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日本におけるメディア・リテラシー論の先導者の一人である水越伸は仲俣暁生のインタビューにこたえて、次のように言っている。
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「八〇年代の空気を吸ってしまったぼくたちの世代は、テレビやゲームを悪者だと一刀両断にしたり、大人が子どもを啓蒙できると思うような、ベタなことはもはやできないんです」
(『本とコンピュータ』2004年春号)
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「旧態依然としたメディア批判やメディア・リテラシー教育のあり方」に水越は疑問を呈しつつ、「メディア悪者論」「啓蒙主義」を越えたメディア・リテラシーの実践の可能性を模索している。それはおそらく、疑うことを自己目的化したメディア・リテラシー教育、左右両陣営に前提とされる「啓蒙」への意志を疑うところから生まれてきた発想/実践だ。「メディアを疑うこと」をも疑う−メディア・リテラシー概念そのものも自己懐疑する−複層化されたメディアへのまなざし、おそらく水越が目指しているのは、そうした複眼的なメディア・リテラシーの育成なのだ。疑うことに自足するメディア・リテラシー論は、さまざまな狡知でもって罠をしかけてくる権力に足元をすくわれかねない。
「メディアを疑うこと」をも疑う位相においてはじめて、真のメディア・リテラシーが立ち上がってくる。それは、メディアに対する愛をもった、つまりメディアを悪者にして安心することのできない「八〇年代の空気を吸ってしまった」世代(とその後続世代)によって作り出されていかなくてはならない。私たちはメディアへの懐疑が質的に変容せざるをえない、きわめてスリリングな時代に生きているのである。
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