中村桂子先生講演会「21世紀は生命の時代−生命誌の視点から」

日時:2003年10月24日(金) 18:30〜20:00
場所:立正大学大崎キャンパス石橋湛山記念講堂


主催:財団法人塩事業センター、共催:立正大学、後援:品川区教育委員会

会場風景

 「生きもの」を機械としてではなく、本当の「生きもの」として見ること。21世紀はそうした「生命」に基本を置く時代となるだろう。
 ゲノムのない「生きもの」はいない。他方、多様性をもつのも「生きもの」の特徴だ。このように、同じだが違う、普遍性をもつが多様性ももつ。その両面があるのがゲノムであり、これが「生きもの」の不思議でもあり面白いところでもある。
 「生きもの」の側から見るとどう捉えられるのか、また何が言えるのか。21世紀が「生命」の時代だという意味は、そういう見方で社会を見直してみようというということだ。そのヒントになる言葉を私は「愛ずる」に発見した。この「愛ずる」をキーワードに、今こそ第二のルネサンスを起こしたい。


 財団法人塩事業センターでは去る2003年10月24日(金)、中村桂子先生をお迎えして講演会を開催いたしました。

 当日は約300名もの熱心な受講者の皆様にお集まりいただき、好評のうちに会を終えることができました。ご来場者の皆様、関係者の皆様に改めて御礼申し上げます。

 中村先生にご快諾・ご協力いただき、当日お話しいただきました興味深い内容をここに講演録として公開できるはこびとなりました。皆様のご参考にしていただければ幸甚です。

財団法人塩事業センター

中村桂子氏写真
講師:中村 桂子(なかむら・けいこ)
JT生命誌研究館館長、理学博士

 1936年東京生まれ。東京大学理学部化学科卒業、同大学院生物化学科修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任、現職に。著書『自己創出する生命』『「生きもの」感覚で生きる』『科学技術時代の子供たち』ほか多数。



中村桂子先生講演会「21世紀は生命の時代−生命誌の視点から」講演録

 21世紀は「生命科学」の時代だとよく言われますが、そうではなく、21世紀は「生命」の時代にしなければいけないと思っています。

 人間が地球に登場する以前からほかの「生きもの」はすべて存在していました。ですから長い間「生きもの」と接してきた。何も改めて「生命」と言わなくてもいいじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。もちろんその通りですが、改めて「生命の時代」と強調しなければならない理由があるので、そのことをお話しさせていただきます。

 私たちが生きてきた20世紀はどういう時代だったか。一言で言いますと「機械と火の時代」でした。とくに20世紀の後半はそうですね。機械と火、つまりエネルギーによって、私たちの生活はとても便利になりました。しかし、21世紀を迎えた現在、同じように「機械と火」で突っ走れるかというとそれはノーだと思います。決して「機械と火」を否定しているわけではありません。私たちは「機械と火」から沢山のものを作り出し、それで豊かになったことは事実なのですから。ただ、これ以上便利さだけを求めて「機械と火」を増やし続けて本当の豊かさが得られるだろうかと問うと、おそらく無理でしょう。私は、これからは「生命と水」が重要になってくると思います。「機械と火」に代わって、「生命と水」に象徴される時代になるだろう、いや、しなければならないと思っています。


クローンと「生きもの」を分けるもの

クローン羊、ドリー
Roslin Instituteホームページより引用
 ここにいるのは一見何の変哲もない羊ですが、もうお気づきかと思います。あえてここに出しましたのは、この羊は、数年前新聞やテレビをにぎわしたドリー、スコットランド生まれのクローン羊なのです。メスの乳腺の細胞を基本に生まれました。ドナー(提供者となるメス)の乳腺の細胞にある核を採り出して、別のメスの羊の卵細胞にこの核を入れます。もちろん、卵細胞にも核がありますから、それは取り除いておきます。そうやって核を入れた卵細胞をさらに別のメス(代理母)の子宮に入れて妊娠させ、生まれてきたのがドリーです。ここですでに母親のようであって母親でないようなメスが3頭登場することに注目して下さい。ちょっと特別の「生きもの」です。

