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知の最先端


私たちは日々何かを「信じて」暮らしていますが、なぜ「信ずる」のでしょうか。あるいはなぜ「信じ」たがるのでしょうか。マスメディア、統計、常識、安全、健康、科学・・・・さまざまなレベルの〈信ずる〉を、各界気鋭の研究者に語っていただきます。


稲葉氏写真
Photo:鈴木理策
SFという信仰

稲葉振一郎

いなば・しんいちろう − 1963年東京生まれ。一橋大学社会学部卒業、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。岡山大学助教授、オーストラリア・モナシュ大学日本研究センター客員研究員等を経て、現在は明治学院大学社会学部助教授。専攻は社会倫理学。
著書に『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』『リベラリズムの存在証明』『経済学という教養』など


   最近「SFという態度」について考えている。
   「SF」と言えば普通は大衆文芸(ならびに同様のテーマを扱う映画だのまんがだのなんだの)の一ジャンルと理解されているし、もちろんそれは間違いではない。しかしその一方でSFの当事者たち――SFの作り手たち、愛好者たちはそれにとどまらず、SF作品を作り、楽しむことを可能にする――というより、やむにやまれずそれを作り、楽しむことを欲してしまうある種の考え方、感性そのものの何たるかについてこだわり、悩んできた。それは時に「SFとはひとつの世界観である」というアジテーションともなり、あるいは「センス・オブ・ワンダー」なることばをも生んだ。
   それゆえここでも考え方、感性、つまりは世界に向かい合う時の姿勢の取り方として「SF」を理解してみよう、というわけだが、それにしてもこれは一体どういう態度なのか。
   それを考えるためにはやはり小説をはじめとするフィクションというもの、それに対して人がとる態度、そしてフィクションがあってはじめて可能となる、現実(フィクションと対比された意味での)に対する人の態度について考察しておくことが必要だろう。


   とりあえずSFをここでは「「現実世界とあるところで連続線上にある異世界」を舞台にし、のみならずその異世界の「異質」さを作品の基本テーマの少なくともひとつにするフィクション」と暫定的に定義しておくが、では一体そもそも「現実世界」とは何なのか?そこでまず「リアリズム」について考えておかなければならない。
   乱暴に言えば近代世界における典型的なフィクションの様式は「リアリズム」である。しかしリアリズムとはなんだろうか?とりわけ、小説であれ映画であれなんであれ「リアリズム」と見なされている作品において描かれる、作中世界とはなんなのだろうか?たとえば神話や民間伝承、あるいはファンタジーやSFなどと対比して、リアリズム文芸(とか映画とかまんがとか)は現実世界を描く、とはよく言われる。しかしそもそもフィクションは基本的に虚構、真実ではないこと、ではなかったか?
   そう「リアリズム」の小説やまんが、映画などの場合にも、その中で虚構の出来事や虚構の人物、その他虚構の、現実には存在しないものが描かれているには変わりない。しかし普通「リアリズム」作品においては、「作品世界」なるものが問題になったりはしない。通常「リアリズム」小説やまんがの「作品世界」は、まさにこの「現実世界」そのものであるとされる。なぜか?
   おおざっぱに言うと「リアリズム」のフィクションにおける作品世界は、その基本的な構造においてこの現実世界と変わるところがない。何をもって「基本的な構造」と呼ぶかにはいろいろと曖昧なところがあるし、実際、文学の歴史の中でもそれについての了解は(それこそSFの影響もあって)どんどん変わってきている。が、一応以下の程度のことは言えるだろう;

   「リアリズム」の作品世界においては、まず何よりこの現実世界と同じ物理法則が支配している。それだけではなく、舞台となっているのもこの地球であり、その地球が経てきた歴史も、少なくとも人類登場以前の地質学的・古生物学的オーダーについては現実世界とまったく変わらない。そして人類史のオーダーにおいても、マクロレベルにおいてはこの現実世界と変わらない。おおざっぱに言うと「その公共世界の歴史においては、この現実世界と変わるところがない」というのが「リアリズム」の作品世界である。「リアリズム」の虚構は公共世界のレベルにではなく、その陰のローカルな私的世界な世界の中に息づく。登場する虚構の、現実世界には不在の登場人物は基本的には無名の私人であり、公共世界において、歴史に名を残すような著名人として活躍することはない――。

