[トップページへ]

知の最先端

菅原和孝氏写真

狩猟民にとっての自然−動物との関わりをめぐって−

菅原和孝
すがわら・かずよし −  1949年東京生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。京都大学総合人間学部教授等を経て、現在は同大学院人間・環境学研究科教授。専攻は人類学。
著書に『身体の人類学』『語る身体の民族誌』『会話の人類学』『もし、みんながブッシュマンだったら』『感情の猿=人』『ブッシュマンとして生きる』ほか。


「自然」は近代の産物
 私が日ごろから大っ嫌いなことばがある。「地球に優しく」である。バッカじゃなかろか? 人類は地球という「世界の上限」に従属するちっぽけな構成要素にすぎない。みずからが属している全体に「優しく」できるなどと思うのは、天に唾する傲慢さである。


 こんな憎まれ口をたたくからといって、私は、生態系の破壊を食いとめようとするさまざまな実践を小馬鹿にしているわけではない。むしろ逆である。岩明均の傑作マンガ『寄生獣』のなかに、「いずれゴミの不法投棄が殺人より重い罪になる」といった意味の台詞があるが、私は、今すぐにでもそうすべきだと思う。放射性廃棄物を「日本の安定した地層」に埋めることが「子孫への宿題」を果たすことだと強弁する、テレビの原発推進コマーシャルを見ると、その厚顔無恥に胸クソがわるくなる。


 私たちは「産業社会」の安逸をむさぼりながら、その社会の「外部」を「自然」という名で呼び、それを「保護し」たり「愛し」たりできると思いこんでいる。このイイ気な態度を本気で改めようとするなら、現代の都市的な生活様式のかなりの部分を捨て去らねばならないだろう。要は、私たちにその覚悟があるかどうかということだ。


 もう長いあいだ「中高年登山」にのめりこんでいる。新緑にけぶる梢を見あげたり、清流で顔を洗ったりすることは、私にとってかけがえのない悦楽である。だが、「自然の美しさ」に酔いしれるという感覚もまた、産業社会を成り立たせている「近代」と呼ばれるシステムによって育まれたものである。自然に埋没して生きることと、自然を審美的なまなざしの対象にすることのあいだには、途方もない隔たりがある。以下では、私が20年以上にわたって人類学的な調査を続けているグイ・ブッシュマンの例をあげて、自然の一部として生きるとはどのようなことかを素描する。


採集狩猟民ブッシュマン
 「ブッシュマン」とは、南部アフリカに広く住んでいた狩猟採集民の通称である。17世紀末からこの地域に植民したオランダ人(のちのボーア人)に迫害されてその数を激減させ、現在では人口はおよそ10万人程度と推定される。私が調査してきた人びとは、内陸国ボツワナの中部に住むセントラル・カラハリ・ブッシュマンで、グイとガナという二つの近縁な言語集団を含む。1970年代末より政府の定住化政策がすすみ、自律的な狩猟採集生活はほとんど失われてしまった。私の師匠である田中二郎の研究によれば、かつては、グイとガナの人びとは頻繁に移動をくりかえし、原野に実る植物性食物を主食(カロリー比でおよそ80%)としていた。肉は総摂取カロリーの20%しか占めないが、御馳走として尊ばれる。


 採集活動はおもに女性が行なうが、狩猟は男性だけが行なう。伝統的には、弓矢によって、大型の偶蹄類をしとめていた。ヤジリには、ハムシ(甲虫の一種)の幼虫をすりつぶして得られる猛毒を塗りつける。小型の羚羊類は「はね罠」で捕獲する。これに使うロープは多肉質の植物の繊維をよじり合わせて作る。トビウサギ猟も重要な狩猟法である。先端に鉄鉤を装着した、よくしなる長い竿(数本の細い棒をつなぎ合わせたもので、接合部は動物の腱でできた糸でギチギチに巻いてある)を巣穴に差しこみ獲物を引っかけるのである。定住化以降、弓矢猟は衰退し、その代わりにチームを組んで遠征する騎馬猟や、多くの犬で獲物を追いつめる槍猟が盛んになった。


 ちなみに、グイ語には、「食べる」を意味する2つの動詞<コー>と<オン>がある。前者は肉を、後者はそれ以外のもの(植物、昆虫など)を摂取することである。以下では、<コー>を「食う」と訳し、通常の「食べる」から区別する。


まず殺そう
 グイにとって動物とのもっとも基本的な関わりは「殺す」ことである。もちろん多くの場合は「食う」ためである。だがそれだけではない。ヘビは毒があろうとなかろうと即座に叩き殺される。あるとき、穴にもぐりこんだ巨大なニシキヘビをひきずりだし槍で刺し殺す現場にいあわせた。ところが、30歳代の私の友人たちは、死骸を茂みの中に無造作に捨てようとした。びっくりして「食わないんだったら、どうして殺したんだ?」と詰問したら、けげんそうに「じゃあ、おまえが食うのか?」と反問され、絶句してしまった。


