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コラム:Up to month

〈趣味〉の政治学

森川嘉一郎
もりかわ・かいちろう - 1971年生まれ。早稲田大学理工学部卒業、同大学院修士課程修了。早稲田大学理工学総合研究センター客員講師等を経て、現在は同センター客員研究員、桑沢デザイン研究所特別任用教授。専門は建築意匠論。
著書に『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』、共著に『20世紀建築研究』など。


第5回 〈おたく〉という概念(後編)



 前回見取り図を描いたように、アカデミー賞をとるような"上昇的"な作品が出る一方で、日本のアニメのメインストリームは、『セーラームーン』や『エヴァンゲリオン』、さらには、新世紀に入って急増したいわゆる"萌えアニメ"へと、おたく好みなキャラクターの魅力に偏重してゆく"下降的"な方向をたどった。ではこの二つの方向へのアニメの分離は、いかなる背景をもっているのか。今回はそこから、話を始めたい。
 キャラクターによって訴求していくベクトルを"下降的"と形容したが、これはどのような価値観に照らして"下降"なのか。第2回で取り上げたように、日本の美術教育の現場では、漫画やアニメのキャラクターを描くことに対し、模倣的だとして退ける風潮がある。既存のスタイルを模写して応用するよりも、素朴な「表現」が尊ばれる。そうした創造主義は、西洋近代的な美学とは本来相容れにくい漫画表現の作家たちにも、根深く浸透している。独特のタッチを繰り出す個性派漫画家、黒田硫黄の作品集に、大友克洋が次のような帯文を寄せている。

「黒田硫黄氏は、キャラクターやエロに隷属された漫画界にあって、真にセンス・オブ・ワンダーを持った作家である。」

黒田硫黄『大王』(イーストプレス、1999)、帯文より


 ここでいう「センス・オブ・ワンダー」は、大雑把に言えば、創造性と言い換えてもよいだろう。つまり、自身が漫画家である大友克洋ですら、キャラクターにウェイトを置く作り方に対し、キャラクターに「隷属」し、創造性に乏しいという見方をしているのである。
 ではなぜ、漫画やアニメのメインストリームは、キャラクター偏重へと傾斜していったのか。この傾斜をして、単純に「質」や創造性の低下ととらえるのは、おそらく適切ではない。キャラクター商品のマーチャンダイジングや人気至上主義といった経済原理に帰したとしても、人気が出る理由までは、説明できない。このベクトルは、アニメの作り手と受け手にまたがる、いわゆるおたくたちの指向を反映したものなのではないか。といっても、おたくは美少女キャラクターが好きだから、といって片づく問題でもない。なぜおたくたちは、紋切り型で創造性に乏しいと目されるキャラクターたちを愛好しようとするのか。そのように問い直したときに、アニメが二方向へ分離した背景が、明らかになってくる。
 宮崎駿と押井守がそれぞれ『風の谷のナウシカ』と『うる星やつら2』を発表した1984年を回顧してみれば、今と比べ、「アニメ」のステイタスは一様に低かった。まだ宮崎の名も一般には浸透しておらず、『ナウシカ』を含め、いい歳をしてアニメに入れあげていたら、それだけでダメな人(「おたく」という言葉すら浸透していなかった)だとみなされかねなかった。ところが現在では、例えば宮崎アニメを観たり、プレステ2を持っていたりするからといって、それだけで蔑まれるようなことはなくなった。アニメもゲームも、いわゆる「市民権」を得たのである。
 同様な地位向上は、先行して漫画に対しても起こっていた。かなりの昔話になるが、大学生が電車の中で漫画を読んでいるということが、世を憂える材料になった時代があった。漫画雑誌はその頃、さまざまなメディア間の階層関係の中でも子供向けの最下層のもので、いい年をして読んでいたら、白眼視されかねなかった(図1)。ところが今や、白髪交じりのおじさんが漫画雑誌を車内で読んでいたとしても、誰もそんなことで世を嘆いたりはしないだろう。漫画はテレビや映画とほぼ同等の市民権を得た。



