|
人間にとって、世界をさまざまな感覚のインターフェイスで感じ取ることは、生きていく上で欠かせないことである。
私たちの感覚は、さまざまなユニークなクオリア(質感)から構成されている。私たちの感じることのできるクオリアの多様性は、そのまま、私たちが接する世界の多様性である。
たとえば、甘さ一つをとっても、私たちが感じる甘さには、さまざまなものがある。ハチミツの甘さ、砂糖の甘さ、なしの甘さ、リンゴの甘さ、みかんの甘さ、餡の甘さ、バナナの甘さ・・・これらの異なる甘さを、私たちはそれぞれ異なるクオリアとして感じている。
食べること、飲むことにまつわる様々な多様なクオリアを、私たち人間は進化の過程で獲得してきた。その機能的な視点から見た必然性は、おそらく、環境の様々な潜在的な食物(食べて良いもの、悪いもの)を見分け、食べて良いものでもその状態(熟しているか、腐りかけているか、その他何かおかしなことはないか)を判別することにあったと思われる。そのような機能的な意義を考えれば、下等な動物にも、人間のように「今このようなクオリアを感じている」と自省する能力まではないにせよ、食べ物のクオリアを感受する能力はあると考えて良いだろう。
食物にまつわるクオリアは、それに関する判断の当否がそのまま生死にかかわるという意味で、世界認識のインターフェイスとしての感覚の様々な様相においても、もっとも切実な意味を持つと言って良い。時には、間違ったものを食べて死んで行ったかもしれない膨大な祖先の体験知に支えられて、今日の私たちは、多種多様な食物の「おいしさ」を、異なるクオリアとして味わう能力を身につけている。
命をつなぐ糧である食物について、その味をうんぬんする風潮を批判する人は多い。しかし、一見皮相的なグルメブームの背後にも、食を味わうということに関する生きる切実さが潜んでいる。
食べるということは、本来一回一回が真剣勝負であったはずである。現代ではそのような記憶は遠いものとなったが、私たちが感じる「おいしさのクオリア」は、生物の進化の過程で延々と積み上げられてきた食べることをめぐる真剣勝負の名残なのである。
|