 この種の場面に何度も接するうちに、私は、「狩猟採集民が自然の恵みに感謝している」といった通説は嘘っぱちなのではないのか、と疑うようになった。むしろ、「食おうか食うまいか」考えるより先に、「殺す」ことへと体が動いてしまうかのようだ。


 私の調査助手(以下Tと呼ぶ)がしかけていたはね罠に、何日かのうちに、雌、雄、そして子どものスティーンボック(小型の羚羊)があいついでかかったことがあった。このとき彼は、嬉々として言った。「これでおれたちは、スティーンボックの夫婦とその子を皆殺しにしたのだ」


 私は、けっしてグイの男たちが冷酷無残だと言いたいのではない。彼らの多くは、穏和で優しく控えめな、敬愛すべき人格の持ち主である。その彼らが動物を殺すときには嬉々として目を輝かせる(わが国の「釣りバカ」たちも同じことかもしれないが)。彼らは、動物と同じように、人間もまたあっさりと「殺され」うる存在であることを知りつくしている。グイの「ドライなユーモア」はこの殺しの経験から培われているのではないかという直観を、私はもっている。


人間と動物は対等だ
 動物の肉に関しては、複雑なタブーと個人的な忌避がある。思いつくかぎりの動物の名前をあげて、そのそれぞれを食ったことがあるかをたくさんの人に尋ねたことがある。「あなたはライオンの肉を食ったことがあるか?」と問うと、ある中年女性は答えた。「あのね、あたしがライオンを食うんじゃなくて、ライオンがあたしを食うんだよ」


 Tの父Nのそのまた父親は、Tがまだ生まれていないころ、ライオンに殺された。Nはその経緯を詳しく語ってくれた。Nの父親は、朝、狩猟採集に出かけたきり、帰ってこなかった。翌日、砂に残された父の足跡をつけてゆくと、大木の下で子育てをしていた雌ライオンが襲いかかってきたので、命からがら逃げ帰った。さらに、その翌日、問題の木を遠くから見ると、すでにその上にハゲワシがたくさん舞っていた。そのときやっと父の死を確信したという。


 こんな凄惨な昔話も聞いた。Kという男が若妻といっしょに自分の小屋でくつろいでいた。すると戸口から雄ライオンがのぞきこんだ。だが彼はそれを犬だと思いこみ、追うことも叫ぶこともしなかった。ライオンは小屋のまわりを一周してから、やおらとびこんだ。新妻の肩にがぶりと咬みつき、小屋の外へひきずりだした。人びとが駆けつけてライオンを追いはらったが、被害者はすでに大量に出血していて、何日後かには死んでしまった。この事件によって、Kには「愚か者」というレッテルが貼られてしまった。


 定住化してからも、ライオンはグイの飼っている馬やロバを頻繁に襲った。政府はライオンを鉄罠で捕獲することを固く禁じているので、ライオンのほうはますます味をしめるばかりであった。にもかかわらず、彼らは言う。「おれたちとライオンは[神によって]この土地にともに創られ、いっしょに『採集』をしてきた。だから、ライオンを怖れるなんて、できない」


 ここで「できない」と訳した語は、もっと正確にいうと「自分には合わない」「自分向きではない」という意味である。ライオンに殺されるかもしれない可能性をひきうけながら、原野を闊歩しつづけること、それが自然の一部として生きることであり、このような態度が根本にあればこそ、人間が巧緻のかぎりをつくして動物を狩ることもまた、動物たちとの「対等な関わり」の一環となるのである。


原野と交感する身体
 グイ語には、<ナレ>という、不思議な意味をもつ他動詞がある。「(酒に)酔う」「(何かを)感づく」「(嬉しいことを)予感する」などと訳すことができる。


 月の明るい夜に、スティーンボックは、月の光に「酔っぱらい」長い距離を歩きまわるという。


 あるいは、男Aが罠でとれた獲物の肉を男Bに分けないといった場合。それを恨んだBは、Aの食った獲物の骨片をこっそり拾って、その上に大便をする。するとスティーンボックは「人の糞を感づいて」Aのしかけた罠に入らなくなる。同様に、ゲムズボック(もっともよく捕獲される大型の羚羊)の心臓を猟犬に食わせると、つぎにこの犬を連れて猟に行ったとき、他のゲムズボックは、仲間の「心臓を感づいて」さっさと逃げてしまう。