   もちろん以上は、あくまでも極限的な理念型、ひとつの典型であって、ここから逸脱しながらも「リアリズム」作品と認められているものはたくさんある。主人公が大政治家とか、大芸術家などの「有名人」となる物語はいくつでも挙げることができる。しかしある時期までは、政治や歴史、公共世界のレベルで物語を展開させる「リアリズム」文学のほとんどは歴史小説、つまり既に確定した過去の歴史的事実を題材とし、それを物語的に加工するという戦略をとるものであって、架空の歴史、虚構の政治的重大事件を正面切って物語る作品は、20世紀後半になるまであまり書かれなかった。書かれたとしてもそれはたとえばスパイ・スリラーとして、公表されない闇の歴史として描かれるのがせいぜいであった。(やや先走って言うなら、「表の政治の裏側でうごめく陰謀の物語」としての古典的スパイ・スリラーの域を越え、虚構の大事件を「表」の政治レベルまで含めて描く、今日的な、おおざっぱに言えばフレデリック・フォーサイス以降の国際謀略小説というジャンルに先鞭をつけたのも、実はSF作家たちだったのである。)
   つまりリアリズムのフィクションの主題は通常、「世界」そのもの、そのシステム、構造の方にではなく、世界の中の個別の出来事、より具体的に言えば人間たちの生、その行動と心理を描くことにこそある。もちろん世界そのものを描くことよりも、そのなかでの登場人物たちの活躍を描くことを主たる課題としつつも、その作品世界を、基本的な構造レベルにおいて、現実世界とは大いに異質なものとして作り上げることは十分に可能である。しかしそうした架空世界の構築は、もしそのフィクションの中心的な主題があくまでも人間を、人間的な出来事を描くことにこそあるならば、言ってみれば「余計な努力」である。この「余計な努力」の負担は物語の作者に対してのみならず、読み手、受け手に対してものしかかる。
   つまりこの解釈によるならば、リアリズム小説や映画が、「現実世界」と些細なところでしか食い違わない世界を舞台とする理由は、基本的には効率の問題である、ということになる。作者が主題的に描き、受け手が享受したいものが登場人物たちが織り成す出来事の物語であるならば、その出来事の舞台となる世界の構築やその理解については、余計な労力を省けた方がいい、という。こう考えるならばリアリズムにとって、「現実世界」と基本構造において変わらない作品世界は、必然的、あるいは積極的に選ばれているわけではない。その選択はせいぜい蓋然的なものであり、かつ消極的なものである。言い換えるならばリアリズムの「リアリティ」とは、まずもって登場人物の行動や心理の「リアリティ」なのであって、「作品世界が現実世界と同一(というより同質)であること」ではない、という意外な結論が出てくる。
   他方これに対して、古典的なSFのテーマは、人間を描くことにではなく、個々のものごとではなくそれらを包括する世界そのもの、ことにその基本構造において現実世界とは異質な、別の世界を描くことにこそある、と言っても間違いではない。SFにおいては焦点が、世界の中の人間的な出来事、にではなく、世界そのものの方にあるがゆえに、リアリズムと反対に、人間を描くことが二の次になる、といってしまっても、当たらぬといえども遠からずだ。
   つまりSFはリアリズムとは異なる独自の「リアリティ」(あるいはこういって悪ければ「説得力」)の基準を持っている。リアリズムの「リアリティ」が「このような人間がいても不思議ではない」というところにあるとすれば、SFの「リアリティ」は「このような世界が存在していても(世界が実はこのような形をしていても)不思議ではない」というところにこそある。