 中学や高校の生物の時間で習ったように、核の中には染色体が入っています。この染色体の実態がDNAという物質であることは、すでにみなさんもご存知のとおりです。このDNAがいろいろな性質を決めているわけですが、ドリーの性質もこのDNAによって決まります。

 普通、動物の生殖は精子と卵の合体、つまり受精から始まります。したがって、「動物(生きもの)」は、両親のどこかに似ているものですが、ドリーの場合は、精子なしで生まれましたからもとの羊とそっくり同じです。もっとも、そっくり同じといっても、遺伝的性質がまったく同じというだけで、完全に同じというわけではありません。

 ドリーが生まれると、クローン羊ができるのであれば、ほかの「生きもの」でも可能だろうということで、クローン牛もクローンマウスも生まれました。そうやってクローンが次々に生まれてくると、どんな「生きもの」でもクローンができるだろうという考えから、クローン人間をつくるという人たちが出てきました。本当に行われたかどうかはわかりません。とにかく、そういう考えが生まれてきたということは確かです。

 そこで、問題になってくるのは、果たしてそんなことをしていいのだろうかということです。本来なら、両親がいて子どもが生まれるものなのに、そういうことなしに全く同じものをそんな風につくっていいものだろうか。そういう疑問が生まれてきます。そこで、生命倫理という言葉が生まれ、いわゆる生命操作を人間として行ってよいか、それは許されることかと考えます。もちろんそれは大事なことですが、私は、ここで「倫理」ではなく「生きもの」という視点からクローンについて考えようと思います。

 羊や牛に倫理という言葉は使いません。倫理というのはあくまでも人間について言っていることですから。そもそもクローン動物は、「生きもの」として扱っているのではありません。たとえば、羊は薬づくりの工場として計画されたものですし、牛は肉として扱っています。もちろん、肉牛でも育てる時はかわいがるわけですが、それは肉として育てている。それは仕方のないことで、「生きもの」はほかの「生きもの」の生命をいただかずに生きられないのですから。そこで「効率よい生産のためのクローンをつくる」という選択はあるでしょう。ただし、羊や牛の姿をしているけれど、「生きもの」としてはみないという方向にさらに一歩踏み出す決意が必要です。

 じつは、このことがとても重要なことだということが、最近わかってきました。クローン動物は、見た目は普通の動物と変わりがありません。ドリーは、どこから見ても普通の羊と変わりません。しかし、「生きもの」として見た場合はどうだろうか。普通の動物と同じだといえるのだろうか。どうもそうはいえないのではないか。そいうことがこの数年の研究でわかってきました。

ヒトの染色体
ヒトの染色体
国立循環器病センターホームページより許諾を得て引用
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamph/pamph_25/panfu25_01.html

 これはヒトの染色体の図です。ヒトの場合全部で46本あります。そのうちの23本は父親の精子から来たもので、また23本は母親から来たものです。23本のうちの22本はペアになっている(常染色体)のですが、残りの2本のペアは、その組み合わせによって性別が変わる性染色体(XXならメス、XYならオス)です。半分はお父さんから受け継ぎ半分はお母さんから受け継いで一緒になる。哺乳類の子どもの誕生にとって受精が不可欠だと考えられていたのは、この染色体が対をなすことで細胞分裂が始まるからです。精子と卵が一緒になった受精卵が細胞分裂を開始することによって個体になる。一度分化した細胞のゲノムは、それぞれの細胞としてしか働けないと考えられていたのに、クローン動物の誕生により、受精時と同じ状態に戻せることがわかりました。これは生物学としては、興味深いことです。

 ところが、分化した細胞を戻すのと、受精とでは違うということが最近わかってきたのです。ほとんどの遺伝子は父親から来ても、母親から来ても同じように働きます。ところが、遺伝子の中には父親から来たものだけが働く、母親から来たものだけが働くというものがあるのです。一度必ず精子を通らないといけない遺伝子、卵を通らないといけない遺伝子があることがわかったのです。