 同じキャンプに住む男が罠猟に行った日に、腋の下が燃えるように痒くなると、彼の罠猟が成功して肉を持ち帰ることを「予感して」いるのである。同様に、長い旅に出た夫(人類学者である私もここに含まれる)が帰ってくる日が近づくと、妻の腋の下は猛烈に痒くなるそうだ。


 もっと広くいえば、ナレは、原野の森羅万象のなかにはりめぐらされた交感の回路を表わしている。雨季になっても恨めしいばかりの青空がつづくと、グイの男は、雨ごいのために野火をはなつことがある。その煙を遠望した別の男は、『あの火をつけた男の人は幼子をもっているぞ』と考える。幼子の歯茎には、ぽつんと白い乳歯が生えている。この子の父が野火をはなつと、神(または空)が、その乳歯の白さを「感づいて」、同じように白い雲をつくってくれるのである。


 これとは逆方向の交感もある。それは「ズィウを告げる」という特殊な言いまわしで表わされる。ズィウとは「人の死」を知らせる「凶兆」である(だが、この訳語には大きな問題がある)。


 ハンターは原野で、動物のさまざまな「異常」に出会う。とどめを刺したエランドが横倒しにならずに前向きにくずれおち「グエエ」と啼いた、夜行性のセンザンコウがまっ昼間に外で仰向けに寝ていた、雄のツチブタを撲殺したら大量の精液を漏らした、等々・・・・・。こうした「異常」に直面したハンターは「アエッ」と眉をしかめて、帰途につく。しばらくして、別のキャンプでだれかが死んだという知らせがもたらされる。そのとき、彼ははじめて納得する。「あの動物があんなに変な様子だったのは、おれにズィウを告げていたからなのだ」


 ふつう凶兆(オーメン)とは、未来に起きる災厄を予示するものである。だが、この場合には、原野で動物の異常に出会ったその瞬間には、すでにどこかで人が死んでいたかもしれない。ハンターは、その異常が「兆しであった」ことを回顧的にしか知りえないのである。


神話は実践と相互補完的である
 自然のなかに埋没したグイの生活世界は無数の「兆候」に満ちあふれている。それをもっとも端的に表わすのが、鳥たちの「お告げ」である。鮮やかな赤い腹をもったモズの一種が舞い降りることは、罠猟が成功してキャンプに赤い肉が満ちあふれることの前兆である。逆に、罠をかけている途中に、ガイ(カンムリショウノガン)という鳥がやかましく鳴きながら飛ぶと、もうそこにはけっして獲物がかからないから、作業をきりあげて帰ってきてしまう。キクスズメはいつもゲムズボックのそばにいて、ハンターが近づくとやかましく鳴いて危険を知らせる。だが逆に、この鳥は、野営している人間にライオンの接近を知らせてくれたりもする。ここにも、人間と動物の対等性がみてとれる。


 さらに、鳥たちの顕著な形態や習性の起源を説明するたくさんの神話がある。前述のガイと近縁な、カー(クロエリノガン)という「さいづち頭」の鳥がいる。昔むかし、ガイはカーに「おれは石のように地面に墜落することができる」と自慢した。カーが信用しなかったので、二人は競争することにした。ガイは自慢にたがわず、ピューッと落下したが、寸前で宙返りして足から着地した。だが、カーにはそれが見えなかった。カーも同じように落下して、頭から地面に激突して、今のような「さいづち頭」になってしまった。じつは、このお話は、ガイの実際の習性に対する精確な観察に基づいている。雄は交尾期にこのような落下行動によって雌に求愛するのである。


 ガイにはこんな話もある。昔、ガイは樹上に卵を産みつけていたために、すべてハゲワシに食われてしまった。アガマトカゲ(昼間に鳴く習性がある)の忠告をうけて、地上の草むらの中に産卵するようにしたら、卵を盗まれなくなった。だから今でも、ガイとこのトカゲとは、上空にハゲワシが舞っていると「キュロロロ・・・・・」と鳴いて、注意を促しあう。Tたちと原野を歩いているとき、「スガワラ、聞いたか?」と問われることがしばしばある。「いまガイが鳴いたろう? あれを告げているんだ。」彼が指し示す方向を見あげるとほんとうにハゲワシがはるか上空を舞っていたりする。グイのハンターは、ハゲワシの舞う方向に進んで、ライオンやチーターが食べのこした獲物を横どりすることがよくある。


