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知の最先端


私たちは日々何かを「信じて」暮らしていますが、なぜ「信ずる」のでしょうか。あるいはなぜ「信じ」たがるのでしょうか。マスメディア、統計、常識、安全、健康、科学・・・・さまざまなレベルの〈信ずる〉を、各界気鋭の研究者に語っていただきます。


植島氏写真
ギャンブルのすべて

植島啓司

うえしま・けいじ − 1947年東京生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院人文科学研究科(宗教学専攻)博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学。1980〜2002年、関西大学講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。
著書に『オデッサの誘惑』『分裂病者のダンスパーティ』『宗教学講義』『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』ほか多数。


ラスベガス

   つい最近のことだが、別に何の用事もないのに、わざわざラスベガスまで出かけていってしまった。あまりお金もないし、さらに仕事に追われて時間もないのに、ふと気がつくとラスベガスだのマカオだのにいる。いや、そうはいっても、ギャンブル依存症というわけでもない。もちろんカジノに着けば、だれよりも長くテーブルに座っているが、カジノがなくてもそれはそれで別にかまわない。楽しいことなら他にもたくさんある。
   しかし、これまでにも、ラスベガスやマカオに着くと1泊4日という感じで、全然眠らないで過ごすことが多かった。ほとんどカジノのテーブルから離れることはなかった。しばしば女の子3人を連れてカジノに出かけることもあったが、ホテルの部屋はひとつだけ、みんなでローテーションでシャワーを浴びたり仮眠をとったりしながら過ごすのだった。この話を聞き知った連中には「いいですね、女の子3人と同室で」とか言われるが、当然のことながらみんなが期待するようなことはまったく起こらない。ぼくは余程のことがないかぎり部屋には戻らないし、女の子たちもみんなそれを知っている。
   まあ、そんなわけで、ラスベガスのカジノには特別詳しいのだが、ラスベガスについて他に知っていることは皆無といってよい。だが、今回ロスの友人に、30年以上も通っているのに、いわゆる「バフェ」も知らないのかと言われて、ついに「バフェ」というものに出かけてみた。バフェとは、いわゆるバイキング式ビュッフェのことで、10ドルくらい払うと、いくらでも自由に飲み食いできるのである。ラスベガスならではの大サービスだ。もちろんその存在くらいは知っていたが、いつも人がいっぱい並んでいてうっとうしいので、これまではなるべく近づかないようにしてきたのだった。だいたいギャンブラーがバフェに並んでいたりしたら、まったくサマにならないではないか。
   しかし、今回はちょっと覚悟を決めて、カジノの合間にいろいろなバフェに出かけてみた。ここでそんな報告をしても仕方がないのだが、ルクソールの「ファラオズ・フィースト・バフェ」だけは一度訪れる価値があると思った。以前、ルクソールに泊まった時は、まだ工事中ということもあり、まったくいい印象がなかったのだが、久しぶりに訪れてみるとなかなかよくできたホテルだった。うっかり悪口など書くものではない。



バハマの若い女
   さて、そんなわけで、ラスベガスに到着して、サーカス・サーカスのルーレットのテーブルについた時、なんだかとてもなつかしい気がした。ここは、一日中サーカスをやっていて、ルーレット・テーブルのはるか上を半裸の美女が空中ブランコで飛ぶのである。やや気は散るものの、それはそれでみごとに楽しい。ラスベガスに着いた初日に眠いのをがまんしてブラックジャックをやり、わずかな時間に1000ドル勝ったので、気分をよくしてルーレットに向かったのだが、ここではなんとその10倍も負けてしまった。まだ途中経過とはいえ、お金がなくなるとたちまち気分も沈んでくる。
   それで思い出したのが、1997年のバハマ(パラダイス・アイランド)での出来事。そのときも眠くて眠くて限界だったと記憶している。ぼくはすでに長い間ルーレットに興じていた。カジノにはそんなに人の姿が多くなかったので、おそらく時間はすでに深夜0時を回っていたかもしれない。バハマの若い女がひとりでぼくらのテーブルにやってきた。ふてくされたような表情だが、ブルーのパンタロンスーツを着ていて、身なりからするとかなりお金は持っていそうだった。
   彼女はテーブルにつくと、バッグから無造作に300ドル取り出し、それを5ドルチップ60枚に替えた。そして、ルーレットが回り始めるやいなや、5,6枚ずつ10ヶ所ほどの数字にばらまいたのだった。すべてワンナンバーだから36倍の配当だ。その様子からして、いやでもみんなの注目を浴びることになる。全員が賭け終わり、ルーレットの回転が遅くなり、そして玉は彼女が賭けていない13に落ちた。彼女は低くうなるような声を出して、またバッグから300ドル取り出して、同じようにテーブルに投げた。
   クルピエ(ディーラー)はそれをていねいに引き伸ばしてから5ドルチップ60枚に替え、うやうやしく彼女のほうに押し出した。彼女は黒人で尻が大きくせり出しており、なまめかしい唇をしていた。テーブルのだれもが見て見ぬふりをしながら、彼女の一挙手一投足に注目していた。
   しかし、彼女はそんなことにはまったく無頓着で、5ドルチップを同じように盤上にばらまいてしまう。みるみるテーブルが活気づき、ほとんどの数字がだれかのチップで埋め尽くされてしまうほどになった。ルーレットは回る。そして、みんなが息を呑んで見守るうちに、玉は23に落ちた。またもやたまたま彼女が賭けていない数字だった。それだけならいいのだが、その場のほぼ全員がその数字をはずしてしまったのだった。こんなことは珍しい。
   さらにテーブルは活気づく。彼女を見ると、さらにバッグから300ドル取り出して、クルピエに向かって投げた。クルピエは彼女にやさしく声をかけた後、その100ドル札3枚を同じく60枚のチップに替えた。みんなが様子を見ているのを前に、彼女はそのチップを同じく10ヶ所以上にバラバラに賭けた。それを見た客はそれぞれ空いた数字がないほど全部の数字に賭けたのだった。ぼくも彼女の数字を避けて、数ヶ所にチップを置いた。
   ふたたびルーレットが回り、みんながルーレット盤をのぞきこむようにするうちに、最後のひところがりで先ほどと同じ23にとまった。大きなどよめきが起こって、チップのやりとりが始まると、彼女は小さくののしりの声をあげてから、クルピエに短く声をかけた。どうやら小切手の交換場所を聞いたようで、彼はていねいに彼女に教えて、「できればご案内しましょうか」という仕草まで見せた。
   それを断って、彼女がテーブルを離れると、ルーレットの周囲はすっかりさびしくなってしまった。そろそろ引き上げ時だとだれもが感じていた。ぼくの隣の男は「おれが1週間かかって賭ける金額を彼女はわずか5分で使い切ってしまったよ」とつぶやいた。そして、予想どおり、彼女はそのまま戻ってこなかった。