 これをゲノムの刷り込み(インプリンティング)といいます。受精の際ゲノムに、ある遺伝子が父親由来か母親由来かを区別する目印がつけられるのです。刷り込みです。そして、この刷り込みがあるのは哺乳類だけなのです。この理由はまだわかっていません。どうしてそういうことをするのか、また、なぜ哺乳類だけなのかわからない。しかし、とにかくそういうことがある。そして、この刷り込みがとても大事な働きをしていることも確認されました。哺乳類にとっては、やはり受精が不可欠なのです。一つの個体をつくるためには受精をさけて通れない。クローン動物の誕生によっていったんは受精なしで子どもを作るということができると考えられたわけですが、どうもこの方法では本当の「生きもの」とは違うものが生まれてしまう。もちろん、ドリーは見た目も変わらないし羊であることには変わらないのですが、「生きもの」としての羊とは何かが違う、刷り込みの発見は、そういう疑問を私たちに投げ掛けました。

 肉を効率良く生産するためには、クローンをつくってもかまわない――と言うと語弊がありますが、家畜の場合、私たちはそういう見方で扱ってきました。しかし、人間の場合はどうか。「生きもの」として、もっと正確に言えば一人の存在としてみると、当然ですが家畜とは違います。何かの目的のために生まれるわけではありません。いろいろなクローン動物ができて、さていよいよ人間の番だというのはありえない。倫理を持ち出すまでもなく、「生きもの」として考えると、これははっきりノーです。


 20世紀は「機械と火」の時代と言いましたが、私たちはその中にどっぷりとつかっています。その中で科学技術を開発してきました。クローン動物は明らかに科学技術が生み出したものです。薬をつくる、肉の生産効率を上げるなどためにクローンは生まれました。それは、「機械と火」の文明がつくり出したものであり、その意味では生物を扱ってはいても、それは「生命科学」であり、対象を「生きもの」ではなく機械のように見ている。冒頭「生命科学」ではなく「生命」と申し上げたのは「生きもの」を機械としてではなく、本当の「生きもの」として見るということです。もう少しはっきり言えば、「生きもの」を基本に私たちの暮らし方、文明を考えていくということです。「生きもの」の側から見て何が言えるのか。現代社会の問題を「生きもの」の側からどう捉えることができるのか。21世紀が「生命」の時代だという意味は、そういう見方で社会を見直してみる、考え直してみることが必要ではないかということです。これからそれを考えます。


ヒトという存在−自然・人間・科学技術の関係−
 人間のことを生物学ではヒトと言います。洋服を着たりケータイをつかったりテレビをみたりゲームをしたり......、こういう時には人間と呼びますが、ヒトという場合は、「生きもの」としての存在を言います。人間はどうあがいてもヒトであることはやめられない。それはどんなに文明が進んでも。このヒトという意味をもう少し考えてみると、それは命を持っている存在だということになります。命を持っている、すなわち生命ということですね。生命を持った存在として自らを見て、また「生きもの」を見た時に、「機械と火」だけの視点で見てきたものとは違うものが見える。あるいは、違う考え方ができる、それを申し上げたいのです。

 内なる自然という考え方があります。私たちが、普通、自然環境というような場合は外の自然を指します。それに対して内側の自然、つまり私たち自身です。今、自然破壊が問題になっていますが、これは外の自然の破壊。クローン羊は、お父さんがいないわけですから、体として内なる自然が壊されているともいえるでしょう。

 内なる自然という場合、人間ではこころもそのひとつだといえます。経済優先の社会で、何でもかんでも競争ばかり。他人を蹴落としてでも前を走りたいと躍起になっている。科学の世界に身を置いていますと、とくにそれを強く感じます。こういう発見や発明でアメリカに勝つんだと、すべてが競争優先で、特許をいちばん先に取った者が勝利者だとなっており、ますますその傾向が強くなってきました。これでは、こころが壊れます。日常生活でも、毎日の新聞で同じようにこころの破壊を感じる報道が多いのが気になります。