   しかしながら、このような意味での「リアリティ」(ないし「説得力」)ある異世界を構築し、描写することが古典的、正統的なSFの基本テーマである、と言いきってしまうのもややためらわれる。まず第一に、全体としての「世界」を強調しすぎることは危険である。この点にこだわりすぎると、一般的なヒーローまんがのように、またあるいは、70年代頃までのSF作家たちが、一般小説雑誌にゲスト出演した際にものした作品のように、リアリズム的な現実(と同質)の世界の中に、一点豪華主義的に異常な事件、異常なキャラクターが登場するタイプのSFは正統的、本格的ではない」ということになりかねない。しかし必ずしもそういうわけではない。このようなリアリズム的世界を舞台としたSFにも優れた古典と見なされている作品は多数ある。ではここでのポイントは何か?
   むしろ普通に考えれば、SFの主題は「異世界」よりも「異常な事件」である。ただしその異常性が、人間的、人間関係の水準にではなく、世界の基本構造の水準における異常性である、というところがミソである。SFは作中で描く「異常な事件」を異常なままに放置するのではなく、それに理にかなった解明を与えようとする。ただしその解明が、たとえば推理小説であれば、最終的には人間的な水準に還元することでなされるのに対して、SFにおける解明は、それを異世界の、現実世界とは異なった法則性に還元する。もちろんこれはうんと卑俗には「宇宙人の陰謀」といったレベルも含むし、また「世界は実は我々が思うのとは別の形をしていた」「世界には我々のいまだ理解していない別の理がはたらいている」という理解ともなりうる。
   だからSFのSFたるゆえんを「異世界」に求めるのは、間違いではないにせよ誤解を招く言い方かもしれない。「その背後に「異世界」の存在を予感させるような「異常な事件」こそ、SFならではの主題である」と言った方がより正確だろう。
   また第二に、SFも普通のフィクションとして、物語の体裁をとることが普通である。もちろん文学史を省みれば、物語形式ではなく、架空の博物誌や報告書の体裁をとったSF、ファンタジーはいくつか見られるし、最近ではアニメ、まんが、ゲームなどで「設定資料集」が独立した商品として流通するようになってきてもいる。しかしそれでもやはり、圧倒的に支配的なのは物語形式であった。つまりSFにおける「異常な事件」「異世界」は、人間ないし人間にとって理解可能、感情移入可能な心ある存在の体験の物語を通じて、描き出されるのが普通だったわけである。
   だからSFは(ファンタジーも)リアリズムの小説、まんがなどに比べてやや不利である。つまりSFは読者に理解し楽しんでもらうためには、もっぱら世界の構築と描写に専心するわけにもいかず、キャラクターの織り成す物語にも応分の努力を注がなければならない。そのため焦点が拡散しがちなのである。

