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知の最先端


私たちは日々何かを「信じて」暮らしていますが、なぜ「信ずる」のでしょうか。あるいはなぜ「信じ」たがるのでしょうか。マスメディア、統計、常識、安全、健康、科学・・・・さまざまなレベルの〈信ずる〉を、各界気鋭の研究者に語っていただきます。


北田氏写真

「メディアを疑うこと」を疑うこと

北田暁大
きただ・あきひろ −  1971年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。筑波大学講師等を経て、現在は東京大学大学院情報学環助教授。専攻は理論社会学、メディア史
著書に『広告の誕生』『広告都市・東京』『責任と正義』、共著に『子ども・青少年とコミュニケーション』など



メディアを信じること/疑うこと
 私たちの社会は、マスメディアやインターネットが提供する虚実入り乱れたさまざまな情報に取り囲まれている、だから、メディアの受け手(audience)である私たちも、メディアが繰り出す情報を鵜呑みにすることなく、つねに疑ってかからなくてはならない。
 これが、現在多くの研究者、教育者たちによって唱導されているメディア・リテラシー論の基本前提だ。英米軍によるイラク攻撃をめぐっては、イギリス政府による情報操作やジェシカ・リンチ上等兵救出作戦の「物語化」など、さまざまな《報道の誘導・操作》が行われた。放っておけば、私たちは、権力者がフィルターをかけた報道、戦争のリアル=死を希薄化させた情報のパッケージに接することしかできない。「メディアを(安易に)信じるな」「情報を選別するリテラシーを身につけよ」というメディア・リテラシーの考え方が、アクチュアリティを獲得するゆえんである。
 私は、基本的にこうしたメディア・リテラシー論の発想に肯定的な立場をとっている。現代の高度情報化社会において、メディアを安易に信じることは、自らの政治的・文化的主体性を放棄することにつながりかねない。「メディアを疑う」−これは現代社会を生きていく私たちにとって欠かすことのできない、生きていくための戦術なのである。
 しかし面倒なのは、「メディアを疑う」という態度が、つねに左派的な(?)、つまり権力に対して距離を置く人たちに好まれるわけではない、ということだ。メディアを信じない/疑うことは、それほど容易な作業ではないのである。


因果ではなく意味?

 ここで想起すべきは、左派的な感性を持ったメディア・リテラシー論者が、けっして「政府」「大企業」といった大文字の権力だけを標的にしているわけではない、ということである。たとえば、ステレオタイプ的な「人種」「ジェンダー」「家族」像を表象する人気ドラマなどのように、ごくごく平凡に見えるメディア・テクストのなかにも、複雑に絡み合った「小文字の権力」が埋め込まれていることがある。
 カナダなどで実践されているメディア・リテラシー教育は、このような「小さな権力」に対するビビッドな感性の涵養を目的(の一つ)としている。日常的なメディア・テクストが、厳密な社会科学的意味において、視聴者の持つ特定の「ステレオタイプ」(やそれにもとづく行動)を生み出している(つまり両者の間に因果関係がある)とはかぎらない。しかし、それは確実に、私たちが世界を切り取るさいの準拠枠を反復的に刷り込んでいる。実証主義的なメディア研究では見えてこない日常世界の意味構成を、より繊細な視点から批判的に捉え返していくこと。カナダのような多文化社会においては、こうした批判的−メディアを疑う−視点の教育が重要な課題となっている。
 しかし、「実証主義にはおさまらない批判的視点」というのは、必ずしも「反権力」の側にある人だけが強調するものではない。そこが「面倒」と言った点だ。たとえば、東京都青少年条例の改正を促す「子どもを犯罪に巻き込まないための方策を提言する会」(竹花豊副知事の私的諮問機関、前田雅英座長)が、昨年10月3日に発表した緊急提言−「不健全」図書の包括指定制度の導入が盛り込まれている−の諮問を受けた、青少年問題協議会の専門委員部会長加藤諦三氏(早稲田大学教授)は、次のような驚くべき発言をしている。

「諮問されているのは、条例の実効性を高める方途についてである。不健全図書が、青少年の健全育成に有害である、これは社会共通の認識になっているわけだが、その因果関係の厳密な科学的証明が諮問されているわけではないので、そこに議論が入ると、現実的に諮問に答えられないということが出てくる。」

(長岡義幸「東京都条例改定で強まる出版規制」『創』2004年4月号より引用)