 「さいづち頭」のカーはよっぽどアホな鳥とみなされているようである。昔むかし、ホロホロチョウの夫婦とカーの夫婦が同じキャンプに暮らしていた。だが、夫二人は猟に行った先で、「人食い」二人に食われてしまった。人食いたちはそれぞれの犠牲者からはいだ皮をかぶって、夫たちになりすましてキャンプに着いた。勘のいいホロホロチョウの妻は、その正体を見やぶり、子どもたちを連れて脱出したが、鈍いカーの妻は、子どもともども、人食いに殺された。命からがら親族のキャンプに逃げたホロホロチョウがわけを話すと、彼女の「おば」は「まあまあ、私が賢いように姪も賢いわ、タッタララ、タッタララ」と自慢した。カーの「おば」は、「あれまあ、私がアホなように姪もアホだわ、トラットラットラッ」と情けない声をあげて嘆き悲しんだ。


 読者はこのような神話すべてを荒唐無稽な「お話し」だと思うかもしれない。だが、ここで、私の体験を二つあげよう。ある夕暮れ、私は、高らかな鳥の鳴き声を聞いた。それを自分で口ずさんでみて「あっ、いかにも自慢げな調子だ」と気づいた。Tに確かめてみると、やっぱりホロホロチョウの声であった。またべつの日の夕暮れ、小屋で彼の助けを借りて、語りの聞き起こしをしているとき、彼は「妙にコマドリがやかましく鳴く。ヘビをこわがっているんじゃなかろうか」と呟いて外に出て、ほんとうに茂みの中にひそんでいるコブラを発見して叩き殺した。グイが鳥たちに投げかける神話的な想像力は、自然に対する彼らの注意力を研ぎすますことに役だっているし、逆に、その注意が想像力をかき立てるのである。


動物たちはおもしろい
 私は、自分の立場が矛盾したものであることをよく承知している。自分の手を血にまみれさせることもなく、スーパーで買った獣肉や鳥肉を平気で食っている。近代の生活にどっぷりとつかり、コンピュータで原稿を書き、痩せこけた犬を無慈悲に殴りつけるグイの友人たちとは対照的に、まるまると太った飼い犬を溺愛し甘やかしている。


 だが、グイのハンターたちと、少年時代に動物学者になることを夢見た私とのあいだには、ひとつの共通点がある。動物という存在が「おもしろくてたまらない」のである。Tは、幼いころ笑いころげた記憶として、初めてトビウサギが二本脚で跳びはねて逃げるのを見たときのことを語った。また、彼の父Nは、罠にかかったスティーンボックがやけに暴れて彼をちっぽけな角で突こうとしたとき、腹のよじれるほど笑いながらそれを撲殺したことを語った。動物たちのなすことすべてに好奇心と想像力をかき立てられることと、動物を殺しつづけることとは、グイのなかで表裏一体の実践知をなしている。


 これを書きながら、私の脳裏に、私たちと動物たちとの貧しい関わりかたのイメージが何度も去来した。ひとつはもちろん例のタマちゃんである。それは、過去に評判になった、銀座でヒナを育てるカルガモと同様に、一歩「都市」の外に出さえすれば、あまりにもありふれた存在でしかない。「野生」のわずかな片鱗が身ぢかに訪れることにこれほど熱狂すること自体が、「自然」との恐るべき隔たりの証拠である。


 もうひとつの例は、これよりももっと悲惨だ。うららかな春に京都の嵐山の竹やぶでタケノコを幸せそうにパクついていた若いツキノワグマが射殺されたというニュースを見て、私ははらわたが煮えくりかえる思いがした。いったいこの子グマが人間に対して何をしたというのだろう。


 動物を、この地球に「ともに創られた」対等の他者とみなすことは、私たちに多くを賭けることを要求する。人間がかれらに殺されることもあるという可能性にうろたえるかぎり、自然は私たちにとっての「外部」でしかない。逆にいえば、「人間」らしい責任感のひとかけらもなしに酒に酔って車を運転する「けだもの」に惨殺される可能性をおびた私たちの生に比べて、カラハリ砂漠の自然の一部として生きることがとりたてて「野蛮」だというわけでもない。


●参考文献 拙著『もし、みんながブッシュマンだったら』福音館書店(1999年刊)、拙著『ブッシュマンとして生きる−原野で考えることばと身体』中央公論新社(2004年1月刊、できたてのほやほや)、田中二郎『最後の狩猟採集民−歴史の流れとブッシュマン』どうぶつ社(1994年刊)


〈編集部から〉

 今月号のBook Reviewコーナーに菅原先生の著書『感情の猿=人』(弘文堂、2002)の書評を掲載しておりますのでぜひご覧ください。また、当誌の創刊1周年を記念し、この本を10名様にプレゼントいたします。詳しくはプレゼントコーナーをご覧ください。


ページTOPに戻る ▲


Copyright(C)2002 The Salt Industry Center of Japan. ALL RIGHTS RESERVED.