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<特集  おいしいとは・うまいとは>

茂木健一郎氏写真 おいしさのクオリアを解剖する
茂木健一郎
もぎ・けんいちろう − ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院客員助教授(脳科学、認知科学)、東京芸術大学非常勤講師(美術解剖学)。1962年生まれ。東京大学理学部、法学部卒業。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。主な著書に『脳とクオリア』(日経サイエンス社)、『生きて死ぬ私』(徳間書店)、『心を生みだす脳のシステム』(NHK出版)、近著に『意識とはなにか--<私>を生成する脳』(ちくま新書)がある。主な専門は脳科学、認知科学。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。

おいしさのクオリアの進化と受容

 人間にとって、世界をさまざまな感覚のインターフェイスで感じ取ることは、生きていく上で欠かせないことである。


 私たちの感覚は、さまざまなユニークなクオリア(質感)から構成されている。私たちの感じることのできるクオリアの多様性は、そのまま、私たちが接する世界の多様性である。


 たとえば、甘さ一つをとっても、私たちが感じる甘さには、さまざまなものがある。ハチミツの甘さ、砂糖の甘さ、なしの甘さ、リンゴの甘さ、みかんの甘さ、餡の甘さ、バナナの甘さ・・・これらの異なる甘さを、私たちはそれぞれ異なるクオリアとして感じている。


 食べること、飲むことにまつわる様々な多様なクオリアを、私たち人間は進化の過程で獲得してきた。その機能的な視点から見た必然性は、おそらく、環境の様々な潜在的な食物(食べて良いもの、悪いもの)を見分け、食べて良いものでもその状態(熟しているか、腐りかけているか、その他何かおかしなことはないか)を判別することにあったと思われる。そのような機能的な意義を考えれば、下等な動物にも、人間のように「今このようなクオリアを感じている」と自省する能力まではないにせよ、食べ物のクオリアを感受する能力はあると考えて良いだろう。


 食物にまつわるクオリアは、それに関する判断の当否がそのまま生死にかかわるという意味で、世界認識のインターフェイスとしての感覚の様々な様相においても、もっとも切実な意味を持つと言って良い。時には、間違ったものを食べて死んで行ったかもしれない膨大な祖先の体験知に支えられて、今日の私たちは、多種多様な食物の「おいしさ」を、異なるクオリアとして味わう能力を身につけている。


 命をつなぐ糧である食物について、その味をうんぬんする風潮を批判する人は多い。しかし、一見皮相的なグルメブームの背後にも、食を味わうということに関する生きる切実さが潜んでいる。


 食べるということは、本来一回一回が真剣勝負であったはずである。現代ではそのような記憶は遠いものとなったが、私たちが感じる「おいしさのクオリア」は、生物の進化の過程で延々と積み上げられてきた食べることをめぐる真剣勝負の名残なのである。



1+1が2にならない世界

 食べ物に関するクオリアの興味深い性質の一つは、それが「1+1が2にならない世界」であるということである。


 コーヒーには、コーヒーのクオリアがある。ミルクにはミルクのクオリアがある。ところが、コーヒーにミルクを入れたミルクコーヒーのクオリアは、その構成要素それぞれを単独で飲んだ時のクオリアと確かに関係はしているものの、それとは異なる別のクオリアになっている。


 青色と黄色を混ぜると、その結果としてもともとの構成要素である二つの色と関係はしているものの、全く異なる「緑色」のクオリアが生じる。味覚においても、二つの要素の組み合わせで、全く異なるおいしさが成立する。ここに、味わいの世界の深さがある。


 先に、甘さにもいろいろあると書いた。これらの「甘さ」は、甘み物質そのものだけによってもたらされているのではない。私たちは、その食物の食感、香りその他のさまざまな因子を総合した結果を、「あるユニークな甘さのクオリア」という形で感じているのである。


 メロンの甘さは、メロンのあの独特の香りなしでは成り立ち得ないし、バナナの甘さは、ねっとりとしたバナナの触感をその不可欠な構成要素として成立している。


 一般に、私たちの認識において、クオリアは、様々な要素から構成される複雑な対象を、まとめて一つのユニークな存在として感じる形式であると考えられる。色で言えば、「透明感」のクオリアは、単独の色では実現しない。透明なコップがあっても、そのコップの各部分の色そのものは透明ではない。透明感のクオリアは、一つ一つをとれば透明とは感じられない色が、ある特定の空間的パターンで分布した時に成立する。透明感とは、色の要素がある特定の分布をしている様子を、まとめて一つのユニークな質感に統合した時に成立するものなのである。


