| さて以上のように「幻想文学」、あるいは「正統的・本格的ファンタジー」を定義づけるとするならば、「正統的・本格的なSF」とは一体どのようなものとして見えてくるだろうか。
上で「正統的・本格的ファンタジー」に対比する形で、ヒロイック・ファンタジーや『指輪物語』、あるいは『ハリー・ポッター』などを念頭において「ジャンル・ファンタジー」という括りを行ったが、それに対応する形で、SFにおいても「正統的・本格的SF」と「ジャンルSF」という対比を行うことができるだろう。
SFは基本的には、「正統的・本格的ファンタジー」やある種のメタフィクションとは異なり、作品において描かれる架空世界が「現実」――作品内現実であり、作品の語りの水準では実在することを疑わない。本格SFにおけるこだわりはこうした「現実」の不確かさによりは、むしろ宇宙や未来や異次元という風に設定された異質な「現実」と、作者と読者の生きる「現実」との間の距離や関係にこそかかわっている。SFでは作品世界が作品内現実であることは疑われない。本格SFにおける問題は、その「現実」が一体どのような現実なのか、だ。
そしてジャンル・ファンタジーと同様、(ほとんどのスペースオペラを含む)ジャンルSFの多くもまた、このようなこだわりの希薄さによって定義することができる。ほとんどのジャンルSFにおいては、作中に描かれる架空世界や異常な出来事と、我々が生きるこの現実との関係が生真面目に問われることはない。それはある意味でファンタジーに接近している。と言うより、ジャンルSFとジャンル・ファンタジーは、頻用されるガジェットが異なるだけで、質的にはほとんど異なるものではないのだ。どちらの舞台も、お約束で出来上がった箱庭、遊園地なのである。
以下わかりやすく図示してみよう。
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作中世界の現実性への懐疑 |
| 濃い |
薄い |
作中世界の
実現可能性
へのこだわり |
濃い |
(メタSF?) |
本格SF |
| 薄い |
幻想文学
メタフィクション |
ジャンルSF
ジャンル・ファンタジー |
|
カッコに括った上でクエスチョンマークまで付した「メタSF」というカテゴリーは、あくまでも暫定的なものである。二つの軸を掛け合わせれば4つの象限が機械的に作れてしまうが、この4つのカテゴリーに当てはまるものがすべて実際に存在しているかどうかは別の問題である。普通はひとつの作品の中で、本格SF的な志向と幻想文学的な志向が同時に追求されることはあまりない。焦点がボケてしまうからだろう。あえて言えばSF的なガジェットによって、現実感覚を崩壊させていくキャラクターたちを描いたフィリップ・K・ディックあたりが、典型的な「メタSF」の書き手ということになるだろうか。
こうしてみると、一見逆説的だが、ジャンル・ファンタジーとジャンルSFは、誤解を招く言い方になるが「万人向け」の娯楽である。もちろんジャンル特有の約束事という敷居はあるが、それをいったん超えてしまえば非常に簡単に楽しめる。媒体が小説やまんがではなく、RPGという形をとれば、その特質はより一層明らかとなるだろう。それは架空世界を舞台とするごっこあそびmakebelieveなのだ。
もちろんジャンル・ファンタジーとジャンルSFにはもうひとつの読まれ方がある。つまり寓話、アレゴリー、たとえ話として、だ。架空世界での出来事が、我々の現実世界についてのアレゴリー、寓意として読み取れるように多くのファンタジーは書かれている。それはまたイソップなどの古い民間伝承、あるいはラブレー、スウィフトなどといったユートピア的諷刺文学以来の伝統を引き継いだものである。
それに対してより本格的なSFやファンタジーは、単にジャンルの「お約束」、お作法、ルールといった敷居があるというにとどまらず、それ以上に、もっぱら特殊な志向を持つ、特定の読者の関心に訴えるという意味で、まったく「万人向け」ではない。
作品世界を虚構、架空と見切った上で、それで存分に遊ぶこと、あるいはそうした虚構を現実についての何らかの寓意、アレゴリーとしてそこから学ぶこと、がジャンルSF、ジャンル・ファンタジーの楽しみ方だとすれば、そのように割り切ることができない精神こそが本格SFや幻想文学を生む。
比喩的に言うと、本格派のファンタジー、幻想文学は「病人向け」であり、本格SFは「生真面目な少年少女向け」である。極端に図式化、誇張して言えば、幻想文学は、この現実世界そのものさえも一種の幻想として体験してしまえる、そうした体質の読者のためのものである。これに対して本格SFの読者は、少し体質が異なる。本格SFの愛好者は現実感覚が不足していると言うより、逆に過剰なのだ。要するに子どもっぽい、大人げないのだ。普通に、娯楽としてジャンルSFやファンタジーを愛好する読者は、虚構は虚構と割り切って、ごっこ遊びを楽しんでいる。それに対して本格SFファンは、そうした虚構の現実性――単にごっこ遊びとしてのリアリティではなく、そうした架空世界、架空の出来事の実現可能性、この現実世界との関係性について生真面目に考え、追究してしまう。普通に遊びを遊びと割り切って楽しむことができず、遊びに遊びを超えた現実的な意味をついつい求めてしまうのだ――。 |