 また、この専門委員の副部会長に抜擢された前田雅英氏にいたっては、「わいせつな文章が増えたから強制わいせつが何件増えたとか、強姦が何件増えたという議論はあまり意味がない」とまで言い切っている。
 エロ漫画をめぐる松文館コミック裁判で、社会学者の宮台真司氏は「性表現と性行動とのあいだに因果関係がある、と立証されたことはない」という、社会学者、メディア研究者にとっては常識に属する知見を意見陳述したが、判決にそれが反映されることはなかった。青少年問題協議会の専門委員には、宮台氏とともに被告側証人として松文館裁判にもコミットした斎藤環氏(精神科医)の名もある。加藤氏、前田氏の「因果論排除」論は、こうした社会科学的知見にもとづく反規制論をあらかじめ牽制するものであったと考えられよう。「因果関係はないかもしれないが、とにかく有害であるとの国民的コンセンサスは得られるのだから、規制に向かって議論を深めていくべき」というわけだ。たしかにポルノグラフィックなマンガや雑誌が私たちの日常世界を覆いつくしている状況に対しては、多くの人が眉をひそめている。「因果はなくとも取り締まれ」という主張は、案外多くの人びとの賛同を得られるものなのかもしれない。


意図せざる共犯
 こうした加藤氏や前田氏のような立場取りは、形式的にはメディア・リテラシー論の基本的姿勢、つまり、「因果の実証ではなく、意味の政治学を分析せよ」という理論的立場と一部折り重なっている。メディア・リテラシーの「本家」北米では、子どもに悪影響を与える可能性のある番組視聴を親が選択・管理するVチップが積極的に導入されているし、日本のメディア・リテラシー推進者のなかにもVチップ導入を肯定している人もいる。「視聴→問題行動」の因果関係の有無にかかわらず、大人が子どもたちの意味世界をコントロールしていこうとする志向−皮肉なことに「メディアを信じる/疑う」という論点をめぐっては、保守派と批判派が同じ船に乗ってしまうことが少なくないのだ。
 フェミニズムにおけるポルノグラフィ論争の捩れ方を見ても、同じようなことがいえる。フェミニズムの内部では、「ポルノは理論で、レイプが実践だ」と言い切りポルノグラフィの全面的批判を展開する急進派、「よいポルノ(エロチカ)/悪いポルノ(ポルノ)」を識別しようという棲みわけ派など、さまざまな陣営に分かれて議論が展開されている。その論争のなかからくみ取るべき点は多い。が、急進派にしても棲みわけ派にしても、「因果ではなく、意味の政治学を」というスローガンを掲げる《Vチップ的なもの》へと近接してしまう可能性がけっして少なくない、という点に私たちは注意しなくてはならない。超マッチョなキリスト教原理主義と、男性社会に異議を申し立てるフェミニストとが野合してしまう蓋然性を高める捩れた議論の磁場−それが「メディアを信じる/疑う」というアジェンダなのである。
 だから、「メディアを疑う」というのは、実はそれほど容易な態度選択ではないのだ。「メディアを疑う」ことはつねに権力に対する距離を保証してくれるわけではない。むしろ、知らず知らずのうちに権力の掌のうえで躍らされる危険だって少なくない。「北朝鮮」へのステレオタイプを拡大再生産している一部の2ちゃんねらーが、「メディア・リテラシー教育は大切だ」などと言ったりすることもある。左派の本丸−とかれらが見る−『朝日新聞』を疑うリテラシーをかれらは後生大切にしている。「メディアを疑う」態度とは、良心的左派の専有物ではなく、右にも左にもブレる可能性を持つきわめて微妙なスタンスなのだ。「メディアを疑う」ことは、案外難しい。
 では、どうすればいいのか?


「メディアを疑うこと」を疑うこと

 日本におけるメディア・リテラシー論の先導者の一人である水越伸は仲俣暁生のインタビューにこたえて、次のように言っている。

「八〇年代の空気を吸ってしまったぼくたちの世代は、テレビやゲームを悪者だと一刀両断にしたり、大人が子どもを啓蒙できると思うような、ベタなことはもはやできないんです」

(『本とコンピュータ』2004年春号)

 

 「旧態依然としたメディア批判やメディア・リテラシー教育のあり方」に水越は疑問を呈しつつ、「メディア悪者論」「啓蒙主義」を越えたメディア・リテラシーの実践の可能性を模索している。それはおそらく、疑うことを自己目的化したメディア・リテラシー教育、左右両陣営に前提とされる「啓蒙」への意志を疑うところから生まれてきた発想/実践だ。「メディアを疑うこと」をも疑う−メディア・リテラシー概念そのものも自己懐疑する−複層化されたメディアへのまなざし、おそらく水越が目指しているのは、そうした複眼的なメディア・リテラシーの育成なのだ。疑うことに自足するメディア・リテラシー論は、さまざまな狡知でもって罠をしかけてくる権力に足元をすくわれかねない。
 「メディアを疑うこと」をも疑う位相においてはじめて、真のメディア・リテラシーが立ち上がってくる。それは、メディアに対する愛をもった、つまりメディアを悪者にして安心することのできない「八〇年代の空気を吸ってしまった」世代(とその後続世代)によって作り出されていかなくてはならない。私たちはメディアへの懐疑が質的に変容せざるをえない、きわめてスリリングな時代に生きているのである。



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