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知の最先端


私たちは日々何かを「信じて」暮らしていますが、なぜ「信ずる」のでしょうか。あるいはなぜ「信じ」たがるのでしょうか。マスメディア、統計、常識、安全、健康、科学・・・・さまざまなレベルの〈信ずる〉を、各界気鋭の研究者に語っていただきます。


下条氏写真

見ることは信じること

下條信輔
しもじょう・しんすけ −  1955年東京生まれ。マサチューセッツ工科大学大学院心理学科修了(Ph.D.)、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。スミス・ケトルウェル視覚研究所研究員、東京大学教養学部助教授等を経て、現在はカリフォルニア工科大学生物学科教授。知覚心理学、認知神経科学の観点から脳・環境・身体の関係を追及している。
著書に『まなざしの誕生』『視覚の冒険』『サブリミナル・マインド』『<意識>とは何だろうか』ほか



 
 「信じる」とは、どういうことだろう。それについて書け、という課題を与えられた訳だが、これは二通りにとれる。ひとつは、「信じる」というのも、見る、感じる、記憶する、推論するなどと同じように心理現象の一種だから、それを専門の認知神経科学の立場から解明せよ、という解釈だ。これに応じるとすれば、「信じる」という現象を定義し直し、記憶や予期などと関連づけながら、実験心理学的な知見や神経メカニズムについて、知り得ていることを説明することになろう。しかし、どうもこれは気が進まない。単にドライになって面白みがない、というだけではなくて、なんだか筋悪な感じがする。
 もうひとつの解釈は、「専門家としてでも、個人としてでもいいから、あなたが信じるものは何ですか」というベタな問いだ。本来そういう意図を含む執筆依頼だったのかも知れないが、これも、うかうかと乗る気にはなれない。もしこれが編集者の意図だとすれば、相手にゲタを預けた相当に無責任な要求と言わざるを得ないし(失礼)、こんなところで意味もなくおのれの人生の信念を開陳するのは、言わば人前で下着を見せるようなものではないか。
 さて、そこで筆者がこれから述べようとすることは、そのどちらでもなく、しかしその根元に通底するような、ある事実のことだ。それは「見ることは信じること」というひとつの信念に関係している。


1. 知覚は常にセンスデータを超え出る

 「私は自分の目で見ているものしか信用しない。」こう言って胸を張る人は、現代の日本人にも少なくない。私の経験では、特に働き盛りの現実主義のビジネスマンなどに多いようだ。そして英語の諺に見るまでもなく、これは日本人に限らない。単なることばのアヤなのだろうが、それにしてもこれは考えが浅いか、少なくとも不正確な言い回しと言わざるを得ない。そもそも、そのように主張する人は、自分が目を閉じたとたんに、目の前からモノが消えると本気で信じているのだろうか。
 これはつまらないポイントのようだが、知覚の実際をつぶさに見ると、案外重要であることがわかる。というのも、「現に見えている以上のものを見る(つまり、あると信じる)」というのが、知覚のひとつの本質だからだ。
 現に見えている以上のものを信じる、という点でもっともわかりやすいのは、さっき述べたケース、つまり「目を閉じても、そこにある」というケースで、これは何人もヒトである限りは否定しにくいはずだ。「さっき背を向けたものが、振り返れば依然としてある」とか、「箱に入れて蓋をしたチョコレートは、箱を開ければそこにある」とかいう場合も、ほぼ同じだろう。「先週ニューヨークで見た摩天楼は、今でも存在する」という場合でも大差ないかも知れないが、時間が隔たったぶん、記憶が介在していくぶん曖昧さがます(たとえば、9.11のような惨事がまた起きて、それを知らなかったとしたら、どうか)。「私の生まれる以前、死後にも人間社会は存在した」となると、同じ信じるにしても間接的となり、「人類の誕生前、絶滅後にも宇宙は存在する」となると、「信じない」と言い出す哲学趣味の輩も出てきかねない。
 そのような信念の勾配はあるにしても、目の前に現前する以上のモノを見るというのが、知覚のひとつの本質だ。「信じる限界」は「見える限界」のはるかに外側にある。人はじつのところ、見たり聞いたり触ったりしたモノの存在の、感覚時間を超えた永続性を、信じているのである。したがって、冒頭の即物的と思えた態度は、じつは即感覚的だったにすぎない。ここで大事なポイントは、まず「見えるものだけを見る」働きがあってその上に「見えないものを推定する」という認知機能が加わるのではない、ということだ。そうではなくてむしろ、「見るもの以上の何かが見える」というモードでしか、「見る」という感覚行為そのものがあり得ない。
 「見るもの以上」を概念上排除した「視覚に与えられたかぎりのもの」のことを、英国経験論の伝統では「センスデータ」と呼ぶ。しかし、後にこの考えがさまざまな哲学的撞着をきたしたことからもわかる通り、これは知覚の実態から踏み外した人工的な概念だった。「見るもの以上」から切り離されたセンスデータなど、じつは誰の目にも与えられていなかったのだ。
 網膜像に与えられた以上のものを見ていることは、知覚研究の常識だ。たとえば、網膜像は二次元であり、またレンズの作用で上下左右逆転していることが知られている。しかし(さかさめがねでも着けないかぎり)誰もそんな逆転して平たい像など見たことがない。
 ここに知覚の最初の謎がある。