   さてその上でまだ考えておかねばならないことがある。それはSFとファンタジーとの違いにかかわっている。もちろんその違いは程度の違いではあるとは言え、しかし方向性や力点の違いという意味でなら確実に存在する(そもそもリアリズムと非リアリズムとの相違自体が、程度の問題なのだ)。
   先にぼくは「正統的なSFの「本質」とは「現実世界とあるところで連続線上にある異世界」を舞台にし、のみならずその異世界の「異質」さを作品の基本テーマの少なくともひとつにする、というところにある」と書いたが、ここまで「異質」さの問題については論じてきたものの、「連続線」については触れてこなかった。暫定的にだが、ぼくは「SFとファンタジーの違いとは、この「連続線」についての意識の違いである」と考えている。
   そもそもぼくたち人間には「現実世界とあるところで連続線上にある異世界」ではないような虚構の異世界など、想像/創造することはできない。どのようにとっぴでわけのわからない架空世界を構想できたところで、それを構想したのは他ならぬ人間の力である限りは、その「異質性」とはせいぜいその程度の異質性だ。つまり、人間に想像できる程度、そして理解できる程度の「異質性」でしかない。
   だからファンタジーもまたSFと同様に「異常な出来事」「異世界」を主題とするが、それとSFとの違いは、SFが「現実世界と連続線上にある異世界」を描くのに対して、ファンタジーは「現実世界と断絶した異世界」を描く、というところにあるのではない。ファンタジーの異世界もまた「現実世界とあるところで連続線上にある」ことに変わりはない。しかしながらファンタジーにおいてはこの「連続線」、つまり架空の作品世界たる異世界とこの現実世界との関係が、少なくとも正面からは主題化されない。それに対してSFにおいては、異世界そのもののみならず、それと日常的現実世界との関係もまた、作品の主題となる。あるいはSFにおいては、複数の世界をそのうちに含むメタ世界(たとえば、複数の星に複数の文明を抱えている宇宙)が主題となっている、と言ってもよいだろう。それはもっともわかりやすい形では、宇宙テーマや未来社会テーマのSFにおいて示されている。そこでは異世界は、ただ単に現実世界と論理や法則性を共有しているというだけではなく(ファンタジーの異世界も全てこの点では同様である)、同じ空間の中でのはるか遠方や、あるいは時間的な将来といった形で、現実世界のまさに物理的な延長線上に成り立ちうるものとして想像されている。仮に異世界が「異次元」に設定されていても、その「異次元」の存在する時空的な位置とか、それと現実世界との間のリアルな関係とかが想定されていれば、結局は同じことだ。
   これは「SFの想像/創造する異世界は実現可能であるのに対して、ファンタジーの想像/創造する異世界は実現不可能である」という意味ではない。実際には多くのSFで描かれる異世界はまったく実現不能であろうし、また逆にファンタジーとされている作品の中にも、実は実現可能な異世界やものごとが描かれていないとも限らない。そうではなく、ここで問題としているのは作品と書き手の志向、目指している方向のことだ。古典的、正統的なSFの書き手は頭のすみのどこかで実現可能性や実在可能性にこだわっているが、ファンタジーの書き手はそもそもそれについてこだわりを持たない、というほどの意味だ。

   では、ファンタジーにとって異世界とは?
   まず「ファンタジー」という言葉はものすごく問題含みなので、ここでまず「ファンタジー」と呼ばれているものを、おおざっぱに二つに分けてしまおう。ひとつは今日においてエンターテインメントのひとつのジャンルとして定着してしまったファンタジー、一言で言えばトールキン『指輪物語』に、というよりもそれに範をとったロール・プレイング・ゲーム(その本来の起源は「卓上」でなされる即興劇とも言うべきテーブルトークRPGにあるわけだが、そこからの派生系としてのコンピュータRPG、そして近年のネットワークRPGをも含む)をその典型とする、異世界を舞台とする物語群である。それは「ハイ・ファンタジー」や「ヒロイック・ファンタジー」といったサブジャンルからなり、ロール・プレイング・ゲームにおいては標準的フォーマットとして君臨し、更にヤングアダルト向けライトノベルやまんがにおいても一大勢力を作り上げている。(少なくとも日本について言えば、ライトノベルやまんがにおけるファンタジーの多くは、RPGを模範として作られている。大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社現代新書、など参照。)こちらを仮に「ジャンル・ファンタジー」と呼ぼう。佐藤亜紀のシニカルな言い方を借りれば「D&Dリプレイ小説」である。(「D&D」とはテーブルトークRPGの元祖Dungeons and Dragonsの略称である。)トールキンの言う「妖精物語」もおおむねここに含まれる。
   実は先にSFとの対比において述べた「異世界の実現可能性・実在可能性への無頓着」という特徴づけは、基本的にこれらジャンル・ファンタジーを念頭においてのものである。もちろんそれらもまた、隣接ジャンルであるSFと同様、異世界を舞台とする、あるいは背後に異世界を予感させる異常事件をテーマとするものである。しかしSFの場合とは異なり、ジャンル・ファンタジーにとって異世界とはただそこにあるもの、それ自体を、そこに展開する出来事の物語を楽しめばすむものであって、それについて、とりわけそれと現実世界との関係についてあれこれ考えたり悩んだりするようなものではない。これに対してSFではまさに、この「作中に描かれる異世界と現実世界との関係」こそが中心的なテーマになる――少なくとも「正統的・本格的なSF」においては。
   これに対してエンターテインメントとしてのジャンル・ファンタジーとは区別される、「幻想文学」、あるいは(ことにまんが、映画、アニメなど映像作品をも念頭に置くならより広く)「正統的・本格的ファンタジー」と形容するのがふさわしいようなファンタジーもまた確実に存在する。こちらの定義づけはジャンル・ファンタジーに比べて格段に難しくなってしまうが、ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(創元ライブラリ)における「幻想文学litterature fantasitique」の定義を参考にすれば、とりあえず以下の程度のことは言えるだろう;