 「生きもの」とは何か。これに正確に答えることはできませんが、「時間」という答があります。生きていることの基本は、時間です。

 たとえば、自動車を作る時には早く作ることが大事です。各国がしのぎを削っていて、同質のものを早く沢山作った国が経済的に有利になる。できるだけ効率良く製造したいと考えるのは、機械の論理としては当然です。

 けれども、「生きもの」ではどうでしょうか。ヒトの赤ちゃんは、十月十日で生まれてきます。それは、人類として誕生してから今に至るまで変わりません。270日お母さんのお腹にいなければ生まれてこられない。イネは春に苗を植えて、秋に収穫します。効率良く生産したいからといって、四季を無視して植えたり刈ったりすることはやりません。それは、「生きもの」には必要な時間があるということを、私たち自身が認識しているからにほかなりません。

 しかし、子どもが計算問題を解く時に、10問をいちばん早く解けた子どもが大きなマルをもらいます。その時に、計算問題に出てきた数字の意味にこだわってしまったら競争に乗り遅れてしまいます。1ってなんだろうか、0ってなんだろうか、そんなことをもしも考え始め、早く答えられなければ、その子どもはダメな子どもと思われてしまうでしょう。結果だけで判断すれば、そうなります。でも、0とは何かという問題は、学問的にもちゃんとした答えが出ていない難問です。その子は、そういう本質に向き合ったのです。しかし、今の教育では、そういう子どもは単にダメな子になってしまうのです。その子にとっては、その問題と格闘することがその子の時間、その子の成長ですが、今の教育はそういう時間を見てくれません。子どもを「生きもの」として見ていないのです。

 みなさんの中にもお読みになった方は多いと思いますが、ミヒャエル・エンデが書いた『モモ』というお話があります。私は、大好きです。平和に楽しく暮らしている町に、ある時、時間銀行ができます。時間をどんどん預けなさいといって時間を集める。そうしたら、町のみんなが忙しくなってしまって、楽しかった町がどんどん壊れていく。そこで、モモが時間を取り戻し、再び平和で楽しい町に戻るという話です。時間は誰にもとても大事なものだとわかっています。わかってはいるのですが、やはり機械の時代には、そうした時間はみんな呑み込まれてしまうのです。何から何までスピードが優先する。けれども、ヒトや命は、時間を持っている、スピードだけではない価値があるということをもう一度考えてほしいと思います。時間というもの、「生きもの」というものを、根本から考え直さなければならない、21世紀はそういう時代だと思います。

 では、いったい何を考えればいいのか。根本的に考え直すというけれど、何を考え直すのか。そういう時には、昔の人に聞いてみるのがいいと思います。昔の人は、それこそ時間がたっぷりあったのでしょう、じつによくものを考えています。古典を若い頃はあまり読まなかったのですが、最近よく読みます。そうするとびっくりしてしまいます。私が、今一生懸命考えていることは、昔の人たちはとっくに考えているのですから。とくにギリシア時代の人たちとかお釈迦様とか。

ラファエロ「アテネの学堂」(部分)
ラファエロ「アテネの学堂」(部分)
 これは、ルネサンスの画家ラファエロの描いた「アテネの学堂」という作品です。現在、ヴァチカン博物館のラファエロの間にあります。ギリシア時代の哲学の殿堂を描いたものですが、中央にいる二人、左側がプラトンで右側がアリストテレスです。ラファエロは絵の中にいろいろな寓意を込めました。この二人の手に注目して下さい。プラトンは著書『ティマイオス』を抱えて右手の指で天を指しています。一方のアリストテレスは、著書『ニコマス倫理学』を持って、右手を地に向けています。プラトンは、世の中にはいろいろなことがあるけれども、すべてに普遍性がある。すべてのものごとの基本をなすそういう普遍性をきちっと捉えなければならないと。一方のアリストテレスは、世の中にはいろんな事物があるのだから、それを一つ一つきちんと調べる必要がある。