2.アモーダル=「見えていないが在る」という知覚

 通常の意味で「見えている」というモードでの見えを「モーダル」という。これとの対比で「直接は見えないがやはり見えている」というモードの知覚を「アモーダル」という。例えば、図1に示すような遮蔽面の場合がそれだ。円盤部分は、くさび形に口の欠けた円盤ではなくて、四角い面に遮蔽されてはいるが完結した円盤として知覚される。これはアモーダルな知覚だ。これに対して四角形の「主観的輪郭」は(輪郭の中央部分は物理的には存在しないにもかかわらず)あたかも物理的に存在するかのように知覚される。「見えている」というモードで見えているから、これをモーダルな知覚というのだ。また図2に示すように、円盤の口の部分に色を加えると、半透明な四角形の色表面が形成される。これもモーダルな知覚の例だ。モーダル/アモーダルは、あくまでも知覚内部での区別だという点が大切なポイントだ。

 
図1:カニッツアの主観的りんかく。
りんかくのアモーダルな部分は、見えていないのに、見えている。
  図2:ネオン色拡散。
半透明な色の面が充填、補完される。これは「見えている」というモードで見えているから、モーダル知覚の例である。
(編集部注:図をクリックすると拡大図がご覧いただけます)

 このようにアモーダルは主に「遮蔽」の場合に使う。図3のような図地反転の場合は、本質的にどちらの面がどちらの面を遮蔽するかという点での曖昧性だから、地になった方の面は背後でアモーダルに補完される、と言える。これをさらに拡張して、図4のような「振り返り」の場合や移動の場合に拡張しても問題ないと思う。つまり、後ろを振り返ると正面の事物は視野の外側に消えるが、それらはアモーダルには存在している。というのも、「正面に頭を振り戻せばそこに間違いなくあるもの」として心理的には実在しているからだ。このようにアモーダルな知覚存在は、いずれもなんらかの行為可能性と結びついている。


 
図3:図地反転図形。
ここではモーダル/アモーダルの関係自体が反転する。
 

図4:視野の外側。
拡張された意味で、アモーダルに知覚されている。

(編集部注:図をクリックすると拡大図がご覧いただけます)


 蛇足だが、この行為可能性は哲学者が知覚の「志向性」とよぶものと、関係するかも知れない。一方、行為にも志向性(まだ実現していない目標への方向性)があるとされる。先にあげた「目を閉じる」場合や「ニューヨークの摩天楼」「振り返る」「箱に蓋」などの場合が、いずれも観察者の行為を伴う知覚であることを考えると、知覚と行為が志向性の一点でつながり、なんとなく納得がいく。ちなみに、哲学者の言う「超越的」とは、人間の能力や反省を超えた存在の在り方をいう。ここでいうアモーダルな在り方とはちょっと違うが、後で述べるようにつながりがある。

 少しごたごたしたので、もう一度整理しておこう。センスデータとは、知覚経験として直接与えられてはいないが、その前提(入力)として、概念上構成されたものだ。モーダルとは、知覚経験(内容)のうち「直接見える」というモードの知覚であり、アモーダルとは「直接見えないが在る」というモードの知覚のことだ。アモーダルも単なる認知的な推論の結果ではなくて自動的な知覚の有り様であることを、再度強調しておく。
 そのことの傍証として、ゲシュタルト心理学の開祖のひとりK.コフカは、次のような思考実験をしている。模様のあるテーブルの上に穴が開いているとしよう。この穴をすっぽり覆えるカップを伏せて、覆ってしまう。さて、コップを取り除いたら、穴は依然として存在しているだろうか。もし百円賭けろと言われたら、穴がなくなっている方に賭ける人はいないだろう。だが、もしカップを伏せた状態で、知覚をあるがままに正直に報告せよ、と言われたらどうだろう。今度は「穴は無く、テーブルの模様が下でつながっている」が適切な答えとなる、なぜなら、穴は「アモーダルにも」存在していないから。この例は、知識に基づく認知的推論を、知覚がしばしば裏切ることを示している。アモーダルはあくまでも知覚なのだ。


