べ、科学的でない言明であると真っ向から異を唱えているのも当然のことである。
   信ずることと自分自身を検証すること。ようやく論点が見えてきたように思う。このふたつの天賦の才を私たち人間は併せ持っている。そのことこそが、私たちの社会をこれほど豊かで複雑なものにしている理由であり、いま科学と宗教の間でこれほどの軋みを生じさせている原因であると私は考えるのだ。

   さて、ここでロボットが登場する。最近私は知能ロボットの研究者と話す機会が多いのだが、人間のような知能をロボットでつくりたいと願う彼らの目下の関心事は、どのようにしてロボットに「信ずる」という機能を与えることができるか、ということであるらしい。
   ロボットに何を信じさせようとしているのか。それは社会の常識であり、規律(ルール)である。
   ロボットはコンピュータのプログラムによって動く。となれば、何かの仕事をしようとするとき、自分が動くことで周りの環境がどう変化し、それが自分にどのような影響を及ぼすかを、あらかじめきちんと理解していなければならないはずである。来客にコーヒーを運んでゆくといった動作でさえ、厳密にはコーヒーカップを運ぶことで隣のポットがついてこないことや、いきなりコーヒーの味が変わらないことや、核ミサイルが落ちてこないことをあらかじめプログラムで知っておく必要があるわけだ。何がその仕事にとって関係があり、何が無関係なのか、つまり何が社会常識であるのかを、ロボットはいちいち知っておかなければならない。だがそれではプログラムの量が膨大なものになってしまう。これが1980年代から人工知能(AI)分野で盛んに議論されてきたフレーム問題と呼ばれる難問である。
   実はこの問題は先程までの話と密接に関わっている。一見このフレーム問題は、「特に記述しない事柄は無視せよ」というプログラムをロボットに与えることによって解決できるように思える。しかし見方を少し広げてみれば、まったく同じ問題が私たち人間にも備わっていることがわかるだろう。例えば自動車を初めて運転したときのことを思い起こしてほしい。目に見えるすべてのものが危険の前兆であるかのような気がして、一時も気が抜けなかったはずである。ただし私たちは何度も運転を繰り返すうちに、だんだんと慣れてきて情報を取捨選択できるようになる。おそらく私たち人間は、こういった作業を赤ちゃんのときから無数に繰り返して、社会常識を身につけてゆくのだ。しかしひとたび勝手のわからない環境に放り出されると、世界の記述が爆発してしまい、情報の取捨選択ができなくなって、パニック状態に陥りフレーム問題が顕在化する。
   では、なぜ私たちは普段フレーム問題に悩まされることがないのか。フレーム問題は消えてなくなったわけではない。私たちは擬似的にその問題を回避しているわけである。ネコやイヌもフレーム問題に悩んでいるようには見えない。これはなぜか。
   おそらくは、私たちが社会という環境を普段「信じて」いるからである。
   普段私たちはそれまでの人生で培ってきた経験や習慣を信頼し、ある程度その常識に判断を任せることで、細かいことにいちいち気を遣わなくても済むような脳の働きを採用しているのだ。社会のルールという幻想を信ずることで、物事をうまく端折っているのである。しかしひとたびその幻想が崩れ、常識が通用しなくなると、私たちは自分の行動に迷いが生じ、自分という者を意識的・抽象的に考えざるを得なくなる。このとき何が起こっているか。私たちは普段の視点ではなく、いわば神の視点から自分を見下ろし、論理的に自分を検証しようとし始める。メタ認識の機構が意識上に顕現するわけだ。ドーキンスがいうように私たち人間はこの能力を与えられている。だからこそフレーム問題に悩まされるのである。
   これは世界の捉え方の問題なのだ。ロボットはそれまでの人工知能研究の経緯から、信ずるという心、すなわち常識を身につけてそこに判断をある程度委ねるという能力を置き去りにしたままに、いきなり大人の人間と同等の知識を持つことが要求されてきた。だからこそうまく環境に適応できず、膨大なプログラムを必要とする羽目になった。一方、私たち人間は、信ずるという能力によって社会生活を営んでいるが、もうひとつの天賦の才を持つが故に、ときとしてフレーム問題の陥穽へと引きずり込まれる。

   私は母が教会に出掛けるところを見た憶えがない。母は洗礼を受けていながら、浄土宗の父と共に暮らし、宗教とはほとんど無縁の生活を送っている。特定の宗教に帰依しながら、その信仰にさほどのめり込まない人がいる。そういった人たちは信仰心に薄いのだろうか。母は何のためにカトリックであり続けているのだろう。
   おそらく母は、信ずることで日常を手に入れたのである。私たちが赤ちゃんのときから試行錯誤を繰り返し、何を信ずればよいかを学んできたように、母はキリスト教を信ずることによって、自分自身で物事を判断できる能力をもうひとつ手に入れたということなのである。そのように宗教を信ずることは、決して科学の方法論と相反するものではない。人は宗教を信じながら、かつ科学を信ずることができる。科学を信頼することができる。もちろん、この意味で宗教を信じ、科学を信じ続けるためには、本当の「人間らしさ」が必要となる。心身が弱ったとき、先に示した(1)や(3)の意味で科学を信じる方向に転換し、バランスを崩してしまうこともあり得る。だが私たちの天賦の才は、ここでは確かにドーキンスのいう通り、自らを検証し続けてゆくこともできるのだ。まさに科学を信ずることによって。
   私は今年で37歳になる。13歳のときにフィラデルフィアを離れてから、残念なことに一度もその地を再訪する機会がなかった。私に作文の課題を与えてくれたあのシスターが存命なのかさえわからないが、もし叶うことならあのシスターに、もう一度会いたいといま無性に思う。私が小説を書くようになったことを、科学の本を書いていることを、自らシスターに伝えたいのだ。



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