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「私は自分の目で見ているものしか信用しない。」こう言って胸を張る人は、現代の日本人にも少なくない。私の経験では、特に働き盛りの現実主義のビジネスマンなどに多いようだ。そして英語の諺に見るまでもなく、これは日本人に限らない。単なることばのアヤなのだろうが、それにしてもこれは考えが浅いか、少なくとも不正確な言い回しと言わざるを得ない。そもそも、そのように主張する人は、自分が目を閉じたとたんに、目の前からモノが消えると本気で信じているのだろうか。
これはつまらないポイントのようだが、知覚の実際をつぶさに見ると、案外重要であることがわかる。というのも、「現に見えている以上のものを見る(つまり、あると信じる)」というのが、知覚のひとつの本質だからだ。
現に見えている以上のものを信じる、という点でもっともわかりやすいのは、さっき述べたケース、つまり「目を閉じても、そこにある」というケースで、これは何人もヒトである限りは否定しにくいはずだ。「さっき背を向けたものが、振り返れば依然としてある」とか、「箱に入れて蓋をしたチョコレートは、箱を開ければそこにある」とかいう場合も、ほぼ同じだろう。「先週ニューヨークで見た摩天楼は、今でも存在する」という場合でも大差ないかも知れないが、時間が隔たったぶん、記憶が介在していくぶん曖昧さがます(たとえば、9.11のような惨事がまた起きて、それを知らなかったとしたら、どうか)。「私の生まれる以前、死後にも人間社会は存在した」となると、同じ信じるにしても間接的となり、「人類の誕生前、絶滅後にも宇宙は存在する」となると、「信じない」と言い出す哲学趣味の輩も出てきかねない。
そのような信念の勾配はあるにしても、目の前に現前する以上のモノを見るというのが、知覚のひとつの本質だ。「信じる限界」は「見える限界」のはるかに外側にある。人はじつのところ、見たり聞いたり触ったりしたモノの存在の、感覚時間を超えた永続性を、信じているのである。したがって、冒頭の即物的と思えた態度は、じつは即感覚的だったにすぎない。ここで大事なポイントは、まず「見えるものだけを見る」働きがあってその上に「見えないものを推定する」という認知機能が加わるのではない、ということだ。そうではなくてむしろ、「見るもの以上の何かが見える」というモードでしか、「見る」という感覚行為そのものがあり得ない。
「見るもの以上」を概念上排除した「視覚に与えられたかぎりのもの」のことを、英国経験論の伝統では「センスデータ」と呼ぶ。しかし、後にこの考えがさまざまな哲学的撞着をきたしたことからもわかる通り、これは知覚の実態から踏み外した人工的な概念だった。「見るもの以上」から切り離されたセンスデータなど、じつは誰の目にも与えられていなかったのだ。
網膜像に与えられた以上のものを見ていることは、知覚研究の常識だ。たとえば、網膜像は二次元であり、またレンズの作用で上下左右逆転していることが知られている。しかし(さかさめがねでも着けないかぎり)誰もそんな逆転して平たい像など見たことがない。
ここに知覚の最初の謎がある。
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