 この二つの考え方を、「生きもの」にあてはめると、普遍性と多様性を見るということになる。そしてこれが大事なところですが、ラファエロは、この二人の哲学者を、まったく同じ大きさで描いています。どっちが偉いとか、どっちが大事だということなしに。つまり、普遍性も多様性も同じように大事だと。両方に目配りしないと物事の本質はきちっと捉えられない、ラファエロの絵はそう私たちに語りかけているわけです。

 生物学では、解剖をします。そうしますと、どの生物も基本は同じだということがわかります。たとえば、犬と猫は違って見えますが、いざ体を開いてみますと、心臓があり胃があり腸がありというように同じです。「生きもの」には共通性があるということがわかる。これは普遍性です。一方、同じ鳥でも、羽の形やくちばしの色や大きさや、さまざまな種類があります。鳥や犬や猫がいるように、生物というもの自体にたくさんの種類があります。これは多様性ということです。私は、生物学の二つの方向性を、船の航海になぞらえてミクロの航海、マクロの航海と呼んでいます。解剖学や生物学は、どんどん生物の内部に分け入っていくという意味でミクロの航海であり、博物学は、生物という全体を見渡すという意味でマクロの航海です。


同じだけれど違うという不思議
 話は19世紀に一気に飛びます。19世紀になると進化論が登場します。ダーウィンは、マクロの航海に出掛けて、長い時間をかけて沢山の生物を調べた結果、どうもバラバラではないらしい、何かもとになるものがあってそこから生まれてきたのではないかと考えました。同じ頃メンデルが遺伝の法則を発見する。「生きもの」は、みんな遺伝子を持っており、それが親から子へと渡されていく。エンドウ豆も、ショウジョウバエもネズミも人間も、遺伝子の伝え方は同じだということがわかったのです。また、解剖で動物は共通の臓器を持っていることがわかったわけですが、顕微鏡で見てみると、みな細胞でできている。「生きもの」で細胞でできていないものはありません。一つの例外もない。これは、やがて共通の物質が働いているという研究に進み、生化学へと発展していきます。

 今述べた19世紀の発見、進化、共通性、細胞、生化学が20世紀になって一つにつながるんです。それがDNAの発見です。すべての「生きもの」のあらゆる現象の基本にある共通なものとして存在するのがDNAという物質であることがわかったわけです。これは、遺伝子の本体であり、一つの細胞の中にあるすべてのDNAをゲノムと呼びます。

 ニュートンの法則は、力学における普遍性の発見でした。自動車も飛行機も建築も、みんなニュートンの法則にのっとって作られ、動きます。「機械」の時代は、このような法則、つまり共通性の発見によって、あらゆるものをいわば同じような機械とみなして考えることを可能にした時代だと言い換えることができるでしょう。その中でのDNAの発見は、生物という機械を扱う時のニュートンの法則のように考えることができるわけです。生物に共通する物質ですから、生物を機械のように考えて、それを作ったり動かしたりする能力を持つものと考えると非常に具合がいい。いろいろな意味で操作がしやすくなるわけです。20世紀は、DNAの発見によって「生きもの」をあたかも機械のように見做し、「生きもの」を科学技術の対象として操作できるようになったのです。クローン羊の誕生はその一つだといえます。これが「生命科学」であり、最初に申し上げたように、「生命科学の時代」であれば、機械から抜け出してはいません。これを「生命の時代」にするためにはどうしたらよいのか。これが問いです。

 それで申し上げましたが、一つの細胞に入っているDNAのすべてをゲノムと呼びます。ゲノムは、ある「生きもの」の体作りからその一生の働きを支えます。

 「生きもの」はみな細胞から成り、その中にDNAが入っている。それをゲノムと呼ぶわけですから、ゲノムを持っていない「生きもの」はいません。犬も鳥も桜の木もハエもみんなゲノムを持っている。ゲノムを持っているという意味では、「生きもの」はみんな共通している。一方、ヒトはヒトであり桜の木は桜の木です。さらに人間を見ると、それぞれ違った個性を持っています。一つとして同じ顔はありません。イヌでもそうでしょう。同じなのに違う。つまり、同じという面と違うという面の両方を持っているのがゲノムです。ここが、「生きもの」のとても不思議でとても面白いところです。