   トドロフによれば「幻想文学」は読者に「ためらい」を引き起こすという。それを本論での文脈において敷衍するならば、「幻想文学」は異世界あるいは異常な事件を描写しつつも、それが果たして現実の存在、現実の出来事なのか、あるいは語の本来の意味での「幻想」、不在の非現実についての幻覚、錯覚、妄想であるのか、を明らかにはしない。
   このように考えることは必ずしも「「幻想文学」とは結局、「幻覚・妄想文学」つまりは心理小説の一種である」ということにはならない。トドロフもそのあたりの危うさを強調しているが、もしそこでの幻想、不思議な出来事、不思議な世界が幻覚、妄想であるとはっきり結論が出てしまえば、それはたしかに心理小説であろう。肝腎な点は、結論が出ない、という点にこそある。そしてこの意味では、ジャンル・ファンタジーの方こそ、単なる心理小説としての「幻覚・妄想文学」に近いのである。なぜならそこに結論ははっきりと出ている。不思議な出来事、不思議な世界は、まさにそのとおりのものとして実在しているのであるから。
   この意味では「幻想文学」、あるいは正統的・本格的ファンタジーは、ジャンル・ファンタジーのみならず、SF、そして普通のリアリズム小説と比較したとき、隔絶した特異性を持っていることになる。既に見たように、リアリズム小説でさえ、厳密な意味では「現実世界」を描いているわけではない。「現実世界と些末なところでしか違わない世界」を舞台に、架空の人物、架空の出来事を描く。SFやジャンル・ファンタジーの場合は、よりはっきりとした異世界を舞台にする。しかしどちらにせよ、注意すべきことは、普通のリアリズム小説、そしてSF、ファンタジーの場合は、その物語の水準においては、これら作中の架空世界はまさに実在しているものとしてあつかわれている、ということだ。(これは非常におおざっぱに言えば、作品内で描かれる出来事について真理値(真か偽か)を割り振れる、つまり「ウソ・ホント」の区別がつけられる、ということである。)ところが正統的・本格的ファンタジーにおいては、この約束が破られている。語られ、描かれる世界や出来事は、その物語の水準においてさえ、現実であるのかどうかさだかではないのだ。(つまり作中の出来事について「ウソ」とも「ホント」とも言い切れない。)こう考えるなら正統的・本格的ファンタジーとは、むしろ20世紀になって登場してきたある種の前衛小説、とりわけメタフィクション的構成をとる作品群の方にむしろ近い、ということになる。