 クオリアは、1+1を2としてとらえるのではなく、全く別のものとしてユニークに把握する私たちの感覚のメカニズムである。だからこそ、たとえば、カレーのルーを単独で食べた時のクオリアと、白飯を単独で食べた時のクオリアを単純に共在させたものとは異なるようなクオリアが、「カレーライス」という形で二つの要素を組み合わせた時に成立するのである。トンカツも、餃子も、その個々の構成要素の味わいには還元できないようなクオリアを感じさせる。私たちが日常的に体験しているさまざまなおいしさのクオリアは、1+1が2にならない世界において、さまざまな要素の混合物が、一つ一つの要素に還元されるのではなく、その組み合わせ自体が一つのユニークな実在として把握されるような認識の形態なのである。



おいしさのクオリアと言語
 テレビのグルメ番組などで、レポーターが、食べ物の味を「おいしい」とか「うまい」とか、貧弱な言葉でしか表現しないと、しばしば非難されることがある。


 確かに、私たちが実際に感じている食べ物にまつわるクオリアの多様性を考えると、そのおいしさを表現する言葉の貧弱さは意外とさえ言える。


 たとえば、蕎麦をつゆに漬け、刻んだネギと絡ませながら食べる時のクオリアは独特である。タピオカを入れたアイスミルクティーは、タピオカを単独で食べ、アイスミルクティーを単独で飲んだのでは決して得られないようなクオリアを与えてくれる。これらのクオリアは、私たちの意識の中でそれぞれユニークなものとして把握されているが、そのユニークさを表す言葉を多くの場合私たちは持っていない。せいぜい、「おいしい」、「さわやか」、「もちもちとしている」、「つるつるとしている」などといった限られたボキャブラリーで自分の感じているおいしさを表現するだけのことである。


 大抵の食べ物のおいしさのクオリアについて、私たちはそのユニークさを感じていながらも、日常生活の中ではそれぞれに特定の表現を与えることなく通りすぎてしまうのである。


 プロの料理人でさえ、食べ物のおいしさのクオリアの一つ一つのユニークさと、それをつくり出す材料構成、調理過程について一般人よりは深い洞察を持っているにせよ、それぞれのユニークなおいしさのクオリアを表す言葉を持っているかどうかと言えば話は別である。おいしさのクオリアは、私たちの生命の維持に直結する感覚に属するにもかかわらず、おそらくそうだからこそ、その多くが意識的に処理されることなく、十分な言語表現を与えられていないのが実情なのである。


 ワインのように、それぞれの製品が与えるクオリアのユニークさに重大な関心が向けられ、微細なクオリアの差が実際の価格差に反映されるような経済構造があると、はじめて、味わいのクオリアに対するユニークな言葉の表現の発達がうながされることがある。


 立花隆さんが、以前、雑誌の記事の中で、フランスのワインの専門家たちへの訪問記を書かれているのを読んだことがある。立花さんによると、専門家たちは、ワインの味わいを表す言葉を二百くらいは持っているという。ワインの味わいは、本来複雑で豊かなものであるが、私たちはそれらを表す十分なボキャブラリーを普段使いこなしていない。ところが、専門家に「このワインは日なたの藁の香りがする」と言われてから飲むと、確かにそのワインはそのような言葉でしか表しようがない味わいを持っていることに気が付くのだということである。


 クオリアを数値化したり、記号化したりすることは一般には難しい。一方で、私たちがワインを飲んだり、食べ物を食べたりする時に、私たちの意識の中でそのような行為に伴う質感がその他の何とも異なるユニークな質感として感じられていることも事実である。


 ワインの専門家たちは、そのような、素人が確かに意識の中でユニークな感覚として感じてはいるものの、いまだ言語化できていないクオリアにピンポイントの表現を与える。だからこそ、いったんその表現が与えられれば、そのような訓練を積んでいない人でも、ある程度は「確かにそのような味わいがある」とその的確な表現を確認することができるのである。


新しいクオリアに対する好奇心

 ネオフィリア(新奇性の嗜好)は、新生児から大人まで、人間の本質的な傾向であると考えられている。


 食べるという行為においても、人類は、その歴史の中で一貫して新しい味わいのクオリアを求めてきたに違いない。もちろん、未知の味に対する警戒心はあっただろうが、それを上回る好奇心が、結果として人類の食のレパートリーを広げ、食材の多様性を通した人類の栄養状態の改良、食糧の供給源の多角化、安定化に寄与してきたことだろう。