 先ほどのラファエロの絵を思い出して下さい。ラファエロは、プラトンとアリストテレスの二人を同じに描きました。普遍性も大事だけれど多様性も同様に大事だと。同じところを持っているけれど、違うところもある。みんな同じなのに、みんな違う。それはなぜなの? これが「生きもの」に対する問いです。しかも、それを具体的に調べるには、まずゲノムとはどのようなものかを調べればよいことがわかりました。ゲノムはこのような意味をもつものです。両方を調べられるものを私たちは手にしたのです。これを鍵としてしっかり「生きもの」を研究していきたいと思います。


「愛(め)ずる」を活かす科学を目指して
 「生命」の時代とは、この同じだけれど違う、普遍性と多様性の両方持っているのが生命だということを基本に、研究や技術を進め、社会の価値もそこに置く時代です。

ラファエロ作「アテネの学童」(部分)
生命誌絵巻
生命誌の提唱者、中村桂子(生命誌研究館館長)が一つひとつの生きものがもつ
歴史性と多様な生きものの関係性を示す新しい表現法として考案した図
協力:団まりな、画:橋本律子、提供:JT生命誌研究館


 では、それをどう考えていくか、どう見ていったらいいのか。この絵を見て下さい。「生命誌絵巻」と名付け生命誌研究館の入り口に展示してある私共のシンボルです。扇の縁に、現存する「生きもの」が描かれています。そして扇の要は、38億年前の「生きもの」の誕生の時です。おそらく地球の海で生まれたと思いますが、それが進化をして、多種多様な「生きもの」になってきた。この絵は、多様な「生きもの」が一つの祖先から長い時間の中で誕生してきた様子を表現しています。これが生命誌です。みな基本を同じくする多様な仲間の歴史と関係を、ゲノムを基本に読み解いていくのが生命誌研究です。

 この絵を見てお気づきになると思いますが、普通進化の図は、古いところにバクテリアなどが描かれていて、それがだんだん進化して頂点にヒトが描かれている。バクテリアのような単細胞の「生きもの」は下等でヒトは上等として描くわけです。生命誌絵巻は、バクテリアもヒトも生命誕生38億年生きてきたものとして同じ位置に描かれています。バクテリアは今も生きていますし、「生きもの」はその意味ではみな同じ歴史を持って生きているのです。すべての「生きもの」が38億年の歴史をゲノムの中に持っている。ゲノムを解析すれば、38億年の「生きもの」の歴史が、また、さまざまな「生きもの」同士の関係がわかるはずです。ヒトだけを調べてもヒトとは何かはわかりません。長い時間と多様な「生きもの」の中での関係を見てはじめて「生きもの」としてのヒトがわかるのです。「生きもの」同士がつながっている以上、そのすべてを見る必要があるわけです。こういう視点で「生きもの」を見ていかないとほんとうの「生きもの」は見えないという意味を込めて、現代は「生命」の時代だと申し上げたわけです。

 こういうことを日頃考えているわけですが、それをうまく伝えなければならない。自分が考えていること、自分の思っていることを、人に伝えられなければ、単なる私の思い込みに終わってしまいます。何か言葉で表さなければならない。探した結果「愛ずる」に出会いました。

 平安時代、つまり11世紀に書かれた『堤中納言物語』という物語の中に「蟲愛ずる姫君」というお話があります。京都の町に蝶が好きなお姫さまがいました。みなはそれには一緒になってきれいだと言います。その隣の大納言家には、毛虫を飼っているお姫さまがいたのです。蝶はきれいだけれど、みんな毛虫は苦手です。侍女は逃げ出すし、両親もそのお姫さまに手をやいていました。しかし、そのお姫さまは言うのです。「みんな蝶はきれいだというけれど、蝶というものは儚いもの。汚いというこの毛虫は、だんだん大きくなって蝶に変わるのではないか。この虫の中に本当の美しさ、命の本質があるのです。本質を見なければいけません。そして、本質が理解できればこの毛虫の美しさもわかり、愛ずる気持ちが生まれるのです」と。

