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Director's Notes

他人(ヒト)に迷惑をかけない生き方は正しいか



2003年8月号 No.10

 子供の将来や育て方をきかれたお母さんは「偉くならなくてもいいから、他人(ヒト)に迷惑をかけない人間になって欲しい」という。


 学校教育などにおいても「他人に迷惑をかけない」ことは倫理や道徳として又社会生活を営むうえでの最低のルールとしてとりあげられているようである。


 一般的には正しいように思えるが「他人に迷惑をかけない」ことは、普遍的価値を持つものであろうか。いかにも正しそうにみえるので、そこで思考停止に陥っていないだろうか。


 近年「援助交際」と称する売春がはやっているらしい。勿論、多くの大人は否定的見解である。しかし、「誰にも迷惑をかけているワケじゃないのにどうしていけないの?」という当人達からの反論に対し答えに窮している大人が多いようである。


 なんとなく「他人に迷惑をかけない」生き方が正しいと思っていると、このようなことになる。


 「他人に迷惑をかけない」とは、どのような意味なのか、あらためて考えてみたい。


 この言葉で問題となるのは「他人(ヒト)」と「迷惑」の二つである。別々に論じられるものではないが一応分けて考えてみたい。


 編集子は「他人」と書いてヒトと読んでいるが、そのまま「人」と書いても良いように思われる。だが「他人」と「人」ではかなり意味が違うように思う。


 「他人」と書くと「知らない人、関係のない人」という意味が強くなる。「人」と書くと親・兄弟を含んだ全ての人という意味が強くなる。


 なぜこのような違いを重視するかと言えば、親は子供に必ず迷惑をかけられているからである。


 親が子供を育てるのは一部の動物にとっては本能である。しかし、動物が子供を育てるのは当り前ではない。本能として子供を育てる動物は哺乳類と鳥類を中心とした一部だけであり、魚類など大部分の動物は「産みっ放し」が当然である。


 人間の子育ては本能ではなく社会制度によると考えるべきであろう。人間の親子関係は、本能で説明するには長過ぎる。


 人間は本能だけでは子育てができない動物であり、「親子の愛情」とか「母親の愛」といったフィクションを構築することにより、社会的制約として、子育てを強制しているのである。


 従って、親にとって子育ては、子供に迷惑をかけられていると感ずることがあるはずである。幼児の虐待や育児の放棄が最近目立つのは、その証拠の一つであり又子育てをすべきであるという社会的制約がゆるくなったということでもある。


 もっとも子供にとっては「冗談ではない」ということになる。子供にとって子育てを放棄されることは、大変な迷惑である。


 人間の親子関係は本能的なものでなく、社会制度であるため永遠に続く。仮にどちらかが死んでもなお継続する(親の墓参りなどは今でも子の社会的義務である)。このため人間の親子は永続的に迷惑をかけあう関係ということになる。であれば「人に迷惑をかけない」人間などそもそも存在しないはずである。


 「親子は別だ」という反論があろう。確かに親子は他人ではない。では兄弟姉妹はどうであろうか。又祖父母と孫の関係はどうであろうか。「他人」でない関係はどこまで延長されるのであろうか。


 我国の民法では、親族は互いに協力し支え合うべきであるとされている。この親族は、6親等内の血族及び3親等内の姻族をいう。合計すればかなりの人数となる。


 これらの人々は互いに迷惑をかけ合う関係と考えて良いのであろうか。更に言えば親族でなくとも師弟関係や親友と呼ばれる関係、恋人同士ではどうであろうか。


 又「袖すり合うも他生の縁」という言葉があるように仏教的にはすべての人(人だけではないが)は、関係性の中で生きていると考えられている。


 もともと人間は単独では生きられず社会を構成することにより、その中で互いに迷惑をかけ合いながら生きている存在なのである。


 「そのような関係は迷惑とは言わない」という反論もあろう。では、迷惑とは何を意味しているのであろうか。


 例えばAがBとCに対して同じ行為をしたとする。この場合、Bは迷惑に感じたがCは迷惑と感じなかったということがあり得る。というよりもこの方が多いかもしれない。


 これは、AとB、AとCの関係によって違いが出るし又BとCの性格や考え方などの属性によっても違いがでる。


 迷惑を一義的に決定することは難しい。殺人や強盗など刑法犯に該当するようなことは、誰にとってもおそらく迷惑であろう。


 しかし、高校生が隠れてたばこを吸ったり、援助交際をする分には、迷惑をかけている人はいないことになる。ただしバレたりすると親や先生には迷惑となるであろう。その場合でも親や先生は「自分達にとって迷惑だからやめろ」とは立場上言わないし、言えない。その程度の迷惑は黙って耐えなくてはならない。


 池田清彦がリバタリアンの立場から、「人間の恣意性は他人の恣意性を不可避的に侵害しない限り最大限尊重されるべきである」(『正しく生きるとはどういうことか』新潮社、1998)と書いている。


 ただしこれは能動的なものに限るとしている。つまり、人は他人を好きになる権利はあるが、その相手から好きになってもらう権利はないということである。


 逆にいうと好きになられてしまった人は、いかに迷惑であっても相手が「愛の告白をしたい」ということ自体をやめさせることはできない。もちろん「NO!」ということは自由である。


 人間が社会を構成する以上この程度の迷惑は甘受せざるを得ないのである。


 又若い女性にとって「クサイおじさん」は存在自体が迷惑であるかもしれない。電車に乗り合わせた時など特にそうであろう。だが「クサイおじさん」全てを消滅させることはできない。その程度の迷惑はガマンしてもらわなければおじさんの立場がない。


 殺人や強盗は誰にとっても迷惑だと書いたがこれすら時と場合による。イラク戦争がそうである。ブッシュにとってフセインを殺すことは正義であった。フセインにとっては迷惑であったろう。


 このように考えてくると人間が「ヒトに迷惑をかけない」で生きるということは殆んど不可能と思われる。


 つまり「ヒトに迷惑をかけない人間になって欲しい」という言葉は無意味なものとなる。これが、援助交際をしている女子高生からの「誰にも迷惑をかけているワケじゃないのにどうしていけないの?」という反論に対し大人が答えに窮している本当の理由である。


 無意味な言説に対する無意味な反論に対しては答えようがない。これを「逆手にとる」という。


 釈迦もソクラテスも「人間にとって単に生きることでなく“よく”生きること」が重要であると言う。決して「ヒトに迷惑をかけないで生きる」ことではない。


 では「“よく”生きる」とはどういうことか。ソクラテス流に言えば「知と真実とそして魂をよりすぐれたものにすることに心を向ける」(藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書、1998)生き方であり、釈迦はもちろん「悟る」ことである。


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