 生肉と焼き肉は異なる味わいのクオリアを持っている。よほどの偶然の蓄積がない限り、自然状態において、焼き肉を味わうことができる動物はいないはずである。焼き肉の味覚は、いわば、人間がそのネオフィリアに駆動された探究の結果史上初めて獲得した味わいのクオリアである。その味わいの獲得は、人類の感覚の歴史上画期的な出来事であったと言っても過言ではないだろう。


 塩を料理に常用できるようになったことも、人間の日常の味わいのクオリアを一変させたと考えられる。醤油やみそといった調味料は、それを使う文化圏の味わいのクオリアをそれまでとは全く異なるものに変えてしまった。胡椒を始めとする香辛料を求めて世界中を航海する人々の情熱は、結局のところ、新しい味わいのクオリアを求める人間のネオフィリアに駆られていたのだろう。


 もちろん、塩を始めとする調味料を使うこと、食材を焼いて調理することの意味を、客観的な栄養学の体系の中で議論することもできる。しかし、近代的な栄養学が確立したのは、人類の長い味覚の歴史の中で、ほんの最近のことである。人類が、近代的な辞書が確立する以前の言葉の長い歴史の中で一つ一つの言葉の意味を明確に定義することなく用いてきたのと同様、人類は、近代的栄養学の確立以前の長い歴史の中で、自分の味覚だけをたよりに必要な食物をとってきたのである。


 人類の長い味覚の歴史の中で、新しい味わいに挑戦するということは、自分の摂取する栄養のレパートリーを拡大することにつながるとともに、体調を崩したり、場合によっては死に至る可能性の中に自分を投企する行為であったことだろう。


 近代的な栄養学、調理法による安全圏に囲い込まれて、安心して味わいのネオフィリアを追求することができる現代人も、時には、今自分が食べているもののクオリアのユニークさをじっくりと見極めることが、潜在的には生死にかかわる重大事であった、人類の圧倒的に長い歴史に思いをはせるべきなのかもしれない。



おいしさは、人々を饒舌にする

 クオリアという視点の興味深く、また難しい点は、二人の人間の間で、感じているクオリアが同じものであることを確認することが今のところ(そしておそらくは原理的に)不可能であるということである。


 私たちは、子供の頃からミルクを飲んでいて、それぞれが、ミルクの味わいとしてはっきりと思い浮かべることのできるクオリアを持っている。しかし、私たちの誰一人として、自分が感じているミルクのクオリアと、他人が感じているミルクのクオリアが同じものであることを確認した者はいない。


 餃子を食べると、あの独特の味わいが得られる。しかし、その味わいが、他人にとっても確かにあの味わいであることを確認する術はない。客観的に成分を分析したり、弾性や温度といった属性を測定したとしても、それ自体が、味わいの同一性を保証するものではない。


 私たちは、一人一人がその主観的な味わいの世界の中に原理的に閉じこめられているのである。


 日常的な文脈で言えば、味わいのクオリアについて言葉を通してコミュニケーションをとることが、一人一人が閉じこめられている味わいの小宇宙の中の孤立からかろうじて逃れる唯一の方法である。


 だからこそ、私たちは、今までにない味わいのクオリアに出会った時、それを他人に伝えたいという強い欲望を持つ。


 何人かで連れ立って温泉地に出かけていく女性が、現地での食事を楽しみにする。そのような時、別に「一つ普段とらない栄養素でもとってみようかしら」と思っているわけではないだろう。彼女たちを駆り立てているのは、そこにしかないかもしれない味わいのクオリア体験である。


 そして、そのようなネオフィリアの追求の結果、それまでにないすばらしい味わいのクオリアに出会うことができたら、今度はそれを誰かに伝えたくなる。自分の親しい人に、どのような味わいか教えたくなる。そのようなコミュニケーションへの衝動を通して、私たち人類は、本来プライベートな(私秘的な)ものであらざるを得ないクオリア体験を、何とか伝えようとするのである。


 そのようにしてクオリアを共有することは、人類の文化の発展の上で、大きな意味を持ったに違いない。


 数人の気の合う仲間で食卓を囲み、料理を味わうということは日常的に見られる習慣である。そのような一見何気ない日常の風景の中に、人類の生を支えるもの、人類を駆り立ててきたもの、人類の文化を発展させてきた味わいのクオリアを巡る探究の旅の原風景がかいま見えるのである。



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