3. クオリア=知覚の主観的な質

 知覚は、センスデータと違って、直接経験される。すなわち、現象として立 ち現れる。この点では、モーダルもアモーダルも違わない。そうした知覚現象 の純粋の内容、その経験の独特の「質」をクオリアと呼ぶ。今、独特の質と言 ったのは、以下のような意味だ。たとえば、今フルーツの盛り合わせの写真を フルカラーと白黒で、見比べるとしよう。色覚異常でないかぎり(色覚異常で あってもたいていの場合)フルカラーと白黒を取り違えることはない。この取 り違えを許さない色の経験的な中身が、色のクオリアだ。同じように、歯の痛 みと、ピアノの音色を取り違える人はいないだろう。それを許さない痛みや色 の具体的なユニークさが、クオリアに他ならない。
 クオリアは定義上、主観的で私秘的(プライベート)なものであり、交換不可能だ。歯の痛みとピアノの音色の間で交換不可能なだけではなく、自分と他者の間でも交換不可能だ。仮に他者の痛覚神経を私の脳につないで、他者の痛みを直接経験しようとしても、それは無駄なことだ。というのも、そうなったらそれは他者の痛みではもはやなく、自分の痛みとして経験される以外にはないだろうから。
 しかし、にもかかわらず、クオリアについては自他間で、ある共通理解が成立する。「あなたの見ている信号の赤と、私の見ている信号の赤は同じか」という問いがよく話題になり、これは一見共通理解が成立していない証拠のように受け取られる。しかしより精密に見れば、そもそもこの問いが意味を成すように見えること自体、「赤」のクオリアについての一定の共通理解を前提としている。赤色の知覚についての心理物理実験を行ったとすると、当然実験者と被験者の間には、「赤」についての共通理解が成立している(この点については、他所で詳しく論じた:苧阪直行編『意識の科学は可能か』新曜社)。発達心理学で最近話題になっている「心の理論」(他者の知覚や記憶、感情などについて、こちら側が持つ信念)や、社会心理学でいう「シェアド・リアリティ」も、この共通理解をさしていると思われる。

 考えてみれば、知覚には、もともとふたつの側面がある。ひとつは、限られ た網膜上の情報から、外界の事物についての情報、たとえばその大きさや三次 元構造、色などを復元する機能だ。脳科学や認知科学は、この機能の解明にほ ぼ成功したといえる。しかし知覚のもうひとつの側面、すなわち今述べたクオリアの問題、つまり主観的体験の独特の質がどこから来るのか、また他者との共通理解がどこから来るのかという問題については、殆ど手もつけられていな いのが現状だ。



4. 知覚経験はその起源から超越的である

 先に述べた「超越的」ということばの意味を少し変えて「目の前に明示的に現れているもの以上の存在を志向する」と定義していいなら、これまでの考察から、次のことを主張できる。すなわち、知覚経験はその起源から「超越的」である。その根拠はまず、知覚の広い意味のアモーダル性だ。知覚は、すでに述べたように、その起源から「現前」以上のものを志向している。知覚は、あくまでも直接的な経験でありながら、超越的なものへの志向性を含んでいる。
 この点で、最初に紹介したセンスデータや、それを与える「感覚」という概念と、知覚は顕著な対比をなす。感覚は非超越的なセンスデータを与えると推論されるが、にもかかわらず、それは直接経験することはできない。あくまでも、学者が知覚作用を説明するときの前提として仮想されるだけだ。
 知覚が超越的な契機を孕むという主張のもうひとつの根拠が、他ならぬクオリアだ。そもそもどうして知覚意識が経験として与えられるのかは、じつは誰にも理解できていない。しかも、なぜ痛みのクオリアが他ならぬ痛みであって、色やピアノの音色のクオリアでないのか、わかっていない。このような二重の意味で、クオリアは不条理な「与えられ」である。その意味で、私たちが知覚するとき、知覚はただちに超越的なものへコミットする契機を孕むのだ。
 少し脱線するが、このことは宗教の起源についての有名な逸話を想起させる。いきなり棚から何か重いものが落ちてきて、あなたの家族の一人が圧死したとしよう。なぜそれは起きたのか。またなぜそれはあなたではなくて、あなたの兄(母、娘)だったのか。ここにある理不尽さの感覚があらゆる宗教の起源にあると、宗教学者はいう。それと同質の理不尽さが、じつは知覚経験そのものにもあるのだ。
 こうして知覚経験の原初的な超越性ということから、超越者=神への信仰と、唯物論という、一見相反するふたつの方向が、ある程度同時に了解可能となる。 唯物論というのも超越者と同様に、知覚経験の理不尽さと超越性に対する、ひとつの答えだからだ。だが、ここで扱うにはこの問題は大きすぎる。いずれ稿を改めなくてはならない。



5. 見ることは信じること

 ということで、めぐりめぐって「見ること」はやはり「信じること」を含んでいるらしい。結局のところ、「信じる」こととは、見聞きした内容を基にして、その後でそこから構築される何かではない。むしろ「私」がこの世界に目と耳と皮膚を持って現れたとき、その瞬間の知覚経験の中にあらかじめ与えられ、あるいは少なくとも予定されている何かなのである。



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