自分以外の力

   意外に聞こえるかもしれないが、ギャンブルでもっとも大切なことは〈信じる〉ということだ。ギャンブルでは何事でもそうなのだが、あることを信じると、別の思ってもみないことがすぐに起こる。そして、それに対抗できる別のシステムを考えると、またそのシステムから漏れるような結果が出てくる。つまり、いつまでたっても、事態はよくはならない。なにかを信じると必ず負けるわけだから、では、なにも考えないで賭けたほうがいいのだろうか?
   一生懸命に必勝法を考えても、なにも考えない人間と似たような結果しか出ないとすると、だれでも必死に考えるのがイヤになってくる。適当に楽しくやれればそれで十分ではないか。ギャンブルでは胴元がいるかぎり、他に勝者など出てくるはずがない。そんなことはわかりきったことである。
   しかし、ここが重要なところなのだが、なにかを信じても勝てるとは限らないが、なにかを信じないで賭ける人間はほぼ100%負けてしまうのである。先ほどのバハマの女の例でもおわかりのとおり、ふらっとルーレット台にやってきて、適当に運まかせで賭けて当たるほどギャンブルは甘くない。たとえ確率5分5分のところに賭けたとしても、適当にばらまいたら必ず負けるようにできている。それがギャンブルなのだ。
   10年前のことだったか、イタリアのヴェネチアのカジノでのこと、バカラのテーブルで勝負していたことがある。バカラはカードを2枚(または3枚)配って、その合計が9だと最高、0だと最低という極めて単純なギャンブルだ。もちろん、ご存知だと思うが、カードの合計が10だと0、13だと3、17だと7となる。バンカーとプレイヤーの2手に分かれて戦うのだが、もっとも大きな金額を賭けた者が代表してカードを引くことになる。そのときもゲームは淡々と進んでいた。
   その時、ひとりの貴婦人がバカラのテーブルにやってきた。とてもバカラで遊ぶような感じではなかったが、彼女はテーブルにつくやいきなりプレイヤー側に大金を賭け始めた。バカラでは、カードを引くときに毎回カードがダメになるほど思いっきり念を込めて引くことになっている。その様子はちょっと異様だ。どんなに必死の形相で引いてもカードが変わるわけではない。それなのに、バカラではその引きの強さが勝敗を決するとだれもが信じているのである。
   ところが、その貴婦人は、相手が必死にカードを引いているのを横目に、さらっとカードを開いてしまうのだ。「あらっ、3だわ」「今度は5だわ」といった具合。そして、驚くことに彼女の側、つまりプレイヤーの側は、彼女が引きはじめてからなんと全敗で、あっというまに彼女も数万ドル失くしてしまったのである。周囲の連中が
ほとんど憎悪に近い表情で彼女を見送ったのをいまでもよく憶えている。
   不思議といえば不思議なことだ。しかし、確率が同じだとすると、勝負の差は〈信じる〉か〈信じない〉かによって決まってしまうのだ。ほぼ30年もカジノで賭けつづけているぼくが言うのだから間違いない。たとえば、ルーレットでも、「この流れだと、次は必ず23がもう一度出る」とか、「出目が散っているから、しばらく大きく賭けるのはよそう」とか、「この調子だと30以上の大きい数字は 出ないだろう」とか、テーブルについているといろいろなことがわかってくる。そうした直感に導かれつつ勝負を賭けなければ、いつまでたっても運まかせの初心者のままでいなければならない。
   そして、このことはおそらくわれわれの人生にもそのまま当てはまるのではなかろうか。別になにか特別な信仰を持てというのではない。ただ、自分の力だけで勝負できると思っているうちは、とてもじゃないが本当の勝利にはたどり着けないだろうと言いたいのだ。われわれはいかなる戦いにおいても自分以外の力をつねに必要としているのである。



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