   さて以上のように「幻想文学」、あるいは「正統的・本格的ファンタジー」を定義づけるとするならば、「正統的・本格的なSF」とは一体どのようなものとして見えてくるだろうか。
   上で「正統的・本格的ファンタジー」に対比する形で、ヒロイック・ファンタジーや『指輪物語』、あるいは『ハリー・ポッター』などを念頭において「ジャンル・ファンタジー」という括りを行ったが、それに対応する形で、SFにおいても「正統的・本格的SF」と「ジャンルSF」という対比を行うことができるだろう。
   SFは基本的には、「正統的・本格的ファンタジー」やある種のメタフィクションとは異なり、作品において描かれる架空世界が「現実」――作品内現実であり、作品の語りの水準では実在することを疑わない。本格SFにおけるこだわりはこうした「現実」の不確かさによりは、むしろ宇宙や未来や異次元という風に設定された異質な「現実」と、作者と読者の生きる「現実」との間の距離や関係にこそかかわっている。SFでは作品世界が作品内現実であることは疑われない。本格SFにおける問題は、その「現実」が一体どのような現実なのか、だ。
   そしてジャンル・ファンタジーと同様、(ほとんどのスペースオペラを含む)ジャンルSFの多くもまた、このようなこだわりの希薄さによって定義することができる。ほとんどのジャンルSFにおいては、作中に描かれる架空世界や異常な出来事と、我々が生きるこの現実との関係が生真面目に問われることはない。それはある意味でファンタジーに接近している。と言うより、ジャンルSFとジャンル・ファンタジーは、頻用されるガジェットが異なるだけで、質的にはほとんど異なるものではないのだ。どちらの舞台も、お約束で出来上がった箱庭、遊園地なのである。
   以下わかりやすく図示してみよう。

  作中世界の現実性への懐疑
濃い 薄い
作中世界の
実現可能性
へのこだわり
濃い (メタSF?) 本格SF
薄い 幻想文学
メタフィクション
ジャンルSF
ジャンル・ファンタジー

   カッコに括った上でクエスチョンマークまで付した「メタSF」というカテゴリーは、あくまでも暫定的なものである。二つの軸を掛け合わせれば4つの象限が機械的に作れてしまうが、この4つのカテゴリーに当てはまるものがすべて実際に存在しているかどうかは別の問題である。普通はひとつの作品の中で、本格SF的な志向と幻想文学的な志向が同時に追求されることはあまりない。焦点がボケてしまうからだろう。あえて言えばSF的なガジェットによって、現実感覚を崩壊させていくキャラクターたちを描いたフィリップ・K・ディックあたりが、典型的な「メタSF」の書き手ということになるだろうか。
   こうしてみると、一見逆説的だが、ジャンル・ファンタジーとジャンルSFは、誤解を招く言い方になるが「万人向け」の娯楽である。もちろんジャンル特有の約束事という敷居はあるが、それをいったん超えてしまえば非常に簡単に楽しめる。媒体が小説やまんがではなく、RPGという形をとれば、その特質はより一層明らかとなるだろう。それは架空世界を舞台とするごっこあそびmakebelieveなのだ。
   もちろんジャンル・ファンタジーとジャンルSFにはもうひとつの読まれ方がある。つまり寓話、アレゴリー、たとえ話として、だ。架空世界での出来事が、我々の現実世界についてのアレゴリー、寓意として読み取れるように多くのファンタジーは書かれている。それはまたイソップなどの古い民間伝承、あるいはラブレー、スウィフトなどといったユートピア的諷刺文学以来の伝統を引き継いだものである。
   それに対してより本格的なSFやファンタジーは、単にジャンルの「お約束」、お作法、ルールといった敷居があるというにとどまらず、それ以上に、もっぱら特殊な志向を持つ、特定の読者の関心に訴えるという意味で、まったく「万人向け」ではない。
   作品世界を虚構、架空と見切った上で、それで存分に遊ぶこと、あるいはそうした虚構を現実についての何らかの寓意、アレゴリーとしてそこから学ぶこと、がジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの楽しみ方だとすれば、そのように割り切ることができない精神こそが本格SFや幻想文学を生む。
   比喩的に言うと、本格派のファンタジー、幻想文学は「病人向け」であり、本格SFは「生真面目な少年少女向け」である。極端に図式化、誇張して言えば、幻想文学は、この現実世界そのものさえも一種の幻想として体験してしまえる、そうした体質の読者のためのものである。これに対して本格SFの読者は、少し体質が異なる。本格SFの愛好者は現実感覚が不足していると言うより、逆に過剰なのだ。要するに子どもっぽい、大人げないのだ。普通に、娯楽としてジャンルSFやファンタジーを愛好する読者は、虚構は虚構と割り切って、ごっこ遊びを楽しんでいる。それに対して本格SFファンは、そうした虚構の現実性――単にごっこ遊びとしてのリアリティではなく、そうした架空世界、架空の出来事の実現可能性、この現実世界との関係性について生真面目に考え、追究してしまう。普通に遊びを遊びと割り切って楽しむことができず、遊びに遊びを超えた現実的な意味をついつい求めてしまうのだ――。