図1


 では、漫画やアニメ、ゲームのような「ダメ」なメディアに耽溺していることをもって蔑まれてきたおたくたちは、漫画やアニメ、ゲームによる市民権の獲得にともなって、地位を向上させたか。「おたく」という単語がいまだ日本では蔑称として機能していることに照らしても、さして向上などしなかったのである。それは、なぜか?漫画やアニメ、ゲームが市民権を得始めるやいなや、おたくたちは、やおい・萌え漫画・萌えアニメ・ギャルゲー・エロゲーといった、漫画・アニメ・ゲームの中にさらに「ダメ」なサブジャンルを見出し、そこへ集中するようになっていったのである(図2)。つまりおたくたちは、マニアのごとく漫画やアニメ、ゲームそれ自体を愛好していたわけなのではなく、「ダメなものとしての漫画やアニメ、ゲーム」を指向していたのである。


図2


 今、おたくとマニアを対比させたが、おたくの特質を説明する上で、「マニア」との違いを記述するというのは、一つの方法としてしばしばとられてきた。主に次の三点が、これまで指摘されてきた。一つは、マニアが趣味を大事にしつつも社会性を保っているのに対し、おたくは社会性が欠落しているように見えること。二つ目は、マニアがカメラや鉄道といった、実体的なモノを好むのに対し、おたくはアニメやゲームといった、ヴァーチャルなものを好む傾向があるということ。三つ目は、マニアがカメラならカメラ、鉄道なら鉄道というように、一つの対象に絞り込んで入れ込む傾向があるのに対し、おたくはマンガ・アニメ・ゲームなど、複数の趣味にまたがった嗜好を持つ傾向があること、である。これらの特徴は、一見ささいな違いに見えて、実はそこに、大きなベクトルの相違があることが浮かび上がってくる。
 仮に「アニメマニア」なる人がいるとして、その人はアニメのことを、ダメ「だけど」好き、なのだとすれば、おたくはむしろ、ダメ「だから」好き、なのである。つまりおたくたちは、アニメやゲームそれ自体ではなく、「ダメなものとしてのアニメやゲーム」を愛好しているのである。極論すれば、「ダメなものに入れあげる自分」という自意識を保つことに大きな目的があるのであって、漫画やアニメ、ゲームへの傾倒は、むしろその手段なのである。
 前述の三点の対比は、こうしたおたくの指向性の反映として説明できる。すなわち、世間的に「ダメ」なものだとみなされているものに耽溺するからこそ、社会性が乏しいようにみられる。また、世間では実体があるものをヴァーチャルなものの上に位置づけることから、「ダメ」なものを指向すれば、自然とヴァーチャルなものへ向かおうとする。さらに、おたくはマニアのように、嗜好の対象それ自体に執着しているわけではなく、ダメとみなされているという特質の方を指向しているので、関心の対象はより複合的な様相を帯びるのである。
 では、なぜおたくたちは、「ダメ」なものを指向するのか。一般に上昇志向とは、世間で評価されている規範を受け入れ、それに染まろうとする指向性だといってよい。ところがそうすると、内的主体を外的客体に従属することになり、主体がひどく不確かな他律的状態になってしまう。これに対し、おたくは性格として防衛的な態度をとる。「ダメ」なものへ向かおうとする彼らの下方指向は、客体に主体を支配されることに対する、一種の防衛機制なのである。
 ところで、漫画やアニメ、ゲームと並べてみて、一つ気付かされるのは、それらが「メイド・イン・ジャパン」的な属性を強く帯びている、ということである。改めて記すまでもなく、おたくたちはナショナリスティックな動機で「メイド・イン・ジャパン」的なものを指向しているわけではまったくない。前述したように、その動機の中心にあるのは、むしろダメ指向である。ダメ指向のおたくたちの嗜好対象が、結果的に「メイド・イン・ジャパン」的な偏りをもっていたこと。これは図らずも、輸入文化が上位に置かれ、ダメなものとして現代日本文化が位置付けられるという、戦後日本の文化的構造の陰画となっている。その意味でおたくとは、単に一部の閉鎖的集団の嗜好の問題などではなく、日本人全体の自意識を映した存在なのだ。西洋から移植された近代の美学が排除してきたイコンや偶像を、膨大な量のキャラクターの生成によって補うことにより、おたく文化は紡ぎ出されている。

(完)



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