 このお姫さまは、当時の化粧であるお歯黒や眉を剃ることもしないで、おまけに髪を耳にかけて、およそお姫さまの様子ではない。自然志向ですね。

 これはまさしく生物学です。本当に「生きもの」を見る生物学の精神がここにあります。このお姫さまが暮らしていた時代は11世紀。科学が西洋で始まったのは17世紀ですから、なんと600年も早く日本に科学が誕生していたのです。日本は明治になって外から科学を取り入れた。科学はその意味で借り物であり、日本にはオリジナリティがないのは、そういう借り物によって築いてきたからだというのが一般論です。確かにそういう面もあります。最初に言ったような20世紀型の科学技術は、まさにそうだったでしょう。でも、こういうお姫さまが過去にいらっしゃった。「生命」に関してはこのお姫さまの方がずっと早い。西洋の科学を基本に、今行われている生命科学より一つ先の「生きもの」の科学が、日本にあったのです。しかも、それがお姫さまだったのは、ちょっとうれしいですね。

 この「愛ずる」は、まさに「生きもの」を見る時の基本です。単にかわいがるのではありません。きれいだからかわいがるというのは「愛でる」といいます。「愛ずる」は、本質を見つめてかわいがることです。私たち人間は、赤ちゃんを「愛ずる」。本質を理解して育てます。鳥が雛に餌をやることや親犬が子犬におっぱいをやることは、「愛ずる」とはちょっと違います。

 しかし、「愛ずる」ことはとても時間がかかることです。よく見なければならないわけですし、本質を知るためによく考えなければならないわけですから。「蟲愛ずる姫君」は、毛虫から蝶に変化していく過程をずっと見ていました。それは、大変時間のかかることです。急いで早くやろうとしたら、それはもう「愛ずる」ではなくなります。とにかくよく見ること。ここが大事なポイントです。

 芭蕉の句に「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」というのがあります。なずなは、桜や牡丹のように華やかできれいな花ではありません。でも、垣根をふと見たら、なずなの花が咲いていた。これってかわいいね、そういう言葉が知らずに出てしまった。この句はそういう句だと思うのですが、このふと見た感じというのは、じつはよく見ていないと出てこない。植物をよく観察していてよく見ていたからこそ、さりげなくこういう言葉が出てくるのです。日本人は、このように「生きもの」を本当によく見ていて、そこに素晴らしさを感じ取っていた。それをわかろうとしていた。そういう感性を私たちは持っています。佐々木幸綱は「歌心は愛ずるだ」と言っています。

 歌や俳句の世界には、この「愛ずる」が活きていました。しかし、現代の生命科学には「愛ずる」は活かされていません。「愛ずる」は、「生きもの」を考える科学に活かせるはずです。日本にはその伝統があるのですから、「愛ずる」を活かした科学を進めたい。まさしく、それこそが「生命」の時代の科学だろうと思います。

 「愛ずる」を「LOVE」と翻訳した方がおられますが、ちょっと違います。訳すなら、「philosophy」の愛ではないか。「哲学」の「philo」は、「愛する」で、「sophy」は「知」です。「知」を「愛」するのが「philosophy」です。おそらくギリシア人は、「知」を「愛ずる」人たちだったのでしょう。この「愛ずる」を活かして、新しい時代をつくっていきたいと思います。

 ラファエロが活躍したのは、ルネサンスの時代です。ルネサンスとは、人間復興です。今、私は人間復興をやりたい。ラファエロの時代が第一のルネサンスだとしたら、これからは第二のルネサンスを起こす時です。そのキーワードこそ「愛ずる」です。21世紀を生命の時代にするために、私は「愛ずる」を大切にしていきたいと思っています。

以 上


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