   以上の考察を経た上で、「SFという態度」とは何か、について結論めいたことを記しておこう。
   非常に乱暴に言えば虚構、フィクションというもののシステム的な機能、つまり生物としての人間の、またその織り成す社会にとっての主たる機能は、その享受を通じて未知なる状況を疑似体験することによって、想像力を鍛え、現実に来る未知なる状況への適応力、対応力を養うこと、であろう。
   もちろんこのように言うことは、フィクションがそのような目的のために生まれ、作られた、ということを意味するわけではないし、人々がもっぱらそのような目的でもってフィクションを作り、受容してきた、という意味でもない。とはいえ先にも触れたように、神話や古い伝承から近代小説に至るまで、広い意味での「寓話」、教訓その他実際に有用な虚構外的=現実的意義をもつ情報の担い手として、フィクションを活用する、という便法はかなりありふれたものである。しかし注意しておくべきは、寓話における、教訓なり有用な情報を伝えるという機能は、あくまでも寄生的なものである、ということだ。子どもたちにためになるお話を聞かせたいと思う親は、子どもたちに「このお話はためになるよ」と言って誘うよりは、むしろ「このお話は面白いよ」と言って誘うだろう。いくら有意義な知識、教訓が盛り込んであろうとも、そのお話がお話として面白くなければ、子どもは耳をかすまい。
   つまり諸刃の剣の危険性と背中合わせのところにのみ、このフィクションの実際的効用というものはある。ある意味で現実の体験に匹敵、あるいは凌駕するほどの楽しみを、フィクションによる疑似体験が与えてくれるのでなければ、そもそも人はフィクションになど手を出さず、その結果、その実際的効用を得ることもできないだろう。しかしもちろん、人が過度にフィクションに耽溺するならば、フィクションの実際的効用としての、新たな知識や想像力を実地に活用することもできなくなってしまう。
   では、先に考慮した様々なフィクションのジャンルは、具体的にはどのような実際的効用を発揮するのだろうか?
   いずれのジャンルの場合にも、教訓的な「寓話」としてのはたらきは十分に期待できるし、またそれは実際的効用がストレートに前面に出すぎており、想像力の練磨という観点からすれば無関連、というより逆効果でさえあるかもしれない。それゆえこの側面についてはあまり突っ込んで考えないことにしよう。
   もっともありふれた「リアリズム」作品の効用、それが鍛える想像力は、主に人間性、人間関係にかかわっている、と言える。では本論で主に考察してきた非「リアリズム」のフィクションの場合はどうであろうか?ジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの場合は、その効用は「リアリズム」とほとんど選ぶところはないであろう。というのは、強固に安定したお約束の上に成り立つ虚構世界を構築し、その上で遊ぶに際しては、最初の敷居を越えてしまいさえすれば、さしたる想像力は必要とはされないからだ。
   それに対して、より正統的なSFの想像力は、人間的な領域を越えた、言わば世界そのものの基本構造の方に向かっている、と言えよう。そのように捉えるならば「SFという態度」とはきわめてラディカルなものである。しかしながら先に述べたように、反面でそのラディカルさは「子どもっぽさ」にも通じている。
   世界そのものの基本構造についての想像をめぐらすこと、世界は我々が知っているよりも広くまた複雑である、と期待すること――それが「SFという態度」だとすれば、それはラディカルであると同時にまっとうなものである。しかしその媒体として狭い意味でのSF、つまりフィクションという形式にこだわるならば、早晩ある種の行き詰まりにたどり着かざるをえない。
   もしも「SFという態度」を上のようなものとして理解するならば、それはつきつめればフィクション(狭義のSF)を踏み台にして、現実そのものの探究へと向かう方が自然である。現実世界の中に、我々の「現実」、つまり日常的な常識を超えるものを見出す探究へと。こう考えるならば狭義の、フィクションとしてのSFとは未知なる現実世界の探究への「踏み台」、「登り終えたあとは捨てられるべき梯子」である、ということになる。そして本来の用をなさなくなった「捨てられた梯子」は、もしリサイクルされるならば「お約束事の箱庭でのごっこ遊び」としてのジャンルSFへと変質していくわけである。それはそれでもちろん構わない。我々には娯楽が必要だからだ。あるいは、SFとは本来的にジュブナイル、子ども向けの教育ツールなのだ、と割り切ってもよいのかもしれない。
   また幻想文学、あるいはメタフィクションとの対比においても、SFの「子どもっぽさ」は明らかである。幻想文学やメタフィクションは乱暴に言うと「懐疑」「不信」の上に成り立っているが、SFはことばの強い意味での「信仰」の上に成り立っている。それはリアリズムやジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの「ごっこmakebelieve」とは違う、世界の実相についての本当の「信仰belief」なのだ。

   さて、ここで終りにしてもよいのだが、今日的な問題は本当はその先にある。コンピュータRPGの大衆的普及、そして『ハリー・ポッター』以降ジャンル・ファンタジーが長いバブル的ブームの中にある他、ジャンルSFもまずまずの活況を呈している今日、むしろ「SFという態度」を体現する本格SF自体はむしろ衰退しつつある、という観測がしばしばなされる。
   それは他面では、純粋エンターテインメントとしてのジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの隆盛そのものによってもたらされたものである、と言ってもよい。「ごっこ遊び」の楽しみに徹したエンターテインメント路線の作品に、客を取られたという側面は確かにあるだろう。しかしそれだけだろうか?「SFという態度」を背負う生真面目な子どもたちをも、今日のSFはひきつけられなくなっているのではないか?
   たとえば80年代以降、象徴的にいえば生物学におけるドーキンズとグールド、物理学におけるホーキングの活躍以降、出版における「ポピュラーサイエンス」の市場はSFの市場よりもはっきりと巨大なものになってきているのではないか。そしてそちらの方が間違いなく「面白い」作品を生んでいるのではないか。いまや「SFという態度」の受け皿としては、「梯子」「踏み台」としては、古典的なSFに比べてこうしたポピュラーサイエンス、啓蒙的科学書の方が、はっきりと優位に立っているのではないか。

   この問題は、実はSFだけのものではない。幻想文学やリアリズムも含め、広くフィクション全般に当てはまることかもしれないのだ。
   たとえば山形浩生は、2003年のノーベル文学賞作家J.M.クッツェー『夷狄を待ちながら』の書評で以下のように書いている。この小説自体はSFというよりは、ファンタジー的な意匠を駆使した寓話であり、あえて言えばポストモダン・フィクションであるが、ここでもやはり上に指摘したことと同様と思われることが起きているのだ。

   「かつてサルトルが「飢えた子の前で小説が何の役にたつか」と尋ねたとき、マルローはそれに対して「飢えた子を問題化するのが小説の役目だ」と応えたとか。つまりその頃なら――これが三十年前であるなら、クッツェーの小説はブンガクとしてまったく問題はなかったはずなのだ。クッツェーの小説は、すばらしい現代文学として屹立していただろう。でもいまは、それじゃすまない。もはや、世界にそうした問題は残っていない。いや、残っているにしても、その問題を伝えるだけならテレビも、映画も、ノンフィクションもある。(中略)そしてそれができないとき、そうした他のジャンルに勝てないときに、小説が持つ比較優位とはなんだろう。それはできあいの「問題」を上品に優柔不断化して安心させる仕掛け、ではなかったはずなのだ。」(『CUT』2003年12月号)

   単なる娯楽としての「ごっこmakebelieve」ではなく、現実そのものと対決するための「信仰belief」を鍛える装置としての文学なりSFなりは、ジャーナリズムや科学の「知knowledge」にいまや押し捲られているようにみえる。


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